僕に祖母はいないんですよ

「僕に祖母はいないんですよ」とある人が言うとき、その人の親の少なくとも片方は無から(Ex nihilo)生まれている。つまり、その親は神が自分を象って作られたものかもしれないし、またその造物の肋骨を核に作られたものかもしれない。ただ、この設定はあまりよくないだろう。神秘と近すぎるところにいる人間は、結局、神秘に照らし合わせてでしか解釈されない。

審美的な観点からすると、彼は「僕に曾祖母はいないんですよ」というべきだった。こうすれば、彼は神秘と十分な距離をとることができるし、彼の生涯をかけて曾祖母の墓を――存在しない墓を――探すことができる。

これは親子三代に続くサーガになり、これは人類の発展を遡上するような形で語られるだろう。極めて抽象的かつ人工的な都市である東京を離れる。帰省した山梨のど田舎で、自分が実は養子だったことを知る。そして、テレビが白黒になっているのを知る。「なんで白黒テレビなんだよ」「白黒じゃないテレビってなんだよ」。汽船に乗って大陸に渡る(ここで丸い眼鏡をかけた髪の短い女に出会う)。ウラル山脈を二人で歩いて行く。愉快な出会いや性のほのめかしがある。やがて女が死ぬ。一人の旅が続く。そういう類いのサーガだ。物語の画面は、近景から徐々に遠景に映っていき、色調は青に近づく。すべてのものがヴァニタスとして寓意性を持ち始める。個というものがほぐれていく。彼の旅は形而上学に近づいていく。たき火の周りで、歌と踊りと語りが混じり合っていたところに戻っていく。それは彼が神秘に近づいていくからだ。おそらく――これは絵画的な要請だが――最後にこの物語は東京へ回帰するべきだろう。なんとかして。

いちおう注意しておくが、「ルーシーなるアフリカ人が初めての人類」という意見は本当に間違っている。ルーシーにも親はいたし、友人も――望むらくは――いた。というかそいつは多分ルーシーという名前ではなかった。誰だよルーシーって。こういうの全部ビートルズのリンゴ・スターが悪いんだよな。ほんとあいつ。

Disqusについて

コメ(コメントの略)をカキコするためにDisqusを使っているが、どうやら投稿が表示されない場合があるようだ。これは本当にひどい話だ。客観(?)的にどうの、というのではなく、主観的にこれはひどいと思う。自分が書き込んだコメントが表示されなかったら、少なくとも私はキレる。

従って、コメ(コメントの略)が表示されない苦情を言う人の憤りはもっともだと思えるし、これはDisqusをよく知らないまま使っている私が悪い。申し訳ない。すいませんでした。

Disqusを消せば解決する問題ではある。ただ、先日の記事のように、コメ(コメントの略)欄が有益な使われ方をすることもあることから、私はなんとかして、コメント欄の機能自体は維持したいと思っている。

Twitterについて

突然、メールが何通か来た。どうやらTwitterでブログが話題になっていたようだ。メールが来るとは思っていなかったので、これには驚いた。Twitterで見られたいくつかの批評は適切だったし、私が主に自分の快楽のためにやっていることに気がついている人もいた。例えば、細かい表現上の技術や、否定的な自己言及性についてだ。これは驚嘆すべきことだ。

一方で、そのように文章を精査できる人の中には、私について調べる人がいる。もちろん、私は歴史性のある人間だし、ググれば『星空文庫』とか『新都社』とかに書いた数年前の小説が発掘されるし、何よりも重要なこととして、これらは依然として私が書いたものだ。従って、私はこれらの中にある不道徳な内容(私は不道徳なのだ)について、私は責任をとらないといけない。私は過去の私に対して、弁護することはできず、責任をとることしかできない。

それはそうなのだが、今、18歳の時に書いた短編が発掘されるのはつらい。泣きそうになる。マジでやめてくれ、ください。なんだよあのクソ短編。

誤表記について

関連した話として、先日の記事でいくつか名前を間違えていると指摘があった。あのような記事は細部の重要度が高く、このようなミスを(事後的にではあるが)減らせるのは喜ばしい。

そのうち、元記事の誤記も修正する。

いくつか

最後にいっておくが、私は依然としてブログでやっていこうと思うし、Twitter等のSNSをまた始めるつもりはない。手軽な共有ボタンもつけないし、クラシカルかつ郷愁的な拍手ボタンもつけない。Google analytics系のツールも使っていない(このブログをホストしているnetlifyは使っているかもしれない)。

思うに、私は人からの反応というのにめっぽう弱い。ちょっと Twitter ( ツイ ) オタク ( ピョタク ) の間でバズったら、意気揚々とブログを更新するくらい弱い。ちょっとおだてればなんでもする。やろうと思えば、あなたは私のアナルのしわの数まで知ることができる。肛門のしわの数は、私的な領域に属する、他人に知らせたくない数の一つだと私は思う。従って、私は自衛のために、あなたたちからの反応を直接的に得る方法を意図的に避けている。これは私の思想であり、あなたはいつでも私に難癖をつけられる。

本来、このような極めて業務的な内容を伝えるためにこのブログは更新するべきではない、ということも付記しておこう。小学校の時、富貴という名前のクラスメイトがいたことを思い出した。彼/彼女が何をしているか、私は知らない。

人は忘却するものだ。