四月は最も冷酷な月

四月は最も冷酷な月、芽吹く

ライラックが死んだ土地から、混ざり合う

記憶と欲望が

(エリオット 『荒地』)

先日、『大烏』というポーの詩の輪読会に参加した。それが終わった後の雑談で、エリオットの『荒地』について知った。私はその冒頭に見覚えがあった。同時に、レモンの味も思い出したが、それはイカした共感覚ではなくて(詩と味覚!)、懐かしい記憶が一緒に引き連れてきた友人なのだろう。

四月は最も冷酷な月、芽吹く――冒頭に掲げたこの三行が、A4の紙にマジックで書かれて、緑色のクッション材で覆われたメッセージボードに張り付けられていた。それは私がおそらく六歳のときで、私たちの家族はまだ小さな社宅に住んでいた。古い社宅だったらしい(マジレスすると、子どもにとって『古い』という概念はあいまいだ。子供にとってはすべてが古いともいえるし、新しいともいえる)。風呂はシステム釜で、秋になるとキノコが生えたと兄は今でも郷愁的な感想を述べる。私が覚えているのはその風呂釜を追い炊きするときの音だけだ。それは端的にスーパーファミコンの『星のカービィ3』のラスボスが出てくるときの音に似ていた。私にとっては『星のグーイ』だったのだが、これは選民的な冗談だ。

風呂釜の話はよそう。ライラックが死んだ土地から、混ざり合う――間違いなく私が小学校二年生の時だ。というのも、この文言を読んだとき、まだ太陽の光がメッセージボードの下端のアルミフレームを照らしていたことを私は覚えているから。そして小学校二年生の時は、水曜日と木曜日が半日だったから。問題は、私の中で小学校二年生が何歳に相当するか、その(対応表ではなく)実感を伴った認識がないことだ。私はもう二十八になろうとしている。記憶は記録とは異なっている。それに、その頃は、私はぜんそくか何かで医者にかかったり、入院したり、とにかく何もかもが混乱していた。記憶もあやふやになろうというものだ。

それを書いたのは、間違いなく――偽名を使おう――井上という年配の女性だった。記憶と欲望が。彼女の手(筆跡のこと)は几帳面で、道路に書かれた注意書きのように見えた。これも間違いのないことだが、彼女は専業主婦で、その日もベランダから私のことを見ていた。そう、私たちの家族は二号棟の確か5階に住んでいて、井上さんは向かいの三号棟に住んでいた。ベランダには青い物干しざおがかかっていた。彼女は私のことをなんとなく眺めていた。私はそう記憶している。


まだ思い出すことができる。井上さんの家には子供が一人いて、私の一つ下だったと思う。名前は忘れてしまった。五歳のとき、彼の部屋に遊びに行ったとき、井上さんは私たちに飴玉をくれた。私はレモンの飴をもらって、彼は――たぶん、パイナップルの飴をもらった。記憶は正確ではないが、おそらくそうだったと思う。白い袋にレモンの写真が印刷してあって、『50』という数字もあったような気がする。私たちは石鹸できれいに手を洗ってから、それをなめた。

そのとき、(便宜的に呼ぶと)井上くんが飴玉をのどに詰まらせた。私は急いで部屋の外に出て、階段を駆け下りて集合住宅から出た。ヤツデの陰に潜り込んで、井上くんが死ぬのだと思っていた。要するに私は井上くんを見捨てたのだ。しばらくして、泣きながら部屋に戻ると、井上君とその母親は暇そうに教育ビデオを見ていた。この話にオチはない。とにかく、私はレモンの味がどこから来たのかを知ることができた。記憶のつじつまが合うのはいつだって満足感がある。

確か、井上君の家は何かの宗教を信仰していた。実際は、はっきりとその名前を書くことができるが、私はそれを避けることにする。というか、私はそれを書くことに強い抵抗感を覚える。おそらく私が適度に道徳的ということだろう。

私がその宗教から特に被害を被ったということはない。むしろ、井上さんは年に四回、季節の変わり目になると、集合住宅の裏手でジュースパーティを開いてくれた。そこにはその宗教の友人や、私や、私の兄弟や、そして社宅に住むほかの子供たちが集まっていた。ジュースは主に『なっちゃん』だったと思う。当時、私の家族はかなり貧乏だったから、そのパーティがジュースを飲める貴重な機会だった。そう、家で飲めるジュースと言ったら、粉のレモネードだけだったと思う。母親が誰かから安く譲り受けた、バカでかい紙の箱に入ったレモネードだった。

ただ、七歳くらいからそのパーティに参加した記憶はない。


井上さんはそのあたりで引っ越したのだった。そう、だから私はあのメッセージボードのことをよく記憶している。どこかのパートから帰った母親に、私はなんか面白そうなことが書いてあったと告げた。母親は私にメッセージボードの文言を教えてくれた。もちろん、私たちはエリオットのことなど知らなかったから、やはり宗教に帰依すると霊妙なことも書くのだろう、という結論に達した。そして数日後に、井上さんは引っ越したのだと母親は告げた。確かに、そのあたりで、井上さんがベランダで私のことを眺めているという記憶もなくなる。青い物干しざおの前に立って。少しうつむきながら、体を揺らしながら。

井上君とはどのように別れたのだったか? いまいち、思い出すことができない。私の中で、井上君の記憶は出会ってから仲良くなって別れる、といったような、回転覗き絵のような記憶というよりはむしろ、偶発的に撮られた数葉の写真というべきものになっている。飴玉と、コープの発泡スチロールの箱を投げ合う遊びをしたことと(むろん、恐ろしいほど怒られた)、そして砂場の記憶くらいのものだ。

砂場――砂場があったはずだ。社宅の裏手には砂場があって、蟻の背中くらい小さい滑り台が併設されていた、それの向こうに階段があった。その階段を降りると、思い起こすと一メートルくらいの高さしかないフェンスが張り巡らされていた。さらに歩くと、大きな杉の木があって、その脇はフェンスが一メートル程度寸断されていた。その簡易的な門が、『社宅の世界』と『外の世界』を切り分けていた。少なくとも、子どもの時の私にとってはそうだった。大人と一緒ではないと潜り抜けてはいけない神聖な門だった。

私はどうも妙に脱線しがちだ。今は砂場の話をしよう。その砂場はとにかく小さくて、頑張っても二人くらいしか入れなかった。誰も砂を入れ替えているようには思えなかったし、近所の猫がふんをしたせいで、ひどい臭いがした。しかし、なんにせよそれが私たち社宅の子供に与えられた砂場だったため、なんにせよそれが砂遊びのメディアなのだった(この文章はひどい)。

なぜ、井上君と砂場が結びついているのかはわからない。いつからか――それも同じくらいの時だったする。つまり、小学校二年生の四月、母親と砂場の近くでつくしを摘んで、卵とじにして食べた日の近くだったと思う。確か、その付近のどこかの日で、猫が砂場を本当にひどく汚してしまったから、砂場が使えなくなったのだったと思う。私もうすぼんやりとその記憶がある。赤茶色に汚れていて、確かにこれは取り返しがつかないだろうと思った。砂場は閉鎖されて、連帯責任として滑り台も使用不可能になった。そういうものだ。


死んだ土地から――裏手には大きなドラム缶があって、井上さんが珍しく何かを燃やしていた(しかし、煙の記憶はない)。それは恐ろしくさびた赤いドラム缶で、井上さんは近くのブロックを積み上げて簡易的な『かまど』を作っていた。彼女は私のことを見た。そして短く警告した。違う。私は近づいたのだっけ? 違う。私はベランダから見ていたと思う。これが正しい。私はベランダに立っていた。そう、いつかの午後早く、一人で私はベランダに立っていた。まだ他の子どもたちは学校にいた。大人たちは仕事に出て行っていた。老人たちは家の中でテレビを見ていた。私はベランダに立って、井上さんがドラム缶の前に立っているのを見ていた。彼女が振り向いた。そして私に降りて来いといった。私は降りて行った。私は彼女に会いに行った。レモンの味。


四月は最も冷酷な月、芽吹くライラックが死んだ土地から――今、思い起こすと、その四月は多くのことが起こりすぎている気がする。砂場は使えなくなったし、井上さんは引っ越した。私は病院に通うことになった。これら三つの出来事は私を少し不安な気持ちにさせる。

病院――私は喘息の治療をしていたような気がする。しかし、どうやらこれは思い違いだと思う。喘息を患っていたのは私の兄で、そう、間違いない。エバポレーターの小さなバイクのような音、不思議な形の吸入器を咥えている兄の姿を覚えている。彼が病室で、母親から「テレビカードを使いすぎるな」と言われたことも覚えている。だから、私はたぶん、別の病気で入院していたはずだ。砂場は血で汚れていた。


記憶と欲望が混ざり合う――記憶というのは不思議なものだ。私が入院していたことは間違いないと思う。雨宮という看護師の方がよくしてくれたと思う。彼女は髪を茶色に染めた若い女性だった。主治医は……主治医のことは思い出せない。病室の床は青を基調としたマーブル模様で、私は点滴もしていなかったし、薬も処方されていなかった。毎日、主治医が(そう、主治医は間違いなくいた)来て、私と話をして帰っていった。レモンのことを思い出すんだよ、と彼は言っていた。レモンの写真も持ってきていた。バカみたいな話だ。彼は記憶は薄れるものだと言っていた。レモンの味を思い出して。レモンと言って。記憶が昇ってこないようにして。思い出さなければ絶対に思い出さないようになるから。


井上君が猫を殺したんだってと母親が告げた――というのも嘘で、私が実際に彼の犯行現場を見たのだ。しかし、六歳児が猫を殺せるわけがない。だからこれは実際はありえない記憶のはずだ。これは捏造された記憶だと思う。六歳に満たない男児が猫を殺すことはできないから、こんな記憶はありえない。私が子供時代をドラマチックに書いたのだと思う。

ブロック塀を使うんだと彼は言った。彼は砂場が猫のふんで汚れていることを許さなかったし、猫が消えればうんちも消えると言った。エサは十分にあった。彼は小さな石をもって猫の脚を叩いた。茶色の猫だった。そしてブロック塀を持ち上げて落とすことを何回か繰り返した。私にもそれをやれと言った。そして私はそれをやった。井上君はレモンの飴でのどを詰まらせて――そう、このエピソードは医者から教わったのだった。井上君は死にそうになったのだが、私は見捨てて、また戻ると、井上君の家庭はごく普通の家庭に戻っている。だから何も怖がることはない。青い物干しざおから彼の母親が私を見ている。


あなたも猫を殺したのかと彼の母親は聞いた。私は首を振った。彼女は本当にそうかと聞いた。私はうなずいた。私は見ていなかったといった。ドラム缶の前には彼の靴がおいてあって、靴下が丁寧にしまわれていた。ドラム缶はとても巨大で、そう、私はベランダに立っていたのだから、その中身を見ることができた。私は首を振って、今日は水曜日なのだと言った。私は家に帰って、次の日の準備をした。


井上さんは物干し竿にタオルをかけて、そこで首をつって私のことを見ていた。彼女の体がぐらぐらと揺れていた。母親はエリオットの詩を読んで、集合住宅の玄関を私と一緒に出た。そしてぐらぐらと揺れている彼女のことを見た。そして私に目をできるだけ強くつぶるように言った。しかし井上さんは私のことを見ていた。

井上さんは四月のいつかに引っ越して、それはあまりにも急だったから、私は彼女の息子にあいさつする時間すら取れなかった。なぜならそれは本当に突然で、あまりにも急だったから。思い出さなければ思い出さないようにいつかなるから。もうあれから20年は経っていると思う。医者は間違えている。砂場は猫の血で汚れていて、汚い毛布のような猫を私はそこに置いて家に帰ってレモン色の石鹸でよく手を洗った。井上くんは母親に殺されている。その母親は私を見つめながら自殺した。そしてそれはそれほど簡単に忘れられるものでもない。ライラックが死んだ土地から芽吹き、欲望と記憶が混ざり合う、ぼんやりした植物の根を春の雨が刺激する。四月は最も冷酷な月だ。