間違えた若さについていくつか

日記

織姫と彦星。私達はおそらく夢を見すぎている。たった一組の恋人たちに、何をか望まん。ゆっくり寝てしまえばすぎる夜だ。数十年前の七月六日、甲府の空にはB29が飛び交い、油の火が人の皮膚を焦がした。たった少しの水だに、彼ら天上の恋人たちは、差し出すことができなかったということだよ。
個人的な倫理にまかせて言えば、死に瀕している者へ、そのような仕打ちをした恋人たちに、私のいかなる願いも、成就してもらいたくはない。織姫、あなたの手はとてもよくない。

おそらく私は中程度に性格が悪く、そしてこれからもそうだ。あなたは私を非難できる。

ところで、私の過去の悪行に対して、私はどのようなみそぎを行えるだろうか? そもそも、そのようなみそぎが許されるのだろうか? とにかく、わたしの手はとてもよくない。私は最近、このようなことをよく考えている。私は加害者の立場でものを考える。この立場においては、誰かを恨むことをしなくてよい。

嘘の日記−−願いに関して言えば、手に入らないことよりも、間違えたものを手に入れ、そして、周りの人々から、あなたが手に入れたものはあっていると言われることのほうが、耐え難いもののように思われる。
多くの場合、願いの成就というのは、他者の行動に依存して叶ったかどうかが決まる(誰かを所有したい、であったり、何かと一緒にいたいなど)。そして、あなたが願いを成就したと、誰かが判断したとき、その人は、おそらく、これ以上、その願いの観点から、あなたに手を貸すことはしないだろう。これは単に、達成されたものを再び達成することは不可能であることによる。あなたの願いは成就していないにもかかわらず、それが非常に成就しているように見えるため、あなたは放擲される。
なんとまあ、私も間違えたものを手に入れてしまったことだよ。