別の世界の衣

別の世界の衣

二月に実家に数日帰った。もちろんやることがないので、近所の公園のベンチに座ったり、駅前を散歩したりする。昔の居酒屋がなくなり、マンションが駐車場になる。雪が街の隅で溶けている。毎年、山梨には一度だけ雪が降り、それが溶けると春になる。空気の匂いが変わり、菜の花が武田通りを埋め尽くす。

甲府駅のヨドバシカメラを物色していたら、小学校のときの知り合いに声をかけられた。彼女は小林という名前だった。結婚して近所に住んでいるのだと言った。彼女からしてみると、私はあまり変わっていないらしかった。確かに私は変わっていないような気がした。明日、中学校に行くことになっても大丈夫だと私は言った。数学のワークを忘れているから杉山先生に怒られると思うけど。

私の曖昧な冗談が原因かは分からないが、小林は昔のことを思い出して、いくつか私に話を聞かせた。会話は過去にしか繋ぎとめておけないのだが、『別の世界の衣』というエピソードとして私は覚えておくことにした。こういう話だ。


記憶の布から古い糸を引き抜けば、そこに子供時代が書かれていると井上は知っていた。上野という読書好きの友人がいて、ファンタジー小説のあらすじを教えてくれた。ただ、それらのほとんどはいくつかの本の混ぜ合わせで、もはや上野の創作といったほうがよかった。村人たちが集めてきた布の欠片から、燃え立つ赤い鳥がよみがえる。森の奥の賢者からもらったドレスで、流浪の姫が王国を取り戻す。児童館の畳の上で話されたそれらの話が井上を満足させたので、彼女には読書の習慣がつかなかった。だから、彼女が思い出せる物語はずっと同じだった。父親のために料理を並べながら、井上はその世界のことを考えた。ずっしりとした木のテーブルには香ばしく焼けた鶏肉と暖めたりんご酒が置かれる。

ある日、上野が東北に行ってしまった。親が転勤になったのだと言った。移動の魔法を使うかのと井上は聞いた。上野は笑うだけだった。お別れ会が行われる。二週間が経つ。クラスの子たちのプロフィール帳からページが一枚だけ取り外される。それはいたずら好きな盗賊の仕業ではない。二人の間で、年賀状だけが、「秋に恋人ができる」といった子供っぽい予言とともに交わされる。

井上は地元に残った。十七歳から、背ばかりが大きくなった。皆と同じように大学に進んだ。初めての恋人から別れを告げられたとき、彼女は彼からシャツを一枚盗んだが、それは気づかれなかった。無数の恋人が彼女を通り過ぎていき、それと同じだけの服を彼女は集めた。

雨の夜に、上野の結婚式の招待状が井上に届いた。その年の年賀状に、「思いがけないことが起こる」と書いてあったことを彼女は思い出した。しばらくそのはがきを見て、出席の連絡をした。そして、自分がため込んできた端切れを一枚ずつ点検しはじめた。彼女はあの世界のことを考えていた。夜の妖精が広げた紺色の衣の向こうで狼が吠え、木のうろで不吉な予言を抱えた旅人が眠る。

東京の東の外れに式場があった。上野の机の前に井上は歩いていった。手に持ったりんごジュースを飲んだ。上野が明るく声をかけた。ここなら大学の友達も常磐線で日帰りができるのだと言った。井上の肩を見た。そのストールいいね。井上はほほえんだ。そのストールは、彼女が着てきた服と彼女を抱きしめてきた服の端切れをつなぎ合わせて作られていた。彼女は自分がどこにいるか分かっていた。そして言う。これであなたの王国を生き返らせて。