リアリティーショーを批判しているオタクもVTuber見てんじゃん
2020-05-28まだバーチャルユーチューバー1見てるポタクおる?w 魔剤?w 今すぐやめろ。今すぐにだ。お前のために言ってるんじゃない。そいつのために言ってるんだ。
これは何
この記事で、私はバーチャルユーチューバーの不完全で淡白な小史を書く。その後、この小史の中で何が起こったかを書き、そこから何がわかるのか、なぜこのコンテンツが好ましくないかを説明する。そしてとるべきだと私が思っている方向性について話す。
はじめに
きっかけは何だったんだろう?
バーチャルユーチューバー(以下、VTuber)を見ているオタク諸氏、見るようになったきっかけを覚えているか? それは、みんなが見ていたからかもしれない。なんとなくTwitterで盛り上がっていたからかもしれない。絵の練習がてらかもしれない。
私がVTuberを見るようになったのは、今はやめてしまったTwitterで、2017年の冬、フォロワーがキズナアイの動画をリツイートしたのに端緒を発する。そこでは、キズナアイなる3Dキャラが必死にバイオをやっていて、柵が乗り越えられないだの、「犬が犬!」だの「ババア許さねえ!」だの、よくわからないことをやっていた。それはちょっとヘンだった。新しい表現のような気がした。何よりキズナアイはかなり可愛らしかった。
それから、私は少しずつVTuberを見るようになっていった。特にシロがお気に入りになった。論考もいくつか目にした。例えば、ナンバユウキ『バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ』があげられる。これだけあげると、私がスカして身体性がどうのと言いそうに見えてしまうだろうから、たまごまご『バーチャルYouTuber「シロ」がファンの心をがっちり掴んだワケ』もあげておく。
なんにせよ、私個人がどのような観点でVTuberを見るようになったかというと、
- 3Dキャラが好き(『RWBY』の一期と二期は私のお気に入りだ)
- 「アニメキャラがYouTubeを始めた」という感覚が新しかった
- 技術的に進歩の余地がありそうに見えた
- うまく社会に適応できない人を救済しているように見えた
あたりがあげられる。これを読んでいる人も、まあどれかしらは当たるだろう。もちろん、とにかくかわいいというのも立派な理由の一つだ(恥ずかしいから書かなかっただけだ)。
とにかく、VTuberには一過性でない新しさがあった。それが何を見せるか、私は興味があった。何が起こるんだろう? 火のつき始めた焚き木を眺めるようなわくわく感があった。もしかしたら、多くの人がアバターを持つようになるかもしれない。物語の形も新しくなるかもしれない。化学反応が起きている予感がした。げんげんが世界をかき回して、のらきゃっとがオタクの心をつかんだ。技術によって、表現がまた少し進んだことがわかったが、それが一体何なのか、私にはわからなかった。
しかし、私の思ったようなことは起きなかった。
2018年初頭に、ミライアカリプロジェクトや輝夜月、電脳少女シロが『発見』された。TwitterをはじめとしたSNSで拡散する。私もこのあたりで本格的に見始めた。ときのそらやYUA/藤崎由愛が『発見』され、企業のバックアップをもらっていないところでは、バーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさんが有名になった。
私はYouTubeにハマっていった。とにかく変なやつがたくさんいて、それぞれがお互いに言及しながら、でも隔絶された世界で暮らしていた。輝夜月がキズナアイのことを「親分」と呼び、TheReportOfTheWeekとidubbbzのような関係になっていった(どちらもアメリカのYouTuber)。それは不思議な感覚だった。『ゆるキャン△』と『ソラとウミのアイダ』のキャラクターが話し合っているような感じがあった。Twitterでファンアートが大量に作られていた。享楽的な日々だった。のらきゃっとの中の人がうっかり現れてしまったが、のらきゃっととねずみさんの関係は崩れなかった。だってのら様はかわいいんだ。
それからも、動画配信サイトSHOWROOMやビリビリ動画で東雲めぐやDDが登場し、YouTube以外の場所でも『バーチャルアイドル』と呼ばれるキャラクターが企画される。個人で行うキャラクターとしては、届木ウカやカフェ野ゾンビ子などがいた。彼らは……独特だった。あり得るキャラクターの空間が次々と埋められていった。亡霊が出てきた。球体が出てきた。何かよくわからないものも出てきた。VRChatとの反応で、次々に得体の知れないものが出てきた。それは娯楽でさえあった。毎日、目を開けるとよくわからないものが出てくる。
2018年の春が来た。そのときにはすでに(現在は独占的な位置を占めている)にじさんじが興っていた。特に、月ノ美兎が生放送で3万人近くの視聴者を集め、話題になっていた。企業でも何人か――燦鳥ノムや根羽清ロート(2020/06/06:これは根羽清ココロのことだった)など――が出てきたが、さほど人々の耳目を集めはしなかった。電脳少女シロにはアイドル部というグループのVTuberが生まれた。配信は生放送中心に移りつつあった。GemsCompanyがひっそりと活動を始めたが、やはり流行に取り残された。もはや3Dモデルなどどうでもよくなりつつあった。
私は徐々に、彼/彼女らを見る時間が取れなくなっていった。小さな違和感があった。ときおり、「これはなんなのか?」と思うことがあった。インターネットでは、『10窓(ウィンドウを10個開く)してすべての生配信を見る』というような記事があった。私にはその面白さがいまいち分からなかった。にじさんじと似たようなグループが大量に発生した。ハニーストラップ。アマリリス組。ENTUM(これはやや違うが)。『ぴぐまりおん。』。
コラボレーション企画が次々と開かれていた。5chのYouTube板では例えばアイドル部スレ等、グループ専用のスレッドが乱立した。それらは7分で1000カキコレベルの速度を持つこともあった。私はだんだん無感覚に陥っていった。これは楽しいのだと思おうとした。
確かここら辺だったはずだ。ときのそらの誕生日配信がニコニコで執り行われていた。ときのそらがピアノを弾いて、モーショントラックの精度が「どの指がピアノのどの鍵盤をたたいているか」まで現実世界と整合するようになった。
私はこれを多かれ少なかれ感動を持って見ていた(と私は過去の感覚を美化する)。
2019年のお正月あたりに、『バーチャルさんが見ている』というアニメーションが放送された。ひどいアニメだった。ホロライブ(ときのそらの姉妹?グループ)に次々と人が追加された。登録者の多いVTuberが3Dモデルをもらったりしていた。進化の速度は停滞しつつあった。コラボ企画、オフ会、遊園地とのコラボ、凸待ち、マインクラフト共同サーバー……私はほとんど面白さを見いだせなかった。ニコニコ動画では『切り抜き』と呼ばれる、生配信の見所とやらを切り取った動画があげられていた。私は見る気になれなかった。
『ゲーム部プロジェクト』と呼ばれるグループが演者に関連した不祥事を起こし、実質的に表舞台からいなくなった。多くのファンは失望するか、怒りをあらわにした。見ていなかったファンはただ笑うだけだった。VTuberを見てもいない人は、単に「やっぱりグレーなんだねノリが」くらいの反応だった。『アイドル部』と呼ばれるシロの姉妹?グループも問題を起こした。契約を解除された人は楠栞桜という名前で活動を再開し、今までいたメンバーの登録者数を超えた。それを見てまたインターネット上では争いが起きた。
2020年に入っても、状況は変わっていなかった。人々は生配信をしている。コラボをしている。5chやTwitterで人々は色々言って、やれてえてえ、やれトレンドに入ったと盛り上がっている。私は当惑している。私はこういう風になるとは思っていなかった。
どこでこうなってしまったのだろう? きっかけは何だったんだろう?
短くいえば、この数年の間で、次のようなことが起きた。まず、VTuberは変質し、配信はリアリティーショー化した。加えて、FaceRig/Live2Dによる廉価化により、大規模に視聴者を囲い込める企業が優位に立ち、スーパーチャットによる商業化も同時並行で進んでいる。
もちろん、これら三つの観点は、エンターテインメント性の向上、VTuberの手軽さの加速、そしてマネタイズの成功と言い換えることもできるだろうが、次の章で、私はむしろこれらの負の面に焦点を当てて話をする。
実際に起きたと私が思っていること
VTuberのリアリティーショー化
VTuberをやる方の立場を考えると、二つ、大きな特徴がある。
一つ目は、自分はこのキャラクターであるがこのキャラクターでないということだ。例えば、富士葵のキャラクターを演じる人は富士葵そのものではない。電脳少女シロを演じる人も、電脳少女シロそのものではない。これは極めて当然のことだ。これはVTuberの話題においてはタブーとされることもあるが、私はそんなのは極めてどうでもいいと思う。そのタブーは単に『よいこのおやくそく』でしかない。
何にせよ、VTuberのキャラクターを象徴するアクター(アクトレス)は、キャラクターそのものではない。彼女たちは自己紹介をするたびに、そのキャラクターになり、収録や配信が終わるたびに、元の人に戻る。VTuberの魅力というのは、富士葵からにじみ出るそのアクトレス(アクター)の人格にもある。電脳少女シロがウケたのは、演者のパーソナリティによるところも大きいだろう。電脳少女なのに伝記を読むんだね、とか、「電脳そぼろ丼を食べたんです」(電脳世界何でもある説)とか、そういうシュールさを楽しむ視聴者は多かった。
一方で、これをもって、「VTuberはユニークなんだ」というのは議論としてクソだ。声優だってこの特徴をもっているからだ。俳優だってそうだ。ピエール瀧はアウトレイジでも現実世界でも違法薬物に関連していたが、これは単なる偶然であって、多くの演者はキャラクターであってキャラクターでない。しかし、アドリブには彼/彼女らの性格や人生、バッグラウンドが出るわけで、それが彼らを唯一無二のものにしている。
じゃあ、VTuberって普通の俳優じゃん、単なる『中の人』がたくさん出てくるかどうかじゃん、という訳でもない。
二つ目の特徴は、そのキャラクターが閉じていないということだ。
他の創作物なら、俳優は綿密に打ち合わせて、どういうバックグラウンドがあるかを監督や原作者とすりあわせてキャラクターを決めていく。それでキャラクターは閉じる。『ジョーカー』において、ホアキンフェニックスはまあ頑張って役作りをしたが、それも関係者内部の話だ。観客がポップコーンを投げても、ジョーカーがまあ小人もついでに殺しとくかね、とはならない。声優もそうだ。選択肢によってストーリーが変わるNetflixのドラマも、我々は単にあみだくじを選んでいるだけで、究極的な関与はできない。すべては定まっていて、単にどれを選ぶかでしかない(全部の選択肢を見ることと、それらを直列につないだ映画の違いを考えてみよ)。
一方で、VTuberはそうなっていない。キャラクターは常に開いていて、常に変化しうる。
それも、本人や会社のシナリオではなく、視聴者のファンアートや潮流によってめまぐるしく変化する。これが新しいところだった。艦これのなんとかさんがレズビアンになったりカレーを食いまくったりするのと似ているがやや違う。フィードバックのループ、つまり、シロが何か喋り、Twitterの視聴者が何か言い、そしてシロがなんであるかが決められる。変化する。拡張され、また削り取られていく。すべてが演者の手の内にあるわけではない。視聴者にあるわけでも、企画会社にあるわけでもない。
これらの特徴が哲学的にどう、みたいなのはどうでもいい。重要なことは、この特徴は演者に綿密さを要求することだ。彼らはどうにかして整合的なキャラクターを演じなければならず、それはもしかしたら設定集の一行かもしれないし、自分が昔、口を滑らした一節かもしれないし(「あんこが好きなんですー」)、もしかしたらファンの間で勝手に醸成された設定かもしれない。それらを適切に守らなければ、キャラクターの 完全性 が担保されない。
この困難を乗り越えるために、2018年初頭は誰かが台本を書くことが多かった。もしくは、収録という手段をとることも多かった。収録ならば、演者は自分が正しく演じられているかチェックができるし、サポートしている会社も十分に精査した上でアップロードできる。キャラクターの複雑さは(なんにせよ)増していくが、それらは会社の規模が十分拡大できるならば、なんとかできる範囲にとどまっていた。シロもキズナアイも輝夜月もこのタイプのVTuberだった。
しかし、この活動方針は個人がやるには負担が大きすぎた。
彼ら――個人、または企業のバックアップが不十分なVTuber――は、生放送をするという手段に出た。台本はなく、演者はその場でそのキャラクターに合った反応をしなければならない。設定を忘れてはいけない。何を言ったかも。もしかしたら、自分は本当は地域の管弦楽団に所属しているが、設定上は高校のサークルかもしれない。三ヶ月前の設定と矛盾しないように。Twitterで勝手に作られた属性もきっちりとこなさなければ……。
驚くべきことに、このような極めて困難なロールプレイもできてしまう人がいるというのが人間の面白いところで、月ノ美兎はかなり上手にこなすことができたし、今でもしている。しかし、もちろん、彼女ができたからといって他の人ができる道理もない。
個人で配信している人々は、極めて残念であるが、むしろバーチャル性を捨てることで対処する。つまり、キャラクターの部分をほぼ完全に捨て去ってしまう。覚えることは一つ減る。自分がどんなキャラクターであるかはほとんど考えなくていい。ゲイのキャラクターならゲイであることを、巨乳のキャラクターなら巨乳であることだけを覚えておけばいい。もう『電脳そぼろ丼』などという必要はない。『そぼろ丼』でいい。
この転換は、もう一つのラベル――インターネット上のファンからつけられたラベル――を無視することをも可能にする。というのも、すでに彼/彼女たちはその人であるとしか見えておらず、友人に対して勝手につけたあだ名を本人が使わないのに対して怒らないのと同様に、別に生身の人間がインターネット上でつけられたラベルに反した行動をとっても問題を見いださない。普段は粗雑な口調のもこう氏が、丁寧語で「勇気の切断です」と言っても、視聴者は「キャラクターがぶれた」とはいわず、「丁寧語は草」と言うだろう。そういうものだ。
しかし、ここまで身軽になったVTuberを待っているのは救いではない。彼らを待っているものは激しい競争だ。ニコニコ生放送やYouTubeライブを見てもらえばわかるが、普通の女や男がニコ生をやっていたところで、誰も見ない。サムネを見て、顔が気に入ったらもうちょっと見る、くらいだ。差別化の要請とは競争の含意でもある。なんとかして見てもらわないといけない。同時接続者数を稼がないといけない――後述するが、スーパーチャットによる商業化によって、視聴者数を確保することへの圧力はすさまじい。
より一層悪いことに、彼/彼女らは、大体においてかわいい/かっこいい/面白いアバターを与えられる。この点で、外見において差異を出すことは困難になる。
生放送に切り替え、キャラクターを削いでいったVTuberに待っているのは、より過激な内面、よりわくわくして、面白くて、変な内面の演者にならなければいけないというプレッシャーだ。
視聴者は過激なものを求め続ける。女性同士が話し合ったらやれレズビアンだ米を炊け金をまけと大騒ぎする。オフコラボでもしようものなら、性交の隠喩や、もっとどぎつい修飾語が飛んでくる。対人関係は戯画化され続ける。それも、あなたの現実世界の対人関係がだ。あなたがうっかり話したバイト先の先輩はレズビアンにされ、あなたと毎晩、黒光りする双頭ディルドでハメ合っていることにされる。あなたを守るキャラクターの壁はない。顔だけが美しくなったおまえが、インターネットの祭壇にあげられる。おまえの日常は、おまえが話すほど、徹底的におもちゃにされる。それに耐えられるだろうか? そして、これと『あいのり』や『テラスハウス』のようなテレビ番組とは、何が異なるだろうか?
もし、ここには善意があるから大丈夫だ、というなら、それは間違えている。視聴者は暗に陽にキャラクターを勝手にインポーズして、再解釈して、生身の人間に押しつける。「デビューから一年たってついに同期のことを呼び捨てになるのが尊いんだよな」。「XXに告白され限界オタクになってしまうYYYの絵です」。1000人以上の人から、週三回、「エッチだ……」とリアルタイムで言われて、精神的に健全でいられるというなら、あなたはおそらくすでに狂っている。
スーパーチャットによる商業化
VTuberのごく初期、まだ会社に十分なキャッシュがあったとき、VTuberはお金のことをあまり気にする必要はなかった。月に3回くらいスマホゲーの宣伝をして、コメ欄に「案件お疲れ様です!インストールしてアンインストールしました!」と書かれるくらいでやっていけた。シロもキズナアイも、スマホの馬鹿ゲーとか、チーズおかきのCMとかに出るくらいで十分だった。
しかし、2018年頃、つまり、VTuberが爆発的に増え始めたころから、状況は変わった。私が彼/彼女らがVtuberの活動によって、どの程度の金銭を得ているのか知らないため、彼らが金銭を稼がなければならないのか、とか、なんぼカネもらってんのか、とかは私の知識の埒外にある。ただ、VTuberがスーパーチャットによる収入を得るようになったことはわかる。多くの配信でコメ欄にはスーパーチャットが飛び交っていて、一曲歌えば――なんぼか知らんが――数百円から数万円の金額が振り込まれる。Alphabetと配信者(企業)が山分けすることになる。『Amazon欲しいものリスト』を公開して、視聴者に買わせている配信者も存在する。『Booth』と呼ばれるフリーマーケットサービスを用いる人もいる。
確かに、この『投げ銭』システムに参入しないVTuberもいる。視聴者がある程度来てくれればそれで十分という人(?)もいる。単に配信業をしているだけでいいという人もいる。理由も様々だろう。スーパーチャットをもらっても雇用主にいくだけで自分の財布には入らないからかもしれないし、単にお金にそれほど困ってないからかもしれないし、承認欲求を満たせられればそれでいいのかもしれない。
一方で、『投げ銭』システムを好ましく受け取っている配信者がいることも事実だ。収益化申請が通らなかったことを恨み、愚痴る配信をするVTuberまでいる(風宮まつりだ。彼女の名誉のためにいうと、おそらく飲酒を中心にした配信を行っていたというのが、当時は問題だったのだろう)。
このシステムの特徴は、それに参入する――金銭を可能な限り得ようとする――配信者がある程度いるだけで、そこには軍拡競争が生じる、ということだ。視聴者数は有限で、彼らが撒くスーパーチャットの金額もその時々で有限である。もちろん、VTuberの文化が広がれば、それだけパイは大きくなるが、ある時点においては、配信者たちは視聴者数・『投げ銭』を奪い合うことになる。これは極めて単純に言えば、 注目 の可視化だ。ほかの人よりもどれだけ他人を引きつけることができるのか?という戦いだ。コラボ企画がはやったのは、相手の数字(視聴者のことをこのように表現する文化圏がある)を吸う目的なのも一つはあるだろう。
結果として、この競争によってVtuber業界に流れ込む金額は、偏った分布をとることになる。つまり、一部の『戦う』人々の中の、とくに少数に金額が集まり、それ以外の層には広く薄く行き渡ることになる(これはインターネットで『スーパーチャット VTuber ランキング』と入れれば定性的に確認できるだろう)。
ここで、私はこれがVtuberに特有のものだというつもりはない。むしろ、(筋道立てて説明はしないが)ごく一般のYouTuberにおいても成り立つものだと考えている。つまり、普通のYouTuberの業界のダイナミクスが、やはりVtuber業界にでも起こるのだろうと予想している。これがどういうことなのかは改めて説明しないが、ゴシップ、過激なもの、『性的なコンテンツ』、業界暴露、まあ世の中の不穏なものを集めた形になっていくだろう。一時期、Vtuber業界でも激辛ペヤングを食べるという趣旨の配信が流行したが、おそらくはそのような形になると思っている。
FaceRig/Live2Dによる廉価化
最後に、簡単にだが技術的な面での話をしよう。2017-18年初頭までは3Dモデルによる動画投稿が中心だったVTuber文化は、株式会社いちからが二次元イラスト+FaceRig/Live2Dによるスマートフォンでの配信体系を導入したことによって変容している。もちろん、彼らが最初だったわけではないが、方向性を決めたのは彼らだろう。
私はここで「やっぱり3Dモデルじゃないとだめ」とか、「Vtuberったらキズナアイ的なトラッキングがないと」とか言いたいわけではない。にじさんじやホロライブ、ハニーストラップ、アイドル部等々、連綿とつながるこれらのリストにけちをつけたいわけでもない。
私が指摘したいのは、とにかくVtuber産業は一気に廉価化したこと、そしてそれは――逆説的にではあるが――個人の参入障壁を高くしたということだ。
スマートフォンの顔認証とFaceRig/Live2DによるVTuberの導入は、3Dモーキャップを必要としなくなった。したがって、人々は大規模なスタジオも、高い設備投資も、そして3Dモデルの外注/内製のコストも払う必要がなくなった。参入コストが安くなった結果、前述のような長大なリストができあがった。これは私見だが、動くイラストになった結果、VTuberはむしろキャラクターではなくアイコン化し、コラボ企画は相手のイラストを配信画面に張ることで代替させられるようになった。ラジオ形式――つまり、もはや動くイラストも、3Dモデルも存在せず、声だけがある――配信も増えた。私にはこれが一体どういう文化なのか判断を下すことはできない。
この廉価化によって、個人が参入を始めたのも事実だ。VTuber登録者ランキングを見れば、どれだけの人がいるかを調べることができる。それは本当に多い。一方で、多くの配信者が登録者数を数万程度までしか持ち上げられていないのもわかるだろう。だいたい2000人登録されているUserLocalにおいて、登録者数が1万人を超えているのは750人前後だ。2000位が1500人程度である、つまり、これは全サンプルではなく、上から2000人であることも注記しておく。
より定性的な指標としては、動画を一本しか投稿していない――つまり、実質的に棄てられたアカウントである――電脳少女シロのGameチャンネルが421位にランクインしている。言い換えると、ほとんど何もしていないアカウントよりも登録者数が多いのは、Vtuberの中でも400人程度しかいないことがわかる。つまり、個人が「まともな」量の登録者数を確保するのは極めて困難になっている。鴨見カモミですら6万人弱の登録者しか持っていない。単純な比較はできないが、これは失敗小僧レベルの登録者数だ(2020/05/28現在)。
もし、あなたが楠栞桜をあげて、「個人勢でも登録者が多いじゃないか」というのなら、あなたはかなり邪悪だ。彼女が元夜桜たま(アイドル部)だということはほぼ公然の秘密で、彼女がかなり高い登録者数からスタートできたのは、一つにはそれまでのファンを引き連れたからであり、一つにはゴシップのネタとして注目を集めたからであり、一つにはそれまでとの差異を強く打ち出せたからである。このように、彼女を個人勢として扱うことはいくつかの面から適切ではない。どうでもいいが、私は彼女を登録している。
これは単に推測だが、このアノマリーは配信者のコミュニティに起因するのではないかと感じている。VTuberの『バズ』はキズナアイから始まり、シロやミライアカリに行っていた。
今は、新しく入ってきた視聴者は、いきなり既存のコミュニティに囲い込まれる。それはにじさんじやホロライブであり、そこでは毎日のように生配信が行われている。彼/彼女が他のものを探索することは起こらない。彼らは完全に囲い込まれ、彼らが増やす登録者数は在野の個人勢ではなく、そのコミュニティの中の人間だけだ。セレンディピティはない。偶然の出会いも存在しない。
この囲い込みを実現させているのはマスの量、つまり、どれだけの配信量をそのコミュニティ内で出せるか、という量だ。3Dモデルを使った動画はコスト・時間がかかり、コンプライアンスのチェックもあり、資本が巨大であってもそれほど量を出すことができない。キズナアイの動画を見飽きても、upd8には自分の中に囲い込めるだけの弾を(当時は)用意できなかった。
一方で、イラストレーションを用い、生配信形式にすれば、このマスを生産するのは容易になる。ひたすら量を投下することで、視聴者を閉じ込める。登録者数の分布は偏り、皮肉にも新規参入が容易で、廉価化が進んでいたために、個人勢はほとんど無視され、YouTubeの巨大なゴミに埋もれる。
現在は、再び3Dへと戻りつつあるが、これは単に『そうなっている』からするのであって、日常的には問題ない。事実、『3Dおひろめパーティ』なるものが行われオタクからカネを巻き上げた後は、いつものイラストに戻ることすらある。つまり、この3Dモデルは単なるパレードのネタでしかなく、3Dモデルのクオリティやできなどは割とどうでもよい。
結論としては、Vtuberの廉価化、生配信化は、ある一部のグループによる寡占を促進し、技術的な向上を止めるインセンティブとして働くことになった。
そこから見られること
エゴを切り売りする演者たち
事実、Vtuberは自分の生活を切り売りして生活している。配信を開けば、おそらく数分もたたずに、「今日コンビニ行ったらさ」といった類いの話を聞くことができる。もはや、『電脳コンビニ』などはあらゆる意味で馬鹿げた表現でしかない。『イラストが単に日常の話をしている』ことからの差別化を図るために、彼や彼女たちは節操なく自分の生活を誇張し、コラボをし、架空の――しかし一部は歴然として事実である――自分を作り上げていく。VTuberはリアリティーショーになっていく。
この状態は、一つにはVTuberという表現の困難さがある。一つには視聴者がそれを望むというのがある。てえてえなあてえてえなあと言って、女を女と通話したという理由だけでレズビアンに仕立て上げる。もちろん、諸君らが「百合とはもっと深淵で」と議論をぶつのは知っている。したまえ。し終わったか?
さらに悪いことに、すでに『オフコラボ』という概念まで生まれている。これはおそらく『VTuberの演者たちが実際に対面して生配信をする』という意味で使われているのだが、私はかなり否定的に捉えている。視聴者が「空想上のキャラクターが一緒に仲良く楽しんでいて、それはそうなのだが、メタ的には中の演者も現実で顔を合わせていて、これはなかなか虚構と現実の二重性があってフィリップ・K・ディック的な面白さを備えている」と解釈しているとは信じがたい。彼らは単に、「いつもはYouTubeで配信しているキャラクターが実際い出会って話している」と思っているのだと私は信じる。そして、それは本当に馬鹿げている。そのような立場に立つならば、『オフコラボ』と『オンコラボ』の違いはどこにあるのだ? 本当に「VTuberは我々と同じように生活しているから対面でコラボするにはオフコラボしかない」と思っているのだろうか? それは『歌い手イラスト1000user入り』と何が違うのだろうか?
これは私の側の問題なことは認めよう。まあ私が不満足なだけで、別にほかの人がどうという訳でもない。私が部屋で自慰行為でもして暇つぶしをしていればいいだけだ。
だが、配信している彼/彼女らにかなりの重荷を背負わせていることは理解しなければいけない。自分の身の周りで起きたことを、絶え間なく話さないといけないのは、私見では相当に厳しい。もっとはっきり言えば、我々は彼/彼女らのエゴを食い物にしている。そして、そのうち我々は彼女たちに飽きて――ヒメヒナに飽きたように、我々はすぐに飽きるものだ――彼女たちをポイ捨てする。
善意があるとか、ファンアートを書いているとかは関係ない。ポジティブなフィードバックがあるシステムは暴走する。正確に言えば、すべての固有値が1より大きい行列を持つような力学系は収束せず、どこかとんでもないところに我々を連れて行く。おそらく、それはひどい結末をもたらすはずだ。
『バーチャルさんは見ている』、そして「アニメキャラがYouTubeを始めた」のか?
『バーチャルさんは見ている』というアニメが存在した。VTuberが出るアニメということで、様々な意味で話題になった。そしてこのアニメは見事に失敗した。毎週の放送は純粋な苦痛であり、田中ヒメが「来るのか!? ケツのロンが!!!」と言うのを見るだけのアニメに墜ちていた。
しかし、これは全く自明なことではなかった。なにせ、VTuberが出たとき、我々は「アニメキャラがYouTuberを始めた」とか、「インタラクティブに変わるキャラクター」とか、「視聴者と作る世界」とか言いまくってきたわけだ。2019年にもなれば、我々が作り上げたキャラクターは本当に面白くて本当に最高になっていないとおかしい。多様なバックグラウンドの物語から出たキャラクターたちが、最高に面白い掛け合いをして、EDでは『声の出演 電脳少女シロ:電脳少女シロ』と出ないとおかしかった(最後のは実際にほぼそうだったが)。
しかも、アニメをやったわけだ。バラエティでも解説記事でもなく、VTuberが本当に新しいと思われている分野でやったのだから――古いワイン、新しい革袋、新しいワイン、古い袋、なんでもいい――これは本当に成功しないとおかしかった。
だが失敗した。『バーチャルさんは見ている』は本当に苦痛だった。つまらないを通り越して、それは悲劇でさえあった。電脳少女シロがうんちくをいう屋台をしているところなど見たくなかった。ケリンはなんかもうつらいほどスベっていた。ニコニコ動画で見てすら滑っていた。
もちろん、これはキャラクターと世界設定をうまく折衝することができなかったという、単に脚本家のせいもある。3Dモデルの質がまちまちで、整合的な画を作るのが困難だったのもある。突貫工事で始められたせいで、質を担保できなくなっていったのもある。
しかし、これらは事前放送があれまで盛り上がった理由が説明できない。ニコニコ動画で本編前に行われていた事前放送――という名の、VTuberたちが「わちゃわちゃ」して「てえてえ」放送――は極めて盛況に終わったという事実がある。ここでは雑多な人々が集められて、司会がなんかミニゲームとかして、まあなんか盛り上がるという生放送だった。百花繚乱がいたから盛り上がったというのは嘘だ。彼は心底どうしようもなかった。大学の新入生コンパにいる優しい先輩みたいな感じだった。
思うに、『バーチャルさんが見ている』になかったものは視聴者との相互のやりとりだ。YouTubeにおいて、視聴者はVTuberをイジるのになれすぎていた。彼/彼女たちが日常のことを自らからちぎってさらけ出し、それに「草wwww」とつけるのにハマりすぎていた。初期の電脳少女シロと比べてみるとよい。彼女は動画で変なことをいい、我々はそれをからかったり、もてあそんでふざけていたが、それはもっぱらあちらからこちらに来て、それからこちらからあちらに行く様式で行われていた。シロがイルカのような声を出す。誰かがニコニコにまとめてアップする。シロが気を良くして怒ったふりをする。(これには倫理的な賛否があろうが)そういうものだった。
そして、『バーチャルさんは見ている』の主演だった電脳少女シロやミライアカリ、ヒメヒナはすっかり変わってしまった潮目を読めていなかった。彼女たちはあまりにもクラシカルなVTuberであり、視聴者との相互作用はコメ欄やTwitterで行われると措定してしまっていた。実際には、ライブチャットであるにもかかわらず。30分の間、なんの介入も起こらずに流れるVTuberの放送は、単に時代遅れだったというよりも、視聴者によって時代遅れにさせられていた。
よく言えば、VTuberは視聴者との本当に緊密なやり取りによって面白くなるともいえよう。
だが、実際は、すでにVTuberは視聴者のおもちゃになっていた。極めて侮蔑的で、このようなcaveat無しでは書けないのだが、はっきり言うと、VTuberは、『馬鹿な女をおもちゃにして楽しむコンテンツ』になりつつある。自由に茶化せる配信者。何を言ってもいい女。英語ができない女に単語テストをやらせて、馬鹿な回答をしたら「草」と書くコンテンツになっている。令和のヘキサゴンかよ。島田紳助にでもなったつもりか? まるで、キャラのイラストを印刷した紙袋をかぶせて女/男を犯すように、私たちは配信者を消費した。剣持くん、天使のえる(2020/06/06注:これはエルフのえるのことだった)、おめがシスターズ、まあいろんなやつがいた。それもみんななくなってしまったみたいだ。
裏を返せば、すでにバーチャルユーチューバーは視聴者からのいじりがなくては成立しない様式へなってしまっている。そこでは、アニメの世界などはどうでもよく、単に我々にとって好ましい外見の、我々がしたいようにイジれる女や男がいるだけだ。
結局のところ、最初の疑問の答えは極めて簡単だった。つまり、もはや「アニメキャラがYouTubeを始めて」いるわけではないのだし、視聴者もそんなことを求めてはいないのだ。
顧客が本当に求めていたもの
我々は数年たって、かなり遠いところまで来た。思えば遠き日結った髪も……ということだ。
最初の頃、私たちは単に享楽的に過ごしていた。ペルソナがどう。1000リツイート。ウカ様の人形劇がどう。1000リツイート。電脳サイコパス少女シロ。10万再生。どうも、げんげんです。10万再生。牧歌的で純朴で楽しげな日々もあったことぞかし。
VRChatとの扉が一瞬開きかけた日もあった。シロとばあちゃるがVRChatのボーリング場で遊び、のじゃろりさんに「VRChat楽しいっすね」と言った日のことを、私はまだ覚えている。
ただ、全員に開いたVirtualの世界というのは来なかった。精巧なモデルが、アニメのキャラが現実に、みたいなお題目がいかに馬鹿げているかは、今更言うまでもないことだ。とにかく、VTuberの文化はそのようには進化しなかった。
(もちろん、私はこの発展に否定的だが、)VTuber文化が広がりつつあるのは事実だ。今年は去年よりも沢山お金が動くようになって、オタクに「あくあちゃんがさあ」と言ったら、「赤井ちゃんもいいぞー」と返される日も遠くないだろう。もし、経済的な規模の拡大を成功と結びつけるなら、VTuber文化は成功している。
ただ、私は(最初に私は「一抹のさみしさを覚える」と書いた。これは本当に悪い書き方だった)現在の状態にむなしさを覚える。私はアイドル部のコップとTシャツを持っているし、シロのパーカーも持っているが、おそらくこれ以上買うことはないだろう。VTuberが続いていくこともわかるし、ときどきチェックもするだろう。シロの動画は見さえするかもしれない。ただ、数年前のような気持ちで見ることはできない。単にむなしい。
顧客が本当に求めていたものはなんだったのか? と私は考える。アニメから出てきたYouTuberだったのだろうか? 変なことを言って楽しませてくれる電脳世界のキャラだったのか? 最先端の技術と結びついた、リアルタイム3D技術だったのか? それとも、人-キャラ-設定の三つ組みが相互作用しながら発展していく、哲学的に深遠なところのある娯楽だったのか? それとも? それともなんだったのか?
おわりに
私はシロが好きだ。今でもけっこう好きだ。ネットではもうびっくりするほど叩かれるがまあ好きだ。最近はやや自己再生産的なところが目につくが、それでも面白い。
ただ、現在はやっているようなVTuberを見るつもりにはあまりなれない。いくどとなく、チェックはしてみたが、あまり興味を持てなかった。それはあまりにもリアリティーショー的で、配信者は自分に注目を集めるためなら何でもしている。視聴者はスーパーチャットと相手の承認欲求を交渉材料にしている。馬鹿な女を探して、凸っては遊んでいる。
おそらくは、これが「文化が成熟していく」ということなのだろう。物事は自分の思ったようには進まないものだ。それは理解できる。視聴者の多くは、別に、アニメキャラがYouTubeを始めるとか、人格を持つとはどういうことかとか、そういうのに興味がなかったということも理解できる。そして、それは全く悪いことではないし、楽しんでいるなら楽しませておけばいいというのも分かる。
わかるのだが、私は少し危惧している。ニコ生がそうであったように、YouTuberがそうであったように、VTuberもどんどん過激になっていくのではないだろうか? 配信者は再生産と誇張を繰り返して、自分の生活をちぎっては投げ捨てている。視聴者はVTuberが生身の人間であることと、単なる仮想的なキャラクターであることを恣意的に使い分けている。どこかで私はやめるべきだと思っている。
一方で、私が完全に絶望的かというと、まったくそうではない。まだ私が面白いと思う文化は残っている。例えば、燦鳥ノムや東雲めぐは本当に有望なコンテンツで、私は彼女らにはお金を払いたいと思っている。ここにはコストと健全性があり、改良があり、そして版図の拡大がある。
燦鳥ノムはいつの日かCMに出て、本当に燦鳥ノムとしてインタビューに答えることになるだろう。そこにはインターネット文化と、設定上の『燦鳥ノム』、そして燦鳥ノムのアクトレスの要素が混ざっていて、誰も切り分けることができないだろう。
東雲めぐは――よく見ると――細かくモデルが改良されている。現実世界により溶け込むようになり、より自然な調和を目指しているように見える。彼女が『人魚姫』のミュージカルをやろうとしているのは、私には極めて興味深い。彼女はキャラクターの皮をもう一枚被ろうとしている。それは今まで以上に難しいだろうが、私は肯定的に見ている。
文化(AmbrやCluster、VRChat等)も育っている。文化を使ってみて、「これちょっと改善してほしいな」というだけでもずいぶんな進歩だ。そして、そのような人々は着実に増えている。テレワークもあるし、ちょっくら遊びでVR会議やってみない?と言うムーブメントがもっと大きくなればいい。それは本当の意味でのVirtualな人間性の大衆化だろう。そこには登録者数もスーパーチャットもない。
最後に、VTuberの一時間生配信を見るのをやめると、まあまあな時間が捻出される。そのとき、次のようなことをしてみよう(言い換えると、私は次のことをしようと思っている)。
- 何でもいいからインプットをしてみよう。
- 映画を見るのでもいい。アニメでもいい。
- 本を読むのでもいい。
- 図書館から図録や写真集を借りてきて眺めるのでもいい。
- とにかく、それを作るのに本当にコストと熱意がこもっているものを受け入れよう。
- 何でもいいからアウトプットをしてみよう。
- ブログを作ろう。Twitterでもはてなでもいい。
- そこに、自分が読んだ本のタイトルを書こう。アニメのタイトルを書こう。「今週はこれを読んだ」終わり。そこから始めよう。
- できれば、数行でどんな話だったか書いてみよう。「くそアニメ」「ばか丸出し」でもかまわない。誰もいきなりぶん殴っては来ない。来たらそいつはマジですごい。
- 生身の人と話そう
- 別にマジの生である必要はない。通話でいい。とにかくあなたが真剣に「人です」と思える人と話そう。
- 親に電話する必要はマジでない
- コンビニの店員に「ありがとうございました」というだけでもいい。別に相手が日本語をわかってなくてもいい。
- 倫理的なものにお金を出そう
- 調べよう。考えよう。
- 他人に「おまえの倫理、アリストテレス以前だな」と煽られても気にしないようにしよう。しょせん、ジャップの思いつく倫理なんて、まあたいしたものではないのだ。
- にもかかわらず、この方針は大事だ(と私は見なす)
参考文献
番号を振ってもどうせ読んでくれないので、コメントをつけながら書く。めちゃくちゃ長くなっているので、少しずつ追記する。
はじめに
ユリイカの論考はユリイカ2018年7月号であり、深く関連するブログはナンバユウキ『バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ』。なかなか面白い。
https://www.youtube.com/channel/UCooOM22Vyz1qu-eCwHPytkA/featured:ぴぐまりおん。の糸巻おり。彼女がどのようなどのようなパーソナリティだったか知るすべはほぼ残されていない。彼女は単にいなくなった。VTuberをやめる、とはこのようなことだ。
実際に起きたと私が思っていること
そこから見られること
おわりに
バーチャルユーチューバーという言葉で、YouTube等の動画配信サイトにおいて動画投稿や生配信などを行っている者であり、かつ、自分を示すモチーフとしてイラストや3Dモデルなどを使っている者を指すことにする。
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