コロナと個人主義
2020-05-272020-05-29追記:しばらく考えてみたが、この日記における主張はよくなかった。私自身が同意できなくなっている。いくつかの細部においては、妥当だと思う部分もあるが、共同体にとって(私が)欠かせないと思うようになった二つの要因が、この事例では欠けていた:小規模性と歴史性だ。
もちろん、この記事を消して、まあ後は知らんぷりしても誰も私に怒りはしないのだろうが、こう追記して、残りは当時から変えずに放っておくのがよいだろう。
日記
暑ぅなったり、寒ぅなったり、大変どすなぁ。あても日中なんかぽーっとしてはります。
ノエルギャラガー語訳:クソ暑いと思ったらクソ寒くなるしファッキンどうなってんだよ、昼飯を食った後なんか眠すぎてムカつくからドラッグストアで万引きしてる
日本語訳:雨の日の後には晴れの日が来るように、気温が高い日の次には気温が低い日が来る。部屋を快適な気温に保つのは困難で、昼食をとると眠くなるのも、まったく当然のことだ。
COVID-19
相変わらずこのウィルスの蔓延は止まらないし、欧米とブラジルはもはや制御することを諦めているようにも見える。ごくまれに、政治は失われる命の数と質を比べることを含むようになり、そのようなプロセスを含む決定は、1.かなりひどい、か、2.もっとひどいのどちらかになる。私見では、今はそのような状態のようだ。
一方で、本邦では(予断は許さないものの)出口戦略なるものが計画されるようにまでなった。これは経済学と疫学の話であり、私がやるような話ではない。とにかく、感染の爆発的な増加なるものは見られてないし、この点では私は無邪気に喜ぶ。やったぜ。
もちろん、人は死んでいるし、今もかなり精神的・物資的に苦しんでいる医療従事者もいる。この点では私は無邪気に懸念する。困った。
なんにせよ、今回のウィルスのパンデミック(といってもよかろう)で分かったことは、共同体というのはあるということだ。マーガレットサッチャーが「社会というものはない」と言い、ボリスジョンソンは「社会というものがある」といい、『天気の子』において新海誠は「社会というものは関係ない」と言った。正確に言うならば、「社会が求める善に従う必要はない」と言った。
私はこの三つの観点のどれにも同意しない。特に最初と最後の言明に関しては、強く反対する。日本社会には共同体というものがある。それはあなたがいつ風呂にはいるかまで知り抜く自治会の共同体かもしれない。大学のコミュニティかもしれない。Twitterの緩やかで刹那的なつながりかもしれない。もっと緩い、ほんの数日しか持たない共同体かもしれない。いずれにせよ、それらは極めて素早く、極めて劇的に、そして極めて高度に機能する。
私の故郷、山梨県の女性が東京と山梨を往復した際を思い出してみればいい。人々の反応は激烈であり、素早かった。インターネットを介した共同体が素早く醸成され、爆サイで個人情報が一瞬で拡散した。もしかしたらムラハチにあったかもしれない。FacebookでもTwitterでも彼女は魔女レベルの扱いを受けた。
にも関わらず、そこには「これはやり過ぎだろ」という声も確かにあった。確かに、嘘をつくのはやばいし、高速バスの乗客を危険にさらしたのもやばい。でも住所はやりすぎだろ。本名はやり過ぎだろ。職場に電凸はやりすぎだろ。これは Twitter の オタク がとりま逆張りすっかというレベルではなく、本当の懸念だったように思える。結果として、もはや我々は「山梨 コロナ女 個人撮影 無修正」などとは検索しない訳だし、新聞のどこを見ても彼女の痕跡は見当たらない。結局、この騒動で残ったのは、「自粛を守らないと個人より巨大なものによって断罪される」という実例であり、しかもこれはその役割を完璧に、可能な限りクリーンな方法で果たした。
思うに、ここには望ましい(私が望むという意味だ)共同体のあり方が示されている。突発的な事態に素早く反応し、共同体内の調和を可能な限り戻すように――物理学者よ、あなたの出番ではない――動き、そして素早く内的に瓦解する。
この共同体の反応についての評価は様々だろう。価値判断を避ける臆病者はさておき、このようなある種のムラ的反応を「ジャップは今日も中世式魔女裁判」と批判するのもできるだろう。実際、前述のような懸念がなければ、山梨県の哀れで少し考えの及ばなかった女性は自殺にまで追い込まれただろう。この点で、「ジャップさあ、カント以前かい?」という批判は正しい。
しかし、私はこの共同体の仕組みをかなり肯定的に評価する。ここには自発的に組織される共同体があり、そしてそれは目的を果たすや否や瓦解する。私はこれをよいものだと判断する。ここには自己愛があり、他人に対する思いやりがあり、共同体への保守主義があり、そして、何より重要なことだが、内側からの否定がある。ここには誰もが自発的にくみ上げる、誰よりも大きいものがある。
この話はここで終わりなのだが、私が思うこととして、『天気の子』を手放しで評価していた奴らは、今の状況をどう思っているのか、ということだ。映画の最終シーンと現在を比較して、令和を予言していたと言うならば、彼/彼女は本当に他人の死を馬鹿にしている。この状況でもまだ、愛は間違っていてもいい、周りから要求されるような"善"とは何事でもないのだ、と言おうとしているのならば、それも間違っている。もっというと、それは本当にひどく間違っている。