Tシャツについて
2018-06-01日記
私がどこにいるのかというと、研究室だ。今日は土曜日。二日連続で飲酒をした次の日。全く何もない日。六月の憂鬱なところは、常に誰かをだましているような気分になるところだ。花の色も変わってしまったことだよ。私が長い雨を見ながら物思いにふけっている間に。
なんでもいいか。
『闘争領域の拡大』を読んだ。自由の名の下に、私たちは経済格差を基本的には是認している。この場所、競争原理が支配する資本主義においては、結果として、多くの貧乏人が生まれ、ある程度の中間層が生まれ、そしてごくわずかな富豪たちが生まれる。もしかしたら、そのようにはならないパラメタのセットがあったのかもしれないが、とにかく現状はそうなっていない。
ウェルベックは、恋愛についても、同じような構造があると指摘する。
それは自由恋愛という名の下で行われる競争原理だ。これは顔がいいとか、経済的に富めるものが勝つような種類の領域ではない。自由恋愛と自由競争とは、二枚の重なった紙のようなものだ。一枚を動かせば、摩擦でその下にあるものも動く。しかし、ぴったりとは一致していない。あるものは高学歴で、しかも童貞のまま一生を終え、あるものは同様に高い教養を持ち、しかして毎日セックスに困ることがない。
そして、この闘争領域があること自体が問題なのではなく、1:私たちは、生まれついてからというもの、この闘争領域に強制的に足を踏み入れることになる 2:私たちはこの競争原理から逃れることができない ことが問題だった。
あなたにも初恋の記憶はあるはずだ。そして、その子を好きだったのは、 あなただけではなかったはずだ。
あなたはそれを殺したい、またはそれに準ずることをしたいと思ったはずだ。それがまさに、あなたが、闘争領域に足を踏み入れた瞬間だ。あなたは自分からそれをした。そしてあなたはそこから出ることはできない。あなたは自分を正当化するしかない? どうやって?――その闘争における勝者になることで。
私たちは単なる動物――地に殖えよ―なのか? それとも、繁殖の呪いから、なんとか抜け出すことができるのか? 一方で、そのことは、私たちが絶滅するということか?
絶滅。なんて偏向された言葉だこと。我々は単にみまかることができるというだけだ。
なんでもいいか。
『すべてはモテるためである』を読んだ。これはかなり面白い。もちろん、僕は『プライドが高くてキモチワルイ』男に属する。うーむ。かなり反省だ。すぐ使えるテク(自分の趣味について話しすぎない)等があって、応用哲学の趣もあり、いい。こういう手の本を読むのは、実際に初めてで、結構びっくりした。こんなに明示的に書いていいのか! みたいな。
どうでもいいが、僕は筋肉モリモリマッチョマンの変態が、ガーリーなことを書いているのが(また、それを読むのが)好きなのだが、彼の中にある、戦隊レンジャーで言う所のピンクやイエローの部分を見ることができるからだ。千文字に二十文字くらい、そういう部分があり、彼らのピンクイエロー性を読むたびに、僕は『内核』と言った種類の言葉で表されるもんをのぞいちまった気分にもなるっちゅうこんずら。
ところで、本当に彼女が欲しいなら、このブログを削除して、各種SNS(僕はこれを病的な目的のために使っているが、あなたたちもそのことをよく見ることができる)を閉鎖し、とっとと平常時に戻ったほうがいいのであるが、実のところ、そうはなっていない。これはなぜなのか? 私が変わることを恐れているキモチワルイ変態なのは事実としても……。
別に、暗黙的にするまでもないが、私の介護をしてくれる、わずかの人たちが、私がこのままでいることを許容してくれるから、というのが理由だ。私は甘えているだけだが、この世には時系列というものがあり、彼らが私を許容してくれたのは、全く、私が彼らをいいやつらだと思ったのより、後なのだ。
なんでもいいか。
私はTシャツについて書くつもりだった? Tシャツについて語ることはあまりにも少ない。だから、時折、ぼくはそれについて長くとりとめのない話をしたいと思うのだが、今はその時ではない。だからTシャツについての話はなしだ。あなたは私を殴ることができる。