『夏帆』という村上春樹が女の意思決定力をバカにし続ける本

以降、村上春樹『夏帆』について書く。この本だ。 面倒なのでページ数などの補足は書かない。買って読め。


村上春樹について話すのはもう数え切れないくらいだ。 芸術家の偉大さをその批判のハードルの低さによって計量するなら、そして概ねそのようにして計量できるのだが、 村上春樹は間違いなく偉大な芸術家だ。現代の小説家のほとんど全員が何らかの形で影響を受けていると断定していい。

色々な作家、特に若くて『尖っている』現代的な作家の多くが、彼の影響を無視するか、単に『時代遅れ』だと批判することによってある種の踏み絵を踏んでいる。いわく、彼の作品におけるジェンダー観がどうの、文化としての豊穣さがどうの、と言った批判だ。 文学におけるほとんどの意見がレトリックを含んでいて、解釈を限界まで弱めることによって妥当だとみなせてしまうので、この種類の話には取り合わない。

私の思う、村上春樹の成果というのは、米文学に対して、その内容と形式が分離できるということを主張し、そしてやり遂げたという点にあると思う。 我々は米国における資本主義の空虚さや、アルコール中毒、任意保険、戦争、武器とまだ乾いた血のこびりついた歴史と彼らの文体は切り離すことができる。 ケルアック、ブローティガン、カポーティやヴォネガットの文章を彼は輸入して、それを平たいパッケージにして東京を梱包して並べた。 それはある種の挑戦で、彼はその挑戦に勝利した。

平たく言えば、村上春樹はカルディめいた輸入食料品店で、そこには外国のパッケージの顔をした日本の料理が保存されて売られていて、誰もが文化的な顔をして幸せそうに買い物をしている。

悪いことじゃない。

今日は彼の書いた『夏帆 - The tale of Kaho -』について話そう。あらすじは既知とする。勝手に調べろ。


書評を読んだ。

世間の書評の気に食わないところは、理論骨子が弱い書評が多いところだ。適当にあらすじを書いて、途中途中でいくつか引用を入れて、褒めてんだかけなしてんだかわからんコメントを述べ、一般的かつ抽象的な結句(村上春樹の新しいチャレンジと清々しい後読感の小説でした)がやってくる。ほんとAIで代替してえよ。でも人生は自由。

私はある程度、筋だった話を書くのが好きだから、ここで一つのテーゼを提出しようと思う。


『夏帆』を読んで、気がつくことは3つ存在する。しょうもないので3つ目から言うが、相変わらず絶妙にエッチだということだ。考えてみてほしいが、27歳の女性が、自分の母親の下着を見て、

夏帆は縁側に干してあった洗濯物を取り込んだ。今にも雨が降り出しそうだったからだ。そしてそのときに母親の身につけている下着が見るからに高級なものであることを知った。色は白と黒のものが大半だったが、生地といいデザインといいずいぶん繊細な、凝った作りのものが多かった。形もかなり大胆だ。

などと言っている。何だ? 形もかなり大胆だって? 形もかなり大胆? 諸君、恋人がいるなら、まず脱がせて、おやおや、下着の形がかなり大胆ですね、などと言ってみてほしい。いないオタクはXのコンカフェ嬢に言ってれば?

(上記の引用は私がタイピングで写した。今からこき下ろすのだが、文章については、やはり極めて巧妙だ。試しに、同じ文章を書いてみるといいが、難しい部分が適切に処理されている)

話を戻すと、1つ目に、この小説において、『主人公』となる主体は、その物語の契機を担当しないということだ。

具体的には、絵本作家である夏帆も、彼女の書く絵本に登場するミソラも、知らないうちにある種の境界線を越えてしまう。それは村上春樹もこのように思わせているとおりだ。

(昔、飼っていたがどこかにいなくなってしまった猫を思い出して)

あるいはそれと同じような境界線が、人間の世界にも存在しているのではないだろうか。でも自分にとっての境界線がどこにどのように引かれているのか、彼女には知りようもない。そしてもし自分でも気が付かないうちに境界線を踏み越えてしまったとしたら、いったいどうすればいいのだろう?

夏帆は思う。私もひょっとしてホルと同じように、私にとっての決定的な境界線、目には見えない路上の一線をどこかで踏み越えてしまったのではないだろうか――自分ではそのことに気がつかなかっただけで。

そして、夏帆の絵本における主人公も、

はっと目覚めたとき、彼女は一人ぼっちだった。

と、いきなりその境界線の向こうに放り出される。村上春樹はこの展開を意図して書いていて、夏帆をしてこのように言わせしめている。

要するにそこが問題なのだ、と夏帆は思う。英雄になりたくもない人間が、というか英雄になれるはずもない人間が、ときとして厳しい試練を受けなくてはならないということが。

もちろん、ここで、村上春樹の読者らしく比較をしてもいい。例えば、『ねじまき鳥クロニクル』においては、妻を探す夫が、必ずや助け出すという強い意志とともに、明確に境界線を越える儀式を行う。

多くの物語が『行きて帰りし物語』としてフレーミングされる、とは、すでに手垢の付いた表現だ。とはいえ、多くの物語が、欠落を抱えた主人公が、何らかの試練をくぐり抜け、そして意図せぬ帰結を受け取るという形式として表現されている。その試練は、明示的に異世界として表現されることもあれば、メタフォリカルなものでもあり得る。

しかし、『夏帆』で出てくる女子供(実際に女子供だ!)は、全く無防備に、何の主体性もなく境界を越える。あまつさえ、それを『望まない越境』として認識すらする。 ここには主人公を主人公たらしめる意志もなく、そして明確なプロットポイントもない。 彼らは単に世界の流れとしてその境界をまたいでしまう――もしくは、境界がその居を変えた結果として、あたかも自発的に境界をまたいだと宣言される。ちょうど、市区町村の合併により、帰属が意図せず変更されるように。


2つ目に、この小説で、主人公たちが、自由意志で行動を起こすことがないという点だ。

まず、主人公の夏帆が居を変えるとき、それは、ありくいの次の命令によって引き起こされる。

いいですか、あなたは武蔵境に越さなくてはなりません。それも今すぐに。そこがあなたのいるべき場所です。

そして、引っ越した先で、夏帆はありくいのために、包丁を研ぐ研ぎ屋からシロアリをもらう。 二回目の来訪の際、夏帆はまずは包丁を受け取り、バッグにしまおうとするが、ありくいがそれを止める。

「その包丁をしまっちゃなりません」とそのとき誰かが背後で言った。穏やかだが心のとおった声だ。

さらに、

「その包丁で男を刺しなさい」

とありくいは夏帆に命令する。研ぎ師は殺すのはやめろと言うが、ありくいは夏帆を後ろから押す。

ありくいの夫が唐突に、夏帆の背中を背後からどんと押した。それはとんでもなく強い力だった。そんなことを予期していなかった夏帆は、障害物に躓いたような格好で前方にぐいと押し出され、その勢いで出刃包丁が店主の胸にまっすぐ突き刺されることになった。

この『人に動物が乗り移る――それを刺して祓う』というシーケンスは、夏帆の母親の体に入り込んだシロアリの女王を対象として、反復される。ここでは、アリクイの役目を研ぎ師が担う。

夏帆ははっと顔を上げて「とぎや」の主人の顔を見た。「私が母を刺す?」

「そうです。それがあなたにとって苦痛に満ちた困難な行いであろうことはむろん理解できます。しかし、それ以外にお母様を解放する手立てはないのです」

そして、自分が絵本に書いた猫に命令されるまま、その武器を取る。その猫が『自分の作ったものだから、自分の意志を代理しているのだ』と思いながらだ。 ここにはかなり屈折した理論がある。夏帆は「自分がこのようにしたいと思う」という意思決定をしない。そうではなく、自分が作ったキャラクターをして、 自分に命令をし、その命令を「自分の意志だ」と解釈する。ここには、明確に、意思決定をしたくない、という感情を読み取ることができる。

最終的に、彼女は、

夏帆は判断をそっくり放棄し、その声に盲目的に従った。彼女はあらためて母親の身体の上に馬乗りになり、刃先の先をさっき確かめておいた場所においた。

彼女は今では感情の扉をぴたりと閉ざしていた。こんな混沌にはこれ以上耐えられない、と彼女は思う。もう一刻も耐えられない。なにもかもすっかりおしまいにしてしまいたい。

と判断をなげうって、意思決定の力を放棄する。

夏帆の書いた絵本の主人公、ミソラに対してもこの主体性のなさが明確に書かれる。

彼女は、

言うまでもなくその子には援助の手が差し伸べられなくてはならない。誰かが助けてあげられなければ、彼女は森の奥でこのまま失われてしまうことになる。(中略)もちろんミソラは――それが具体的にどんな状態を意味しているにせよ――失われたりしてはならない。

といい、作中でも、

「このおうちに入れということなの?」とミソラは猫に尋ねた。

猫はくるくると器用に尻尾を廻転させ、「そう、中にお入りなさい」というメッセージを送った。

などと書き、ミソラから、徹底的に意思決定の力を剥ぎ取っていく。このメッセージは、次のセクションで最も明白になる。長いが、書き出すと、

「さあ、あなたも今のうちにこの水をしっかり飲んでおきなさい」ということらしかった。ミソラは「はい」と返事をして、泉の水を手に掬って飲んでみた。きりっと冷たくて微かな甘みを含んだ水だった。こんな美味しい水を飲んだのは生まれて初めてだ。その水を飲んでみて、どれほど喉が渇いていたか、自分の身体がどれほど水分を必要としていたかを、そこで初めてミソラは知った。そのことに気づかせてくれたスカーレットさんに感謝しなくては、

命令と服従、快楽、そして、欲望を『気付かせて』くれたことに対する感謝――文章における事実を書き出している段階で、この手の注意を向けるのは謹んだほうがいいのだが、私は、この記述をかなりグロテスクなものだと思う。少女は自分について全く理解しておらず、意思決定の力もなく、あまつさえ、『事実』を教えてくれた相手に感謝すらする。 これと似たようなことは、インターネットを子細に観察すれば、どこでも見られることだ。


これらの3点から、真面目に言えば、大胆な形の下着を忘れて2点から、何が言えるだろうか?

まず、明確に、村上春樹は女子供をバカにしている。久しぶりですよ、ここまで女子供をバカにしたエンターテイメントは。

具体的には、数年前に見たガンダムSEEDの映画以来だ。あの映画もすごかった。ラクスクライン(爆乳のヒロイン)がキラ・ヤマト(やめてよね)のために料理を作るのだが、要するに「女は家でメシでも炊いていろ」というメッセージが明確に感じられる。もちろん、二人のデートのときも、ラクスクライン(爆乳)はサイドカーだ。女に運転は早い。ガンダム?に乗って戦うときも、ラクスクライン(乳)はなんかガンダムの隣で浮かんでいる。女は戦場に来るなということだ。家父長制を題材にしたコメディアニメだと思って不謹慎な笑いが抑えられなかった。令和でこの感性はすごいよ。

ガンダムの話をしてしまったが、とにかく、『夏帆』において、女子供は自分の意志によらずに物語世界に無理やり連れてこられる。そして、彼らは意思決定をしない。それは表面的なものではなく――多くの現代的な小説では、作られた隷属が一人称視点で書かれることで何かを告発するのだが――内面的にも、彼らは断固として意思決定を拒む。

話は最終的に、母親からはシロアリの女王が取り除かれ、両親の間にはかつてのような平穏が戻る。アリクイの夫妻はどこかで幸せに暮らすのだろうし、夏帆は絵本を書き続け、なんとかして彼女の絵本の中の子供に、ふさわしい幸せを与えるのだろう。

そう考えると、ここから導き出されるのは、かなりラディカルな主張――女子供は黙って従ってれば幸せになれる――に思える。


もちろん、村上春樹は流石にこのような物語の粗雑な投げ方はしない。彼は物語にその不穏な要素を散りばめる。

夏帆を最初に追い詰めた男は、『守護天使』だと言うが、その証明は不確かな形でしかされない。研ぎ屋の主人の行方はようとして知れない。母親が『シロアリの女王』と共生しているときに言った言葉たちが、撤回されることはない。ありくいは『シロアリの女王』が乗り移った母親が『婚外性交渉』を頻繁にしていたことをうそぶくが、それが事実だと確認されることはない。ありくいたちは姿をくらまし、そこには強制的な移住の結果だけが残る。ありくいの妻は次のようなことを言う。

「好きになれないものを無理に好きになる必要はありません。心の流れは風と同じです。自然のままに任せればいいのです。しかしもしそのことがあなたの心の重荷になっているのであれば、その重荷は取り除く必要があります。今回あなたはお母様をシロアリの女王から救い出し、取り戻さなくてはなりません。それが目下あなたの為すべきことです。それによってあなたはあなた自身を心の檻から解放できるかもしれません」

心の檻から私自身を解放する?

ありくいの妻の台詞の、極めて平板で、無意味なメッセージはこれまで村上春樹の作品では見られなかったものだ。好きになれないものを好く必要はない? 心の重荷を取り除く? 心の檻から解放する? これらの言葉は、むしろスピリチュアルやイージーリーディングの癒やし的なメッセージだ。単純な快楽の肯定と、不純物の切除、耐えないこと、心の快不快を最上位の価値観と置くこと。

そして、村上春樹は、即刻、夏帆の言葉によって、このメッセージに疑問符を入れている。それはどういうことなのだ? それは善の側にあることなのか、それとも暗い領域にあるものなのか――いや、そもそも、行動についてその善悪や明暗を判断することなど可能なのか? これらの疑問は、単に主人公がありくいに隷属的に働くことによって、回答を持たぬまま霧散していく。

主人公の夏帆は、ラストシーンで、床下のありくいに感謝の言葉を述べてから、縁側に座る。そして庭の木に止まっている鳥たちを眺める。『季節とともにこの地にやってきて、季節とともに去っていく鳥たち』を見て、静かに泣く。彼女が境界を越えてから、そしてまたこちら側に押し戻されるまでの間に出会った――そして、定義から言ってもはや出会うことのない――すべてのもののことを思い浮かべて、ただひたすらに泣く。夏帆が何を考え、何のために泣いたかは語られぬままになる。

私はここに、ある種の後悔の念を読み取る。彼女の選択には、常に別の選択肢が存在した。夏帆は引っ越しを選ばないこともできたし、ありくいの望みを聞かないこともできた。ありくいに言われるがままに研ぎ屋の心臓に包丁をささないこともできた。母親と対峙しないこともできたし、もっと別の方法で語り合うこともできた。シロアリの女王の歴史について聞くこともできた。何度も母親に会いに行くこともできた。それらの全ては、彼女が――夏帆が――選択をしないことによって、閉ざされてしまった。それは積極的な選択ではなかった。誰かに言われたもの、与えられたもの、単に他人の欲望と意志のままに進んでいくことだった。

帰結として、彼女のもとには何一つ残らず、単にまた境界のこちら側に戻ってきた感覚だけが残る。豊かなお湯をたたえたバスタブに身を沈めて、誰かに言われるがままにその浴槽の栓を抜く。水位が下がっていく。肩が外に出て、背中を水が離れていく。重力が肉体の重みを教える。空気が世界の寒さを教える。腰をお湯が下っていく。そしてからっぽのバスタブに一人でかがんで黙って待っている――私が想像するビジョンというのはこういうものだ。

そして、この種類の非-選択を、夏帆はこれまでの人生で無数にしてきた。何も選択しない人生――単にすることをするだけの人生――主体性がいかなる意味でも存在しない人生。

『夏帆』に、多くの書評が書くような、『母と娘の戦い』や『母娘関係の緊張と修復』と言ったメッセージを私は読まない。 むしろ、この中編は、人生における主体性についての話、特に、それを喪失した場合の、控えめに言ってもかなり残酷な話だと読んだ。

以上である。