花火についていくつか

日記

おそらく風邪がなおった。ところで、私達は、何をもってか風邪が治ったと言うのだろうか? だるさが消えたとき? 頭痛が消えたとき? ところで、私達はどうやって、あなたの頭痛が消えたことを知るだろうか? こういった疑問は、大学一年生が持ちがちで、ウィトゲンシュタインが答えがちな疑問だ。
私はこれに関して、もうあまり踏ん張っていることができなくなってしまった。というよりも、哲学の意味を精神的な病気の治療とみなすなら、私はすでに、この疑問に関しては治療済みだ。
風邪が治ったと言いたいだけだった。なんでもいいか。

花火があった。私は上野のガードレール下で、飲酒をしていた。驚くべきことに、私にも友人がいて、彼らと一緒に酒を飲むのは、かなり愉快なことだ。酒がなければ、もっと素晴らしいことは言うまでもない。人生とはかくあれかし。
次は、その飲酒場(なぜ居酒屋と言わなかったのか? 私には説明できない。このようにして、僕は狂気を飼うことができる。間違えた熟語。あなたもやってみるといい。)の話だ。

その居酒屋(自分を裏切るのも常套手段だ。Yodel-yodel-ay-hee-hoo!)は安い酒場で、多くの人がとにかく手っ取り早くビールを流し込み、人生にもやをかけてなんとかしようという場所だった。もちろん、我々インテリも、この観点においては賛成するところのものであるからにして、「生5つ」はまさに祝詞であることぞかし。
なんでもいいか。

私が酒を飲みすぎて、しゃっくりを始めて、トイレから戻ると、隣のテーブルの男女と友人たちが話していた。彼・彼女の歳はわからなかったが、男の方は痩せていて、おそらく日常的に走っている人特有の体つきをしていた。

私達は私達の話を少しして、彼らは彼らの話を少しした。テレビに出ている私達の同胞は私達の良い代表ではないこと、欠席した私達の友人は、とびきりの人間だということ(これは全く疑いがないので、ここでももう一回、念を押す)。

時間が来た。続きは家で書こう。カポーティならこう書くだろう。7階に登る。