友人の結婚式に行くと死にたくなる

さきほど結婚式に行った。もちろん嘘で、実際は先週の土曜に行っている。この文章は帰りの横須賀線で書いている。ずっと同レベだと思っていた知人が人生のステップを進めたので焦ってブログに現実逃避している? 殺すぞお前。

子の数学の能力は両親で決まるとか、言い訳したいだけだろ

私は遺伝学者ではない。遺伝学の学位も持っていない。したがって、この記事には間違えたことも書いてあろう。とはいえ、記述は正確さを心掛けるし、本文中の誤りのいっさいは私に帰されるべきものだ。では始めよう。

子どもの数学的能力を気にして伴侶を選ぶ――まず自分の立場をはっきりさせるが、これはバカタレの考え方だ。『知能の高いけだもの』とでも呼ぶべき立場だ。私は『考え方だと思う』などと逃げたりしない。これはバカタレの考え方で、私はその理由をこれから説明する。人類の愚かさは留まるところを知らず、それは悲しいことだ。

自炊するな。ガチでやめろ。人生終わる。

引越しをするついでに自炊――家の本の電子書籍化――を行った。以下はその時の作業メモ、および深い後悔についての記録である。短くまとめると、絶対に自炊はしてはいけない。自炊をすると最悪死ぬ。

百合根を暖めると好きな根菜発表ドラゴンが生まれる

生きている人間じゃないんだ。稲川淳二はこのように霊を述べる。それは 死んだ人間、すなわち死体であることを意味しない。腐敗し、動かず、そして荼毘に付されるべき単なる物質を意味しているわけではない。彼が説明しているのは、生きているという部分がない人間がいて、それがまさに彼の足元から忍び寄ってきている、ということだ。生きている人間じゃないんだ。これはこの世のものではないんだ。

これはもしかしたら馬鹿げて聞こえるかもしれない。人は死んでいるか生きているかのどちらかで(中間項は存在しない。生と死にかかわる議論はその境界をどこに引くかに注目している)、生きている人間ではないのだったら死体だ。それ以外はありえない。

しかしそうではない。死体と生きている人間の間に横たわる領域には、物事が存在しうる領域が存在する。現実の何かが掛け違ってしまった(もしくは、現実は常に掛け違いうるもので、実際に掛け違った)領域が存在する。そこでは時間が奇妙に歪んでいて、そこに存在するのは霊――生きてはいないが、決して死体でもないもの――だ。もしまだ不可解なら考えてみてほしい。霊はいるのか、そしているとしたらどこにいるのか。私が好きなのは『夜汽車での話』だ。

知り合いの息子

4月は出会いと別れの季節といわれる。真偽のほどは確かめようがない。だが、文明の進歩は画一化を促すから、遅かれ早かれ、4月と季節という二つの言葉が接続することは稀になっていくだろう。

話は置いておこう。高卒で結婚した知り合いの息子が小学校に入学する。 何か言ってくれと頼まれたので、私は次のような話をした。 これは私が通っていた小学校(そして彼も同じ小学校に通う)でよく噂されていた話で、確かに校舎はすっかり建て替えられてしまっているのだが、にもかかわらずまだ妥当な話のはずだ。

Page 1 of 20 | Next »