新作告知と梅光学院大学におけるオリジナリティについての記憶
2022-12-27新作について
anon pressに原稿を投稿した。今週の水曜日から1週間(1/3くらいまで)は無料で読めるはずだ。年末年始の娯楽にどうぞ。ハートマークをつけてもらえると、私が嬉しくなる。ところで教訓を1つ――人生は他人を喜ばせるためにある。
今回は青山新さんと樋口恭介さんに大変お世話になりました。ありがとうございます。
また、12月からライフワークバランスが適正化されたので(以前はそうではなかった)、原稿をたくさんかけるはずです。ぜひぜひ ikkaidoh@gmail.com までご連絡ください。当方、27歳男性、明るく、気さくです。原稿料は貰いますが、無知なのでうまくやれば買い叩ける可能性があります。
梅光学院大学におけるオリジナリティについての記憶
私にも大学1年生だったことがある。ああ、兄のジーンズを履いて、もさもさの髪の毛に春の風を含ませていた18歳の少年。入学してすぐの5月、私は小説を書いて、サークルの雑誌に載せた。小学校3年生、『たからものをさがしに』の単元以来の小説だった。
私の小説への文学部3年生の評。あとがきがないのがいい――サリンジャーもあとがきは書かなかった。
その時から、私はあとがきを書かない。どれだけひどいものを書いても、少なくとも一つの長所があるからだ。ええ、たしかに内容には修正すべき点がみられるでしょう……しかし……あとがきはありませんよ……というわけだ。
これは嘘だ。私は『たからものをさがしに』以来、ずっと書き続けている。その分の時間を愛の訓練に使っていれば、今頃、私は月で新婚旅行をしていただろう。不死の薬を燃料に使って。
16歳の夏、山口県の梅光学院大学で小説の講座があった。両親に「行きたいんだけど」と言うと、彼らは資金を工面してくれた。実家、太すぎて草である。
Yahoo!乗り換えのページを印刷して、甲府駅のみどりの窓口まで行った。このチケットをください。駅員の女性は「山口県との往復チケットがほしいんですね」と聞いた。私はそうだと答えたが、おそらく、私は別のように答えるべきだった。違うんです、僕が欲しいのは作家だけが行ける駅へのチケットなんです。
何にせよ、私は正しい(つまり、間違えた)チケットを手に入れた。夏のぱりぱりした風が私の汗を乾かした。武田通りの桜が柔らかい葉っぱを西に向けた。君が行くのは向こう。私はまだ16歳で、ポケットにいつも四つ折りのルーズリーフを入れていた(私の肩にはまだ精霊が座っていた。さあ、子供よ、そいつが囁く言葉をボールペンでなぞって、夜の孤独な糸仕事に備えるのだ)。
山口県までのバスは目出し帽を被ったバスジャック犯が奴隷船もかくやと詰まっていて、網棚の上には爆発物が押し寿司みたいに並べられていた。運転席の横にあった精算機はこじ開けられて壊されていて、その鉄でできた花弁の中央に生えている雌しべは誰かが使った注射器で、雄しべは何かが入っていたアンプルだった。花火のあとの臭いがした。運転手の目はイッていた。その通り。誰も本当のことには興味がない。
バスは私を山口県まで運んだ。これは本当の(つまり、嘘の)ことだ。
梅光学院大学には眼鏡をかけた女の子がたくさんいた。彼女たちはみんな小説を書いていた。そのうちの1人は私に『ロリータ』を読むことを勧めてくれた。緑色のブレザーを着た子だった。彼女はやたら私の目を見ながら話した。大丈夫、ズボンはまだ下げなくていい。私がジャンパースカートの構造について詳しくなるのは、もうちょっと経ってのことだ。
次の日、その小説好きの子どもたちは、親指と人差し指でつまめるくらい小さな教室に集められた。今日は大学で小説の研究をしている先生に、小説について教えてもらえるんですよ。
オリジナリティとは何でしょうか? 教壇に立った若い教員はそのように授業を始めた。
私が話す言葉にはオリジナリティがあるでしょうか? いいえ、私は両親から言葉を教えられています、ですから、これはオリジナルなものではありません。書き言葉も同じです。もし、私が本当にオリジナルな言葉を喋ったら、誰も私の言うことを理解できませんよね。
また、単語の繋がりにオリジナリティはあるでしょうか? あるものもあります。ごく一部の比喩はそうかもしれません。しかし、その他すべての文章は、どこかですでに書かれたものを持ってきているだけでしょう。つまり、オリジナリティはここにはないのです。
では、文章の流れ――ストーリー――にオリジナリティはあるでしょうか? いいえ。この世にはストーリーの作り方が溢れています。それに、私達がお話を作るとき、私達は今まで見てきたもの全てに影響を受けています。その通り、ここにもオリジナリティはないです。
そして、彼はネクタイのディンプルの部分を人差し指で叩いた。私達が思うような『オリジナリティ』は存在しないのです。
もちろん、インテリの読者諸氏にとってはこの性質はあまりにも当然過ぎて、水平線で区切られて書いてあるだけで笑顔になってしまうかもしれない。
しかし、16歳の私にとって、これはあまりにもインパクトがでかかった。だって、じゃあ、今まで、みんながもてはやしてくれていた『創造性』ってなんなんだよ……。教室はやけに静かだった。
私はここから、何を書けばいいのかよく分かっていない。もちろん、インテリたる私にとって、このテーマと機械学習、ベンヤミンの言うところの『アウラの消失』、そして検索と生成の関係について一席ぶつなど造作もないことだ(そう、レンブラントプロジェクトについての言及を忘れずに)。
しかし、このブログのテーマはそこではない。ここには何か重要なものごとがある。単に複製時代の芸術の話でも、Wikipediaの作家のページについて回る『影響を受けた作家』のセクションでもなく、何か別の物事が間違いなく存在する。16歳からもう10年近く経っているのに、私はまだこの周辺をうろつきまわっている。