無神論についていくつか
2020-07-20非日記
時事について触れるつもりはあまりない。
むしろ、私はオリンピックのことについて考えてしまう。東京に選手村ができる。段ボール製のベッドが立ち並ぶ。ホームレスが何人か屠殺される。国外から観光客がやってきて、我々の顔を撮る。インターネットに拡散する。人々は誰と話すときもスマートフォンの録画機能をオンにしている。『はてなアノニマスダイヤリー』とかTwitterとかには外国人嫌悪の投稿がぶちまけられる。ものめずらしい性交の話題とそれに付随する精液も。
埋め立て地の近くの海でアスリートが泳がされ、そして札幌まで出かけていって走らされる。トラックでは誰かが100メートルを9秒で走り、その近くの環状線では、けだるげな顔の中年がすさまじい速度で動いていく。自動車に乗って。所狭しと何かの競技が行われる。アスファルトはかつてない温度になり、夜ですら誰も動けなくなる。救急車が毎晩、新宿を疾走するが、それはアパートで熱中症にかかった嬰児を助けるためではなく、違法薬物をキメすぎたジャンキーを助けるためなのだ。
オリンピック――特に代理戦争と化したそれ――に私はほとんど興味を持てない。それはなんだか馬鹿げた行いのように思われたし、今でもそう思われる。オリンピックがもたらすはずだった『大きな物語』とやらは、実際のところ全く別のものに取って代えられた。
ところで、起こらなかったオリンピックを私は悼むべきなのだろうか? 本来、オリンピックは今週末に始まるはずだった。日本人が走るのを楽しみにしていた老人は、ずっと届かないチケットを待つのだろう。毎日、郵便受けを開け、痩せ細っていく年金と腕を抱えながら生きていくのだろう。この老人に対しては、少なくとも、私は一抹の悼みを感じる。
もちろん、私が彼に対して何かをするわけではない。このかどであなたは私を告発できるし、いずれそれが推奨されるようにもなるだろう。
書評たち
今回は3冊だ。今週はあまり時間が取れないため、あまり読めないことが想定される。
ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガー:『最古の文字なのか?』
カナダはビクトリア大学人類学の博士課程(PhDコース)にいる学生が書いた本。アフリカからヨーロッパ周辺の遺跡を調査し、そこにある幾何学記号を収集する研究についての本だ。
話としてはなかなか面白い。いわゆる最終氷期(数万年前~一万年前)のあたりと措定される壁画には、様々なものが描かれている。有名なもので言えば、ラスコーやアルタミラの絵画だろう(中学生でも知っている)。我々は、ここに描かれている『もの』に注目する。というのも、それは我々にとって解釈可能だからだ。牛はとにかく牛であり、人はとにかく人であり、少なくとも彼らが牛や人を描こうとしたことは分かる。
一方で、それらの絵画に描いてある『記号』はあまり注目されない。というのも、記号――丸や点、直線やより複雑な記号――は、そもそも何を指しているか分からないからだ。とにかくそれらは『ある』のだが、一体どのような意味をはたしていたのかは不明だ。
著者はこの『記号』を集めて、データベースにすることで問題を解き明かそうとする。興味深いことに、これらの『記号』はそれほど多くの種類を持たないことが分かった(注:どのように記号類がクラスタリングされたのかは不明なので、この記述は甘い)。この種類の少なさも興味深いが、共時性――異なる場所で同じ記号が用いられていたこと――も面白い。
まず、タイトルは本文で否定的に解決されている。というのも、これらの記号には明確な『文法』が存在しないからだ。魚の絵や猫の絵、『私がこれを持っています』の記号を束ねても文字にはならないのと同じように、散発的に現れる記号は文字とは見なせないだろう、というのが著者の意見だ。これはもっともだと思う。
著者はこの少数性や共時性についていくつか仮説を立てている。つまり、それらは所有を示すマークだったのではないか、それらは地図だったのではないか、それらは我々の身体的特徴に基づくものではないか……などなどだ。
いくつか難点を挙げる。まず、導入が妙に長い。ここは著者のサーベイの部分なのだろうが、冗長だ。例えば、著者は『アフリカにいたときから、我々(の祖先)は現代人と遜色ない認知能力を持っていたと言える』と主張するが、ここまでの努力をして説明すべき事のようには思えない。
また、技術的なところの解説がやや弱い。これは読者層がそうだと言うことなのだろうが、「集めたら32種類しかありませんでした」と言うのは科学ではないだろう。少なくとも、著者は『柔らかい土に指で描いたぐねぐね』のことをFinger Flutingという一つのカテゴリにまとめているし、これは相当程度に恣意的だ。
最後に、より考察を深められると考えられる。例えば、『記号は近くの河を模して描かれているのではないか――つまり、これらは地図なのではないか』という部分は、記号と、そこから見える風景をナイーブに比較しているように見える。地図を描くとき、我々はふつう、それそのままには描かず、目立つものを誇張し、極端に長い道を縮めて描く。つまり、地図は領土と似ていないのだ。(かつまた、先史時代の人間がどのように風景を見ていたかは分からないのだから、ここには難問がある)。また、『洞窟内に人々が壁画をたくさん描いたのではなく、単に人々が描いた絵のうち、洞窟にあるものが残っただけなのか』という疑問は非常に興味深いが、あまり探索されることはなく終わっている。
松本俊吉編著:『進化論はなぜ哲学の問題になるのか』
http://www.keisoshobo.co.jp/book/b67680.html
Shorebird氏による書評はこれ:https://shorebird.hatenablog.com/entry/20100920/1284933356
いくつかの章は面白かったが、いくつかはよく分からず、いくつかはうーんという感じだった。
第一章は自然選択における単位の問題だ。つまり、自然選択を受けているのは、遺伝子なのかゲノムなのか、はたまた個体なのか、もしくは塩基一つ一つなのか、という問題だ。もちろん、哲学者が言いたいことも分からないではないが、前も言ったように、私は『その議論内で固定されていれば何でもいい』と考えている。結局のところ、説明したいのは『これ』、生物についての事であって、議論のコンポーネント一つ一つではない。
第二章は生物学的階層性についての話だ。つまり、生物は個体→細胞→細胞質→ゲノム、タンパク質……という風に『還元』できるが、これはまともな還元になっているのか、つまり、還元されたものをまた集めることで、上の階層が説明できるのか、という問いがある。あることは分かるが、いまいち、どこがクリティカルな点なのか分からなかった。
第三章は生物学における目的論の話だ。例えば、『熊は餌をとるために強い腕を持っている』や『鳥は魚を捕るために長いくちばしを持っている』という言明は、進化生物学者からしてみると、単純には受け取ることはできない。それらは『長いくちばしを持つような変異を持つ鳥は、同種の他の個体よりも多くの子孫を残すことができ、結果として長いくちばしをもつ個体がこの種では選択された』のような言葉のショートハンドとして用いられるべきだ。
一方で、著者によれば、これらは規則性を用いた説明なのであって、規則性そのものの説明ではないのだという。つまり、『雷が避雷針に落ちるのは、雷が最短の道で地面に行こうとするからだ』と同じ種類の説明であって、内側のメカニズムに踏み込んだものではない、と言うものだ。これは簡潔に、そのような議論を私はしない、返答できる。
また、あるものを見て、「このXXは○○するためにあるんだろう」という種類の適応主義についても、外適応を用いた反論が行われている。
第四章は進化論における確率概念だ。ローゼンバーグは進化を決定的なプロセスだと見なしている。と言うのも、1. 選択がかかった進化なら、個体群と環境を厳密に与えれば、次にどのような個体群になるか完璧に予想できるからだ 2. 選択のかかっていない進化(中立進化)は実は存在しない。というのも、遺伝的浮動は我々が環境について熟知していないから起きるのであって、真に全てを知っている人からすれば、浮動も自然選択だと考えられる。
この議論は本当にひどく、ミルスタインがはっきりと反論している。このロジックは明快で、遺伝的浮動が把握できると言うことは、どの配偶子ペアが受精するかまで予測できると言うことだ。それならば、通常の自然選択に対しても全ての配偶子ペアを予測することが可能で、こうなると自然選択すらなくなる。
そうすると、必然的に「進化論は決定論か」という疑問が出てくる。著者は、進化論はそもそも『ラプラスの悪魔』的な全知を想定しないので、その質問は意味をなさないと返答する。ここは私も同意するところだが、その前の記述で、
適応度は生物の生存や繁殖の度合いを表すものであり、物理的な性質ではない。というのも、物理学は基本的に生物の生成と消滅を扱わないからである。それゆえ、同義コドンの適応度が同じであることは、物理学に関する事柄ではない。このことは、らブラスの悪魔が物理学に関して完全な知識を持っていたとしても、見落としてしまう事実が存在することを示している。
と言っているが、ここは議論が微妙だと思う。量子力学を忘れて、ラプラスの悪魔は全ての物体の全ての位置と力と速度を知っているので、全てが決定可能だとしよう。こうしても、ラプラスの悪魔それだけでは進化論に関して言及できない。というのも、ラプラスの悪魔は何が生物であるかを定義していないからである。従って、ラプラスの悪魔を措定する決定論は生物を扱う進化論について何も言わない。以上。コドンの話をする必要はない。
第五章は還元主義の話だ。熱力学が統計力学から何らかの意味で導出できるように、心理学も神経科学に何らかの意味で還元できないのか? と言うような話だ。著者は最後に、この還元については楽観的な見方をしていると言う。つまり、心理学は神経科学によって機械論的な分解を行え、それによって、心理的能力を脱神秘化できるからだ、という。また、もし、明らかなギャップが出てきたら、それは急ぎすぎただけであり、中間のレベルを見直せばよい、と言っている。つまり、ニューロンの働きを調べてもマシュマロ実験が説明できないのは、あまりにも早く還元しすぎたからだ、という訳だ。
一見、穏当に見えるが、私には相当ラディカルに見える。というのも、著者はこの中間レベルは概念的なもので構わないと言っているからだ。というよりも、マシュマロ実験とニューロンの間には、必然的に概念の道具(『反射』『学習』といったもの)が含まれざるを得ないからだ。
しかし、このように野放図に中間レベルを許すと、怪しい科学が「これは中間レベルの説明が見つかっていないだけだから」という理由で自由度の高い主張をできるようになってしまう。これは中間レベルへの説明の押しつけであり、しかも中間レベルは『細切れに』できるから、オカルト心理学者は、自分の主張と相手の反論の間に、見つけられるべき『中間レベル』があると常に主張できる。
第六章は種問題。(分類学者は「種は本当に違うものが種」というややトートロジー的な説明をするが、)よく考えると種というのを一つの概念で定めるのは難しい。生物学的種概念は無性生殖の生物には役に立たない。著者は様々な種定義を概観して、HPC説(色々な特徴のうち、ある程度を持つものをこれこれをする)を案としてあげている(もちろん、種概念の認識論的な問題は続くと述べる)。
個人的には、HPC説は生物を二つの異なった種に入れうる点でやや賛同しにくいし、現代の(実験室にいる)生物学者は、種のことを『ある実験材料』くらいのレベルで使うような気がする。つまり、これこれの実験をしたら、これこれの結果が出ます。材料は、よくこれこれの名前で呼ばれているものの、この株で、クローンはここで手に入ります、と言ったように。つまり、種概念は雑すぎるのだ。
第七章。系統学的思考。三中が書いているだけあって、この中では抜群に『分かる』内容になっている。種定義について、進化可能性が取り沙汰されることはめったにないが、本当に重要だと言うことが分かる箇所があり、非常によい。
(疲れたのでここまで)
アレクサンドル・コジェーヴ:『無神論』
副読本として、ドストエフスキー『キリストのもみの木祭りに行った男の子』やトルストイ『イワン・イリッチの死』を挙げておこう。
https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-01028-6.html
途中、「こいつやる気あんのかな」と思えるほど意味不明なところがあったが、自分の興味があり、理解できる範囲では面白かった。以下、私が解釈したコジェーヴである。私は哲学の専門的なトレーニングを受けていないので、注意されたい。
この本の一つの主題は、次のように言える――無神論者と有神論者を分ける方法は何か? 一見、この問題は異常に簡単に思える。つまり、その人に向かって「あなたは神を信じますか?」と聞けばいい。もう少し正確に言うならば、「神はいますか?」と聞けばいい。
しかし、直感に反して、これはうまくいかない。まず、無神論者の場合は「いないものはいませんよ」と答えるだろう。これは「神はいませんよ」という言葉とは違う。彼は神という言葉すら使わないからだ(もし、何か意味のある言葉として『神』を使うと、有神論者になってしまう)。
一方で、キリスト教徒の場合、「ええ、イエス様は神様です」などと答えるだろう。これは問題がない。問題があるのはガチガチの純粋有神論者だ。彼らは、神は神である、という言明しか受け入れない。『神に属性はない』というテーゼには耳になじみがあるだろう。つまり、神のことを我々は知ることはできない、神に顔はなく、手はなく、とにかくありとあらゆるものがなく、でも存在するという訳だ。名前をつけることすら許されない。したがって、彼らは「あるものはありますよ」と答えることになる。
まとめよう。場合を尽くしているとは思わないが、「神はいますか?」という質問に関する返答は次のようになる。
- 宗教的な会話に参加しない人:「さあ」(多く日本人がここに属するだろう)
- 無神論者:「いないものはいませんよ」(私だ)
- 形容的有神論者(形容できる神がいると考えている):「神様は我々を見ていますよ」
- 純粋有神論者:「いるものはいますよ」
明らかに、我々は1と3を分けることに成功している。しかし、2と4は実は(対偶をとるなり、それぞれの主張が恒真命題になることをしめすなりで)同じ事を言っていると明らかにできる。
つまり、このナイーブなやり方では、最も両極端に別れた二人を区別できない。しかし、明らかにこの両者は異なるはずだ。よって、我々の方法は改善させる必要がある。
ところで、定義からいって、純粋有神論者は神について何の形容も与えない。従って、それはこの世界にいるものでもない。従って、我々が生まれ落ち、人に人と世界が与えられるとき、神はその場からは既に撤退しているか、そもそも存在しない。ならば、純粋有神論者はどこに神がいると考えるのだろうか?
当然、純粋有神論者からすると、神がどこかにいる、という表現は許されない。しかし、神はいるのであって、しかもこの世ではない。我々が有神論者のルールに従う必要はないので、この場所のことを『世界外』と呼ぶことにしよう。さて、この世界外には何があるだろうか?――神がある。そしてそのほかは何もない。というのも、もしそこにあるものに名前をつけて、「XXがある」と言った途端、「じゃあ神はXXと一緒にいるところの者なんですね?」と有神論者は言い、「じゃあその『神』とやらは神じゃありませんね」と結論づけてくる。
一方で、無神論者も神について何の形容も与えない。なぜなら、それは端的に言って存在しないからだ。無を形容することはできない。従って、彼にとっては、先ほどの『世界外』には何もないということになる。それは単に無である。完全な無という言い方は矛盾していることに注意しよう。
こう考えると、さらに有神論者と無神論者は接近しているように見える。しかし、明らかに違うのだ。それは何かというと、有神論者は神を信じていると言うこと、そして無神論者は神はいないと考えているところだ。最初の疑問から我々が得たのは、この設定をナイーブに使うと破綻するということだ。我々は彼らを『泳がせて』から捕まえないといけない。
では、有神論者が神の存在を感じるのはどのようなときだろうか?――死ぬとき。死に近づいた有神論者は「神に近づく」とも言う。ここでコジェーヴは厳密っぽい論証をするが、私にはよく分からなかったので、ここはナイーヴに認める。つまり、死は私という存在が破棄される場所であり、一方また、有神論者にとっては、それはこの世界における破棄でしかあり得ないのだ。
また、重要な事は、死の時点というのは指し示せないという事実だ。実際、我々は一般に「死亡が確認された時刻」という表現を使う。つまり、死ぬこと自体は捉えられないが、十分死んでいる状態は捉えることができるのだ。死の瞬間、という表現は矛盾している。それは『死亡度合いが急激に変わっている時間』とでも言われるべきものだ。
つまり、死は実数直線上の点のようなものだ。それより小さいところから、その点に近づこうと思っても、そのギリギリまでしか行くことができない。ある時点がはっきりと存在し、そこで私は死に『引き抜かれる』ことになる。そこを指すことはできないが、引き抜かれたことは分かる。世界と私自身から、私は死によって向こう側に引き抜かれる。それを知ることはできる――誰が?
我々は重要な地点にたどり着いた。今、「それを知ることはできる」と書いたが、実際のところ、私は知らないだろうと考えている。しかし、有神論者たちは異を唱えるだろう。死が認識できないのはそうだが、それはこの私、前述の言葉を借りるならば『世界内』の私であって、引き抜かれた方の私は存続するだろう。それは、割った皿が依然として皿であるようではない形でだ。ひたらくいえば、有神論者は世界外の自己を信じているのだ。死後の世界と言ってもいい。
しかし、世界外には何もないと有神論者たちは言ったのだった。だが、実際のところ、有神論者たちは矛盾してはいない。つまり、世界外には何か(我々が神と呼ぶなにか)があり、それの方へ、死するものは誰でも引き抜かれるのだ。これは有神論者のもつイメージに非常に沿っている。
翻って、無神論者は極めて異なった反応をする。つまり、彼らにとっては死は何でもなく、単に私が終わるだけなのだ。世界の外には何もなく、死が彼らを引き抜くなら、そこもまた無に向かって引き抜くのだ。
ここで「あなたは死ぬときどこに行きますか?」という疑問を使ってケースを閉じるのは適切ではない。おそらく、冒頭と同じ陥穽にはまることになるだろう。我々は彼らのこのような死に対する概念が、実際に彼らの対応を変える場所まで行かなければならない。
有神論者たちは世界外の存在を信じるし、死によって自分たちがそれに引き抜かれると信じている。一方で、無神論者たちはそれを信じていないし、無によって引き抜かれると信じている。であるならば、質問は「あなたは死ぬのが怖いですか?」となるはずだ。少なくとも、これが一つの回答であるだろう。もし、『怖い』という言葉に懸念があるなら、次のように言ってもいい――「あなたは死ぬとき、なじみ深さを感じますか?」 有神論者が死ぬとき、彼らは求めていた場所に行く道をたどり、無神論者は無への道をたどる。であるならば、そこにおいての感覚には違いが生じるだろう。(『なじみ深さ』に関して、私はコジェーヴを誤解している。だが、いまいち、どこでミスったのか分からない。)
最後に言っておくが、この質問は、実は形容的有神論者と無神論者を区別することもできる。従って、我々は無神論者一般と有神論者一般を区別する方法を手に入れたことになる。
以上である。