遅く来たりて早く行く
2022-03-22まず私を罰して欲しい。なぜか? 次の文章を見てくれ。これは先日のブログからの引用だ。
VGプラスで来週に新作が出る。
これは真っ赤な嘘だった。本当は26日に新作が出る。本当に申し訳ない。どうしてこうなったのか自分でもよくわからない……でも精神ははっきりしてました……誰でもよかった……できごころだった……弱そうなやつを狙ってやった……そうです……おまわりさんの言うとおりですよ……。
(2022/03/22第一稿)
嘘はまあいい。私はよく嘘をつく。私は毎週三回嘘をつきます。私のおじも嘘を付きます。もしよければ、今週末、私の家の近くの公園で嘘をつきませんか? いいですね。ミカも喜ぶと思います。
ミカのことはもう忘れろ。もっといい女はたくさんいる。今日はクンデラの話をする。
私は小説も評論も、まともで系統だった教育を受けてきていないし、継続的にトレーニングをしているわけでもない。従って当然ながら、私は常に小説の書き方を忘れる。そのため――スキーのやり方を雪が降るごとに思い出すように――私は文章の書き方を学び直す。リカレント教育である。その小さな小さなリストの中に、ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』はずっと居座っている。
今日、私はクンデラの話をする。
それにしても、 主題 だ。小説を書く人の多くが、二言目にはこの言葉を持ち出す。テーマ! そしてそこから、そのテーマが一体どのような事実や歴史的経緯に立脚しているかが解説される。
例:この作品は芸術における倫理とは何なのか?をテーマにしています。芥川龍之介を持ち出すまでもなく、芸術至上主義――芸術のためなら命すら捧げるという姿勢――は古来より議論されてきました。飛躍を許すなら、あのナルキッソスも、自分の美という芸術と、自分の生命という価値との戦いとみなすことすらできます。私はここに ギグ・ワーカー の生きづらさを組み合わせ、芸術至上主義が超資本主義に抗う諸刃の剣になることを主張しているのです。つまり……
つまり? つまりなんだというのだろう。テーマについてそれほど語ることがあるなら、なぜテーマを直接説明しないのか? はっきり言えば、主題について明晰に書くのなら、小学校の習字大会でも見に行けばいい:
- もし、伝えたいテーマがあり、小説に誤読の可能性があるならば、小説によってテーマを伝えるのは間違えたやり方だ。50万でも協賛金を出して、かわいい女子中学生をあなたのお好みの(薄黄色の)イデオロギーまみれにしたほうがいい。
- もし、伝えたいテーマがあり、小説に誤読の可能性がないならば、小説のテーマを解説するのは単に無意味である。
従って、もし、伝えたいテーマがあるならば、次の二通りの道しかない。1つ目、小説を書かず、より盤石で明晰な手段を使う(例えば暴力)。2つ目、小説を書き、それがあなたの伝えるべきことを伝えるのを眺める(本当にそんなことがあり得るのだろうか?)。
もちろん、最初の仮定が間違っているということもある。つまり、実際のところ、テーマはないのだ!
そう言い切ってしまえばどれほど楽だろうか? キャラクター、アイディア、プロット――これらの全てが、単にうまくできたメカニクスのためだと言えたら。タンジェロ(日本語訳:炭治郎)が戦い、傷つき、それでもなお戦い続ける ことが 重要なことなのだとしたら。それは 楽しみ のためのもので、キーボードを叩いて私がそれを表現するのは、私の目に入った最初の親ガモがキーボードだったというだけの理由なのだとしたら。
このとき、文字や文章という媒体は、完全に任意なものになる。同じことをアニメでやっても、漫画でやっても、映画でやってもいいのだ。キャラクター、ストーリーが全てなのだから……アーティストたちは得意なもので表現している……メディアミックスの世界……マルチメディアだ。
その通り。90年代のマルチメディアとは、物事に対して適切な媒体を選ぶという意味での多-媒体性だった。しかし、2020年代のマルチメディアとは、あらゆる物事を、あらゆる媒体が表現できるという意味、 全媒体性 を意味するのだ。
は? なんか話がぜんぜん違う方向に進んだ。マルチメディア? 何のことだ? 話を戻す。テーマはあるとしよう。そして私達にはキーボードしか与えられてないと仮定しよう。他にも措定したい条件があるなら述べておくがいい。球体の牛? どうぞどうぞ。物理学者の邪魔はいたしません。
正気に戻ったついでに書き付けておく。私は文学理論を学んだことがない。なので、この文章は『相対論は間違っていると主張する中年男性のブログ』くらいの気持ちで読んだほうがいい。もっと言えば、ブログを書き、そして読む意味とは、そこに書かれている意味内容を理解することに主眼があるのではなく、ブログ主(ぬし)がどのような人間なのか(仮に人間だとして)知るところにある。
誤解しないで欲しい。ツンデレ風に言えば、勘違いしないでよね。私はここで、テーマを中心にした小説観に異議申し立てを行おうとしているわけではない。私がこの先に議論したいのは、一つの矛盾だ。もし、ここでの議論を認めるならば――つまり、テーマに立脚した小説と、その解説が両立しないことを是認するなら――なぜミラン・クンデラの小説はあれほどまでに強力なのだろう? べ、別にミラン・クンデラの小説なんか全然おもしろいと思ってないんだからね。
クンデラ、人生の辞書、脳髄の能士。私の黄昏、私の魂。クン-デラ。舌先が吸い付き、下顎を滑る。クン-デラ。
彼はクンデラ。朝は単なるクンデラ。92歳になって、2022年を迎えた。写真で見る彼はミラン・クンデラ。たくさんの内戦と粛清を、加害者でも被害者でも体験した男。
性懲りもなくナボコフへの賛美を捧げたのは偶然ではない。ナボコフとクンデラは小説に対するアプローチとして両極端に鎮座する(ジョイス? あいつはもう死んだ!)。
ナボコフは文章に対するマニア的な愛があった。彼にとって、プロットや物語構造は、単に工芸的な要素しか持たなかった。それはちょうど、宮殿の間取りを決めるようなものだった。庭園の花々に心を動かされるのはそれはそれで構わないのだが、重要なのは どこに 庭園があるかであって、庭園の役割ではなかった。それが美的に妥当なら、彼は要塞にでも花園を作ったに違いない。
彼にとって大事なのは、韻であり、チェスであり、小説と詩(そして学ばれた言語が)いかにして交わるかだった。社会の変革や人道への迎合は、単なるファッショの兆しに見えたに違いない。ああ、愛は重要だ。ああ、共感は素晴らしい。ああ、これが人道主義なのだ……。小説における、このような結論には計画済みというところがある。富士山登頂のようなものだ。それがいかにきつかろうと、我々はそこで見るべきものを見て、そして満足する。富士山に裏切られることはまずない。槍ヶ岳に死体焼却所が設営されており、そこで石鹸が売られていることなどありえない。
ナボコフは――我らの愛すべき昆虫採集家は――うまく登山口から逃げることができた。このインテリの巧緻な戦略について語るのはもうやめにする。私はナボコフを語るためにここに来たのではない。こいつも死んでいることだし。
話を戻そう。クンデラはテーマを中心に書いた。彼にとって、小説とは思考の強度を試すフレームワークだった。ある定義があり、そして定理があり、それの事例として、小説が存在した(無論、これはありふれたやり方ではあろう)。彼の興味深いところは、その改題が小説の中にあるところだ。つまり、クンデラは自作の中で自作を解説しているように見える。
『存在の耐えられない軽さ』は次のような話だ。二人の男(フランツとトマーシュ)、二人の女(サビナとテレザ)、そして犬のカレーニンが出てくる。色々あって、トマーシュとテレザは運転事故で死ぬ(という手紙が届く)。フランツはカンボジアかどこかで反戦パレードをした後、ごろつきに絡まれて死ぬ。犬も死ぬ。サビナだけが生き延びる。
存在の耐えられない軽さとは何か? あなたにもし恋人がいるなら、こう考えてほしい。私でなければならないのだろうか? 俺でなければならないのだろうか? ここに必然性はあるのだろうか?
マッチングアプリで選んだだけの人間、大学が同じだっただけの人間、単に不愉快でない容姿をしているだけの人間……もし、人間関係が偶然性に依存しているなら、 私 の存在は不安定な偶然に立脚していることになる。そこにはなんの錨もない。関係をつなぎとめておく運命は端的に存在しない。存在は耐えられないほど軽い。
こう考えてほしい。誰かに真面目な話をしているとする。両親にでもいい。あなた達が私を育ててくれたことには感謝している。でも、私には私の人生がある。だから東京で一人暮らしをしてみようと思う。自分でチャレンジしてみたいんだ。そしてそのとき、あなたの腹がとんでもない音で鳴る。それは今までで一番大きな腹の音だ。なぜ、こんなときに腹の音が鳴るのだろうか? 私達は肉体を切り離したいとさえ思う。実際、両親と話している間、肉体とは単に空気を震わせるための物質でしかない。
しかし、一度この例外――心と体の結びつきの恣意性――を認めてしまえば、私がこの肉体にいるという担保は全くなくなる。私の精神をつなぎとめるものはない。
更にこう考えてほしい。あなたは首尾よく、東京に出た。三人の彼氏と付き合って、どの男とも四ヶ月で別れた。最初はどの男も良さそうに見えたが、やはりどこかに違和感があった。一人は「結婚したら家事を頑張ってほしい」とまで言った! 男を振るとき、押し付けられた束縛を解く快感があった。ついでに言えば、自分を抱いた男を切り捨てるのは、どこか自傷的な喜びもあった。
しかし、ある日突然、あなたはこれ以上なにも切り捨てることができないことに気がつく。家族とも連絡をとっていない。友達もいない。さあ、もはや誰にも何の影響も与えないなら、自分の存在をこの大地に結びつけるものは何なのか? 存在のこの耐えられない軽さをどうやったら重みに変換できるのだろうか?
考え続けてほしい。あなたは渋谷のデモに参加する。これで四度目のデモ行進だった。そして、あなたは今、自分がどんなデモにいるのか全くわからないことに気がつく。手に振っている旗の意匠がいっさい理解できないことを悟る。隣を歩く初老の女性に訊く。サングラスをかけた彼女が笑う。彼女は「大丈夫」と言う。確かに、あなたに理解できることが一つだけある。あなたはこのデモ行進の中、どんな前提条件もおかずに、存在を承認されている。
しかし――この逆接が私達を留める――もし、無条件で存在が肯定されるなら、私が自分自身であるとは一体どういうことなのだろうか? それに一体、どんな意味があるのだろうか? 私がどんな性別だろうと、賢かろうと愚かだろうと、何の違いもないではないか。私の存在はこのデモ行進の中、単なる数に成り果てている。2000人規模のデモがあった。その2000分の1。60キログラムのちっぽけな肉塊。
『百年の孤独』の最後の行:
百年の孤独を運命づけられた家系は二度と地上に出現する機会を持ちえないため、羊皮紙に記されている事柄の一切は、過去と未来を問わず、反復の可能性のないことが予想されたからである。
話を戻そう。『存在の耐えられない軽さ』の中に、こういう文章がある。
彼らはそれぞれ別の側から、犬のうえに身をかがめた。その共同の動きは和解の所作ではなかった。まったく逆だ。それぞれが孤独なのだ。テレザが自分の犬と、トマーシュが自分の犬と一緒に。
私としては、ふたりがそんなふうに別々に、めいめい孤独に、この犬の最後の瞬間までそうしているのではないかとかなり心配になる。
ここで書かれている『私』とは、作者であるところのミラン・クンデラにほかならない。最初に呼んだとき、私は腰から下が全部抜けた。正直に言えば、こんな風に小説が書けるということを私は知らなかった。当時、小説において、作者は徹底的に黒子に徹するべきで、キャラクターが架空のものであると示すことは禁忌中の禁忌、安倍晋三を出すレベルの挑戦だと言われていたのだから。
そして同じように、クンデラはその小説の意味を明示的に提唱する。登場人物がある行動を取ったことが、小説のテーマとどう結びついているかが、はっきりと書かれる。これは極めて異常なことのように私には思われる。
注:もしかしたら、一つの呪いの言葉に囚われている人がいるかも知れない。語るな、見せろ(Don't show, tell.)という言葉だ。容易に想像できるように、クンデラの小説はこの流儀に完全に反している。繰り返すが、クンデラはあるシークエンスを書いた後に、それがどのような意味があり、登場人物にどのようなインパクトを与えたかを書く。しかも、キャラクターごとに書く。週刊少年ジャンプでは死罪に値する悪逆非道な蛮行である。
何回も『存在の耐えられない軽さ』を読み直したが、この違和感は残った。それはこの小説が悪いというのではない。全く逆だ。『存在の耐えられない軽さ』は極めて面白い。ストーリーはよく練られているし、20世紀小説に特有のむちゃくちゃな暴言・偏見もあるし(要約すると『チェコの医者は洗面台におしっこをする』という内容の文章が出てくる)、犬は可愛い。同じ表現、同じ比喩、同じモチーフが反復して繰り返される。
問題なのは、私の最初のテーゼと、クンデラのアプローチは完全に矛盾しているように見えるからだ。最初のテーゼは、小説における解題は不要か、さもなくば小説形式を取るべきではないという。一方で、クンデラの小説は、たしかに小説で なければならない ように見える。具象と解題を並列させた形でしか入り込めない領土での話に思える。私のテーゼは修正が必要になる。しかし、どこに?
クンデラの『小説の精神』(叢書ウニベルシタス294)を読み、私はクンデラを誤読していたことに、そして私のテーゼは一文字目から修正が必要なことを悟った。彼はそのものずばりといったやり方で(なぜかドストエフスキー風の表現になっている!)小説を定義する:
小説:すぐれた散文形式。この形式において、作者は実験的自我(登場人物)を介して実在の様々の重大な主題をとことん考察する。
そして、彼とインタビューアーの会話のやりとり。
クンデラ:まず確かなことがひとつあります。思考は、それが小説の一分になったとたんその本質を変えるということ。小説の外にいるとき、私達は確信の領域にいます。だれでも自分の言葉に自信を持っている。政治家であれ哲学者であれ守衛さんであれ、同じです。ところが小説の領土では、だれも断言をしない。そこは遊びと仮説の領土なのです。だから小説的思考は本質的に問いかけるもの、仮説的なものなのです。
サーモン:しかし、小説の中で自分の哲学を直接に断定的に表明する権利を、小説家はなぜ自分に禁じなければならないのでしょうか。
クンデラ:哲学者と小説家の思考方法には一つ基本的な違いがあります。人はチェーホフの哲学、カフカの、ムージルの哲学、等々といいます。ですが、彼らの作品から首尾一貫した哲学の一つでも引き出そうとやってごらんなさい! 彼らが執筆ノートにその思想を直接表明しているときでも、それらの思想は、一つの思想の工程であるよりもむしろ思考の訓練、パラドックス遊び、即興的発想なのです。
私が何をいいたいか分かるだろうか? 私は自分の論証において、一つの過ちを犯していた。それは、 主題 が句点によって終了すると措定した過ちだ。
言い換えれば、テーマは必ずしも閉形式である必要はない。例えば、『自殺は罪か?』というテーマがあったとする。ここで、多くの哲学者や作家が踏み出すのは、1. 罪である(殺してはいけないため) 2. 罪でない(能うことが能うだけなため) 3. 状況に依存する(ケースバイケースなため)というパターンに落ち着く。3に対して注意するべきところは、彼らは暗にこうほのめかしているという点だ――もし、十分な文脈が与えられたとしたら、きっと私達はその自殺について論ずることができるでしょうね。
しかし、クンデラの主張するところのテーマは、この3パターンではない。クンデラの言うところのテーマとは、やはり『自殺は罪なのか?』というまさにその疑問符、このクエスチョンマーク、ここにある。
入社して2年目、だいぶ仕事も覚えて来たとしよう。あなたは給湯室で先輩とばったり出くわす。くだらない雑談をする。ヤマザキ春のパンまつりがどうのとか、社内メールはもう廃止したほうがいいとか、そういう話をする。突然、先輩があなたの目を見つめる。「これから自殺しようと思うんだ」と告げる。そして彼は給湯室を出ていく。あなたはしばらく考える。蛇口を上げて、水を出しっぱなしにする。人類が六十億を遥かに上回る数もうごめいているところを想像する。彼の家族について思いを巡らす。クンデラのいうテーマとは、この瞬間、おそらくむごいほどに冷徹に進む時間におけるアポリアのことだ。
だから、小説とはあの文化ホールで飾られる書初めのことではない。『明るい納税』とは遠くかけ離れている。
いや、認めることにしよう。『明るい納税』の引力には凄まじいものがある! というのも、『明るい納税』は、まさに概形を決定してくれるからだ。そこには見習うべき手本があるし、かつまた自分のニュアンスを出すのに十分なゆとりも設けられている。私達は上手に書けば称賛がえられる、十分な自由もある(まさに人々の求める習字、その手本に従っている限りは)。
ただ、もう分かっている通り、その領域はすでに(クンデラ的な)小説が呼吸できる空気はない。クンデラはその手本に対して疑問符をつける。そして、それを徹底的に見聞する。まさに然り。
いや、ただ、もう一つ保留をつけるなら、私はまだ小説におけるテーマにそれほど屈服したわけではない。私はブコウスキーだって好きだ!
本稿を書くきっかけになったのは、次のブログを見つけたことが大きい:
https://spiralinspiration.web.fc2.com/sonzai.html
このブログの読者は知ってのことだと思うが、私は他人のブログが好きだ。特に、上記のブログのような、基本的に誰かに読まれることを目的にしていないブログが非常に好きだ(窃視癖的な快楽がある……)。
またこれもついでに言っておけば、Aboutにおけるリンクを少し更新した。これは私が勝手にやっているだけだ。インターネットは自由。もし嫌ならメールしてくれれば可及的速やかに削除する。また、私にメールをするとリンクが張られたり張られなかったりする。