お前らは分かってない。村上春樹『街とその不確かな壁』はこう読むんだ。尻の穴かっぽじってよく聞け【書評】

初めに

村上春樹の『街とその不確かな壁』(以降、『街と』)が出た。もちろん読んだ。小説の内容については次のページに詳しく書かれている。私はこのあらすじ以上によいものをかける気はしない。だから、あらすじを求めてこのブログ記事を読むのは間違えた考えだ。

小説家・小川哲書評家・長瀬海 村上春樹の最新作「街とその不確かな壁」をレビュー「すごく濃度の高い作品」「現実離れした現実とは何かを深く問う物語」(2023年5月4日)|BIGLOBEニュース


さて、次の文章を目にした。

村上春樹による村上春樹のリマスターは成功したのか――『街とその不確かな壁 』評|Real Sound|リアルサウンド ブック

先に但し書きを述べておくと、この記事の後半で語られる、日本文学の歴史における村上春樹の位置づけについては、私は何かを言う能力がない。私は日本文学史に明るくないためだ。したがって何も言わずにおく。

私が言いたいのは、この記事の二ページ目の批評のやり方だ。この記事の著者は、『街』におけるコーヒーショップの女と主人公の会話を引用した後、

しかし、このように考えるならば、死者はせいぜい生者に都合よく利用されるだけだろう――この両者は「等価」だというのだから。

と述べる。しかし、これは コーヒーショップの女店長 の考えである(一応言っておくが、女店長という言葉はない)。さらに言えば、登場人物の意見がその場で反論されなかったからといって、村上がその主張をサポートしているとも結論することはできない。(もっとラディカルに言えば、小説の内容をもとに、単にそれの著者だという理由で、著者の考えを推測することは妥当な推論ではない――いや、私は批評なんて嫌いだ! 批評をする奴はみんな死ねばいいと思っている。)

したがって、この記事の著者が言うような論で村上春樹の 態度 を非難することはできない。

もちろん、この意見は原則的な観点から見た話であって、日本文学批評にはそれ相応のルールがあるということも考えられるし、そのルールに口出しをするつもりはない。また、上記のような『作中意見と著者人格の分離』という原理は――アイデンティティ・ポリティクスの現代では――いかにもクソオタがきゃんきゃん吠えてるみたいだしマジで遊び半分で撲殺したいほどである。正直に言えば、もし私が彼なら私は私を殺しているだろう。

なにより、武士道の精神にかんがみれば、私がどのように小説を読んでいるかをつまびらかにしたほうが正々堂々しているだろう。おい、今からはストロングスタイルでやるぞ。

また、【生配信】村上春樹『街とその不確かな壁』メッタ斬り! - YouTubeを聞くと、「スマホが出てこない」とか「現代についていけてない」とか「女の子を壁の中に閉じ込めてそこに行きたいみたいな話」とか言われているわけだが、これもひでえ批評だと思う。じゃあお前はあれか? 三島由紀夫の小説を読んで「スマホが出てこない」とかいうのか? しかも全く構造的ではない。とりあえず「セカイ系だなあ」とか言ってるだけだ。マジでこれがトップの書評なのか? 日本の文化レベルなのか? だが私は高齢者に優しいことで有名である。許そう。しかしこのハッピーハッキングキーボードが許すかな!

前置きが長くなったが、これは私なりの『街とその不確かな壁』の書評である。私はこの記事で、村上春樹が何を問わんとしているのかを考えようとしている。尻の穴をかっぽじってよく聞け。なぜなら人は尻でも音を聞くことができるから。


公理

マジレスすると、今後、いくつか『街と』から引用を行う。それらは必要最低限度に抑えているつもりだが、もしかすると度を越えている可能性がある。そして度を越した引用は訴訟のリスクをはらむ。……しかし、私はそんなこと全く恐れていない。出版社が訴えてきたからなんだというのか。おい、春樹、訴えるならやってみろよ。私はもうスーツをクリーニングに出したぞ!(注:これは訴訟/Lawsuitとかけているのだ)

また、本論に入る前に、5つの公理を定めておく。これは疑うことができない前提とする。1-3は原理的なものであり、4は私の主観的なルール(もしくは認知の限界)、5は村上春樹に特有のルールだ。

改めて言っておくが、私は批評について専門的なトレーニングを受けたわけではない。したがって、これは怪文書の類である(しかしもちろん言うまでもなく、文責は私にあるし、内容について諸君らが批判することは可能だ)。


1. 登場人物の倫理観は作者の倫理観ではない

これはあまりにも当たり前のことだが、あらためて述べておく。登場人物が悪人だろうと、小児性愛者であろうと、聖人であろうと、それは作者がそうであることを意味しない。主人公が「子供のときの恋人に会いたい」と思っていたからと言って、作者がその意見に賛同しているとは限らない。


2. 作家が自分の無意識をそのまま文章に残すことはない

「村上春樹の無意識のバイアスが」といった批評を偶発的に目にすることがあるが、これは小説を書いたことのない人間の意見だ。

3年もかけて小説を書けば、徹底的に推敲をすることになる。その過程で、無意識に価値判断をしている部分はおおむね見分けることができる。もちろん、それを残すか残さないかは作者の判断にゆだねられているが、それはすでに「無意識に」書かれたものではない。むしろ、彼はそう読まれることを見越して、登場人物の一人称としてその表現を選んでいる、と思うほうが妥当であると私は考える。


3. 作品は暗黙的な外部を必要としない

『街』の感想で多いのが、1. 旧作『街と、その不確かな壁』についての言及、そして 2. 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』についての言及である。また、村上春樹のその他のモチーフ(『井戸』など)への言及もある。また、性的描写がどうの、パスタがどうの、ジャズがどうの、といった話もある。

しかし、これらはガチでクソほどどうでもいい。第一、ほとんど関係がない。単に本の背表紙に同じ文字が四文字(『村上春樹』)書かれているだけで、なぜそれほど熱心に参照しなければならないのか。パラノイアみたいで怖い。これが、ポストモダン、ってやつなんだなあ。

正直に言えば、私が『世界の終わりと』で覚えているのは、主人公が一角獣の頭骨を棒でたたき、そのまま16ビートを刻み、図書館のリファレンスをしている女が壁を突き破っていざ参上、そのままマリワナを吸ってチルするというシーンしかない。え、わからないんだ。そうなんです、こういうシーンはない。

一方で、直接的に参照されている作品は、作者が明示的にリンクを張っているという点で、一考の余地がある。本作で言えば『コレラ時代の愛』である。


4. 作家が作品に込めるテーマとは疑問形である

これは私のドグマである。作家ミラン・クンデラが定義するように、小説とは「作者が実験的な自我(人物)を通して実存のいくつかのテーマをとことん検討する、散文の大形式」だと私は思い込んでいる。

この形式において、作者は未確定の領域に居を定める。その領域は、我々が常日頃なじんでいる確定的な――つまり、善と悪がおおむね決まり、最低でも何を信じるかは決まっているような――世界とは異なっている。そこでは、最も重要なことは疑問形で語られる。

だから、これから語ることは次の目標を目指している。

この小説における疑問とは何か


5. 村上春樹は小説がうまい

村上春樹の作品を批評する人間は春樹をナメているが、彼は日本語で小説を書く存命作家でトップ10に入る文章のうまさだ。

これは褒めているということではなく(いや、褒めてます)、彼の書くものはそれなりの必然性があるということだ。つまり、彼はほかの「書き得た」パターンについて検討し、その検討の結果として、出版された小説の筋道を選んだということは措定しておくべきだ。

例えば、『街と』において、ある少年が突然いなくなるという事件が起きる。この時、部屋の鍵はがっちり閉められていて、作中でもそれは確かなことだと念が押される。また、その少年の金銭や衣類にも全く手が付けられていないことも確証される。単にその少年はどこかに消えるのだ。主人公はそれを聞いて、その少年が『街』に行ってしまったことを――他の人には言わないが――確信する。少年の家族はただ『街』と少年の非科学的な連関に打ちのめされるだけだ。

この展開を別のように変えることも可能だ。すなわち、その少年は 服を着替えて、金銭を身に着けて こっそり家から出て行った、という風にも語れる。そして、少年の家族が血眼になって彼を探している一方で、主人公は心の中でこう思う。いや、あの子は形而下の世界からは脱出してしまったのだ、だから、そのような方法では絶対に見つからないのだ……と。

しかし、村上は後者のパターンを選択はしなかった。五番目のルールが課すのは、村上春樹は後者のパターンを 考慮に入れたが採用しなかった と仮定せよということだ。

(それにしても、『物語的必然性』という言葉は私をムカつかせる。物語的必然性とはなんだ? 物語のつじつまが合っていたらなんだというんだ? それは物事に理屈をつけたい合理主義者の感じやすい部分を撫でてやるだけのことじゃないか)

また、急いで付け加えておくと、『街と』の文章は極めてミスが少ない。700ページ近い分量を書いて、誰の目にも明らかなミスは191ページの、

うちに戻ると私はまずタオルで濡れてこわばった髪を丹念に拭き、オーバーコートについた凍った雪をブラシで払った。

くらいだ。語順の対応から言っても、これは「うちに戻ると、私はまず濡れてこわばった髪をタオルで丹念に拭き、」とするべきだ。

これは驚異的な少なさだ。普通の小説は700ページもあれば20個くらいはこういうミスが見つかるし、私のようなアマチュアがネットに書いた文章は5%くらいにこのようなミスが含まれる。700ページでこのくらいしかないというのは本当にすごい。

もちろん、しいて言うなら379ページの

小易さんはどうやら私がそこを訪れる時刻を予測し(中略)部屋をしばらく前から暖めていたようだった。大事な客をもてなす賢明なホストのように。

における「ように」の使い方がやや怪しいとも思うが、これはおそらく厳しすぎる意見だ。

本論

あらすじ

あらすじを書かないといったな? あれは嘘だ。とはいえ、作者に配慮し、歪曲したあらすじを書く。はっきり言えば、嘘のあらすじである。だから正確には、あらすぎといったほうがいい。いえ、何も言っていません。真実が知りたければ本を買ってください。(小説が要約できるという考えは不愉快だ。このため私は要約を避けるし、うその要約を書く)

第一章

第一章では、次の話が互い違いに語られる。

  1. 主人公が子供の時に付き合っていた女の子の話。彼女とはエッセイ・コンテストの授賞式であってなんか付き合うようになった。文通とかする。ブルー・ブラックのインクで手紙を書いてね。キスとかもしてるしマジでエッチとかしたいけどマジで我慢してる。ジーパンの中で、ワイのポケットモンスターがボーマンダである。これがぼくのツノドリルだ。女の子はなんか椎名林檎のCDばっか聞いてる女子高生みたいなことをほざく。あーしょうもな。 彼女は「ここにいる私は本物の私ではなくて、『街』にいるのが本物なのだ」と言う。その街の詳細を主人公と作り上げる。大学ノートに記録とかしちゃう。あーしょうもな。でもわかるぜ。でもマジしょうもないなこいつら。ツイッターに共同アカウントとか作りそう。別れた後に黒いアイコンにしてそう。

    だんだん女の子の精神状態が悪化して音信不通になる。主人公も相当落ち込む。きついぜ。その後、要するに『20代はイケイケ』『30代はほどほど』『40代はいろいろ』な人生を送る。どちらまで行かれます?とタクシーの運ちゃんに聞かれて、ちょっとそこまでと言いかけた45歳の時に穴(物理)に落ちる。そこは女の子と語り合っていた『街』だった。

  2. 『街』で45歳の主人公は<夢読み>という仕事に就く。それは本の置かれていない<図書館>で、当時の姿(一六歳)のままの恋人にサポートされながら、謎のなんかキモい卵みたいなのから出てくる変なキモい音みたいなのを聞く作業だ。少女の姿のままの恋人は主人公にお茶(『熱くて濃い薬草茶』)を汲んでくれる。女はお茶を汲んでいろということだ。えぇ……。 『街』は本当にさびれていて、時計には針がなく、物には固有の名前がなく、電気はなく、そして人は影を持たない。Wiiとかスマホとかマジない。Wiiって知ってる? Wii持ってると小学校のときモテたんだよね。かけっこが早いかWiiを持ってるかどっちか。それはそれとして、『街』には門番がいて、彼によって主人公は(ほかの住民と同様に)影と切り離される。 しばらくして、主人公は、この街から出て行かないかと影に誘われる。彼は影と街のはずれまで行き、影だけを街の外に出す。サムズアップ・アンド・グッドラック。

第二章

(第三章で明らかになるが、この章の主人公は、実際は主人公の影である。しかし――影は本人に張り付いていたのだから当然――彼は主人公とまるで見分けがつかない)

第二章は大きく三つのプロットが進んでいく。

  1. 主人公が図書館長になる話:彼は仕事を辞めて、福島県の小さな図書館で働くことになる。その図書館の前館長と親しくなる。ある日、彼がすでに死んでいることを聞かされる。同時に、この図書館と『街』の図書館の相似にも気が付く。しばらくして、前館長の(標準的には)霊(と言われるもの)が完全に消えてなくなったことを知る。
  2. 主人公がカフェの女店長(そうなんです、こういう言葉はない)と親しくなる話:駅の近くのコーヒーショップ店員は――「あの兄ちゃんブルーベリー・マフィンしか食べない。"気持ち悪いよ"と話していた」と答える。これは冗談だが、駅の近くのコーヒー屋でブルーベリー・マフィンを主人公は食べまくる。キモいほど食う。冗談半分でプレーン・マフィンも食べる。そこの女店長をナンパしたら普通にイケてビビる。初めてのデートはおうちデートだし、よく冷えたシャブリとか飲んじゃう。なんだこの尻軽。あっちのほうも軽いんやろなあ(女性蔑視)、こっちもシャブリしてみるでヤンス(ニセ黒岩知事)と思ったら全然ダメで草。気長に待てばよくて草。あれ? これって、もしかして……恋!?
  3. 少年を『街』へ送る話:図書館には本ばかり読んでいる極めて寡黙な少年がいる。黄色いヨットパーカーを好んで着ている彼は、図書館の本を片端から読んでいるようだった。その少年は、主人公が『街』について語るのを聞き、そこに行かなければならないと主張する。そして、ある夜、彼はその『街』へ移行する。当然、彼の家族は必死で少年を探し回るが、見つかるわけはないのだった。彼はもうそちらの世界に住んでしまったのだから。

そして、第二章の最後で、主人公はある川を遡上することになる。いきなり何? 繁殖期の鮭かよ。その川は彼が子供時代に遊んだ川だった。主人公が川の上流にいくにつれて、彼の体は若返る。名前のない子供が橋の上から彼に何かを叫ぶが、彼にはうまく聞き取れない。彼の肉体が一七歳まで戻ったとき、彼はあの恋人と出会う。彼らは会話をせずに歩き続ける。そして川の流れに囲まれた白い砂州の、緑の夏草の間に腰を下ろす。まるでひそやかな繁殖期の鮭みたいに。

(ここでちょっと笑ってしまう文章が出てくる。それは『ときどき小さな声で何かの歌を切れ切れに口ずさみながら、彼女は歩いた(聞き覚えのない歌だ)』という文章だ。これがなぜ面白いかというと、村上春樹がスガシカオと親交があり、この文章はスガシカオの『夕立』という詩とほぼ同じだからだ。しかし、公理3があるから、ここではこの話題については深く掘り下げない。)

第三章

第三章は『街』に残った主人公の話だ。彼は街でヨットパーカーを来た少年に出会う。そして彼から「一つになろう(we should be together)」と持ち掛けられる。主人公は承諾する。そうすると、今までは困難だった<夢読み>の作業が極めて容易になる。それは図書館にいる 少女 を幸福にして、当然のように主人公をも幸せにする。

しかし、ある日、主人公はすでにその『街』に留まれなくなっているのを知る。ヨットパーカーの少年はその時が来たのだと告げる。そして主人公は影のいる世界に戻っていく。

以降、本文から重要な部分を書き抜くことが増える。未読の人は作品を読むことを強くすすめる


やけにしょぼい『街』

この本の中心主題はもちろん『街』だ。第一章で書かれるように、この街は「きみ」と呼ばれる少女が主人公に語り、彼がノートに記録したものだ。それは流動的で意思を持つ壁に囲まれた街だ。興味深いのは、次のような点だ。

このような『街』を評して、主人公の影は彼に「この街はあなたがこねあげたものだ」と告げ、また、その街がはらむ矛盾を解消するために、獣が死ぬように(しかし人は死なない)、<夢読み>が存在するように、『壁』が街を取り囲むように作られていると主張する。

この『街』についての記述は価値判断から切り離されている。一人称の視点からすると、たしかに壁は悪辣だが、街そのものは去るべき場所とも、いるべき場所とも書かれてはいない。住民のストレスのはけ口である<夢読み>の仕事も、良いものとも悪いものとも書かれていない。

これは奇妙なことに思える。というのも、貧しく、誰もが好奇心を持たず、プライバシーが存在せず、何の変化もなく、完全に閉ざされた『街』という概念は、現代のまともな 価値観 から考えれば、去るべき場所と書かれるのがもっともに 私には 思われるからだ。

つまり、書き手はここで、主人公があえてこの街に価値判断を下していないと注意しているように見える。その街はなんにせよ主人公の恋人と二人で作り上げたものだし、影が示唆するように、自分の 無意識 の領域に築かれた王国でもあるのだから。

また、この街の境界が現実-非現実の境界ではないことにも注意しておこう。それは――主人公にとっては――意識と非意識の境界なのだ。


しかし、この『街』、『壁』、そして「影を見送って自分が街に残る」という選択が何のメタファーとなっているかは、第一章からは判別することができない。それはむしろ、灰色のファンタジックな記述にとどまっている。

また、一人称の視点を通す限り、このメタファーを十分に解き明かすことはできない。どれだけ紙幅を費やして街の描写を書こうと、それは主人公の一人称から書かれたものと解釈せざるを得ない。理由を知るために、次の小話を読んでいただこう。これはよく知られた一口話である。

ある人が医者にかかった。頭から胸、腹、そして脚まで、どこをを触っても痛いのだという。しかし、医者はそれらのどの部分にも異常を発見できなかった。そう、その客は指の骨を折っていたのだった。

つまり、単一の視点から書く限り、あるメタファーの指すものを決定することはできない。というのも、メタファーの意味を、それを見る一人称の偏見へと常に帰することができるからだ。我々は第二章を待たねばならない。以下、犯罪的に短い要点を述べる。

幸いなことに、犯罪的に短い要約を書いた後も、警察は訪ねてきていない。第二章に進むことにしよう。


二つ目の街、二つ目の図書館

(公理3を逸脱する――第二章は「その川の流れが入り組んだ迷路となって」と始まり、主人公と16歳の恋人が川の中州で座るシーンで終わる。これは明らかに円環をなしていて――それは当然のようにあの有名な rivverrun, を思い起こさせる。おい春樹、ジョイスの匂わせやめろ!)

(公理3をもう一度逸脱――第二章の300-375ページで『出し抜けに』という言葉が5回も使わる。ほかの部分では1回しか使われないのにだ。また象徴的なモチーフとして『白い葱』が出てくる。色々あるが、村上春樹はドストエフスキーのフレーバーをつけたいらしい。ほんとこいつ………!)

そして、その問いかけに呼応するように、第二章では「小易さん」(以降、小易)が建てた図書館が登場する。その図書館は、主人公がいた『街』の図書館と著しい相似を見せる。

私は決して、「図書館」という言葉の図形合わせで言っているのではない。私はそういう『絵柄合わせ』的な解釈を憎んでいる。キーナ(黒髪、巨乳)がフルーツショップでオレンジと葡萄のどちらを買うかで迷ったということで、彼女がミリィ(髪が橙色、巨乳)とベラドンナ(髪が紺色、巨乳)のどちらを選ぶかのメタファーを提示できている――こういう解釈をする奴は本当に死んだほうがいい。変なアニオタに私はなぜかキレている。やめてください。本当です。私は超オタクである。トマス・ピンチョン全小説とか全巻持ってるし超好きである。

実際、作中でも子易の『図書館』と主人公の『図書館』の相似は繰り返し注意される。例えば、

また、この図書館がある街と第一章の『街』の相似も注意されるところだ。

この類推をもとに考えれば、子易と主人公の共通部分によって『街』そして『壁』のメタファーを探っていくことが容易になる。

実際、子易も主人公と同じように、一人の女を非常に強く、純粋に愛し、そののちに失ったという共通点を持つことが示される(388ページ)。また、子易が図書館を作り出したのは、その喪失によるものだろうと推測される。

しかし、この類推を進めると、いくつかの問題が出てくる。一つには、『街』にいた少女の似姿として子易は誰を選んだのだろうか、という問題である。それは事務を一手に引き受けてくれる ふくらはぎの美しい 女性なのだろうか(娯楽的な要素:主人公はふくらはぎに欲情している)。ただ、この解釈は牽強付会に思われる。この女性には明確なバックグラウンドが設定されていて、しかも、彼女に対して、子易はそれほど特別な感情を抱いていないと述べられている。

また、この解釈を引くと、イエローサブマリンの少年が『街』へ行くというストーリーの筋が通らなくなる。確かに、彼には、ほのかな恋心を持っていたクラスの女の子がいて、彼女とは会えなくなってしまっている(403ページ)。したがって、この少年が『街』に移行したのは、この破壊されてしまった愛が原因だということも可能ではある。

しかし、第三章で彼が言うように、彼は「悲しみというものを感じ取ることができない」(663ページ)のだ。ここでいう悲しみは誰かと二度と会わなくなるという悲しみを指しているのだから――おそらく、この『悲しむことができない』ことはそのクラスの女のことの疎外にも当てはまるはずだ。

したがって、次の解釈――『街』とは傷ついた愛を鎮めるための場所なのだ――という解釈は成り立たない。また同様に、村上がこの小説に込めたテーマは「失恋からどうやったら立ち直れるか?」というレベルの疑問ではない。ここにはより深い問題がある。『街』とは「アドレッセンスを封じ込めるための場所」ではないのだ。

では、村上が我々への注意として造形した『コーヒーショップの女』、そして『ヨットパーカーの少年』を見ていくことにしよう。

(公理3の逸脱――村上が福島県を場所として定めたのはリアリズムの要請からだろう。しかし、北海道の地名の件で懲りたのだろうか、町名のレベルでは匿名化されている。ビビってんのか? ほら、町名も出してみろよ。かかってこいよ)

(どうでもいいが、この町が福島県にあったからと言って原発を想像するのはあまりにもナイーブだし、疫病からコロナを想像するのもまた同様である。そのような脊髄反射的な解釈は、本文によってほとんど裏付けることができない。第一、福島県には語るべきことが山ほどあるし、第二に、疫病も山ほどある。もちろん、巻末の「あとがき」もゴミだ。作者が書いてるからって何?(cv. ロラン・バルトの守護霊)とにかく、辞書的な絵柄合わせでヘラヘラしてる奴は全員ゆるさない。おまえーっ おまえ…… 批評家がなーっ 小説をなーっ ゆるさーーーん バシーン)


ガチでキモい主人公

さて、この『コーヒーショップの女』について主人公がどう考えているかを見てみよう。

その女性は三十代半ばくらいに見えた。ほっそりとした体つきの、とりたてて美人とは言えないまでも、感じの良い顔立ちの女性だ。(374ページ)

彼女のほっそりとした体つき、まっすぐな黒髪、化粧気の薄い顔、ときどき皮肉っぽく曲げられるふっくらとした唇。彼女には私の心を惹きつける何か特別なところがあるのだろうか? 美人というわけでもないし、それほど年若くもない(もちろん私よりは十歳ほど若いけれど)。(502ページ)

要するに『ちょうどいい女』と言っている。ガチでビビるほどのクズだ。冷静に考えるといろいろとおかしい。45歳を過ぎて、35くらいの女に「この女、まあちょうどよくブスだな。寝てもいい」と思っているやつ、終わっている。45歳にもなってウエメセで寝れるとか言ってるやつヤバいだろ。最低でも寝させてくださいだ(編集注:意味不明)。

確かに、45歳の中年男性になった時、35歳のちょうどいいブスに会ったときの心情として何を書くかは難しい問題だ。また、「まあ寝てもいいかな」と思うパターンも、可能性の一つとしてはなくはないだろう。また、なんにせよ、45歳と35歳の性交について考えるとき、 繁殖を目的にした性交 というテーマは退ける必要があるし、まだ若い私にとってはそれは難しい(ほら、ここが反論のチャンスだぞ)。

だから、この記述をもって、この一人称の主人公がどのようなやつかを判断することは……いや、ここは大胆になろう。こいつはホンマモンである。

というのも、この中年男性、この女性と話しているとき、いきなり「過去における自分の性欲と、今現在の自分の性欲を、うまくより分けることができ」ず(503ページ)、17歳の時、電車でめちゃくちゃエロいこと考えてジーパンの中で性の呼吸壱の型『勃起』をしていたことを思い出したりする。しかも太字で書いてある。普通に最悪。

最悪である? 読者に対して主人公はなおもこう挑戦する。

でもほんとうにそうだろうか、と私は思う。それはほんとうに正しくないことなのだろうか?(504ページ)(太字は傍点)

わかるだろうか。こいつは完全にイってる。

春樹はまだこの異常性を執拗に書く。具体的には、主人公はロシア五人組(バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、ボディロン、リムスキーコルサコフ)のうち、三人だけを思い出した状態で『コーヒーショップの女』とのデートに出かける。

そして、彼女がセックスレスについての告白をするのを聞きながら、実際は17歳の時にあの少女から聞いたセリフを思い出している。 「あなたのものになりたい」とその少女は言った。「何もかもぜんぶ、あなたのものになりたいと思う。」 わかるだろうか。リアルにヤバいやつである。

そして、それを見透かすように、女は何を考えているのか詰問する。彼はロシア五人組のことだと言葉を濁す。それはそう。女はまた会えるかと聞く。期限を設けずに待ってくれるかと聞く。彼はあいまいに肯定する。彼らは手を握る。そして突然、彼は「バラキレフ」とほざく。女は両手で顔を覆って泣く。

さて、この会話をまとめると次のようになる。

女:「トラウマとかじゃなくて、でもとにかくエッチが苦手で……本当に……」
男:(17歳の時の恋愛について思い出して勃起している)
女:「何考えてるの」
男:「ロシア五人組」
女:「また会える?」
男:「バラキレフ」
女:(泣く)

ふえぇ……。こんなのノーベル文学賞(会話の理不尽さを発見した功績により)だよぉ……。


しかし、この『待つ』という言葉が、主人公に引っかかる。彼はもしかしたら、17歳の少女ではなく、このときを待っていたのではないかと思う。確かに性交はない。哲学に関する会話もない。それは相手にすべてを与えるものでもないし、すべてをささげるほど熱烈なものではない。何もかもを縛り上げるほどの強制力はない。そしてそれは無期限に宙づりにされる可能性がある。

彼はまた思う。自分と『コーヒーショップの女』は何かによって妨げられている。それが何かを指し示すことはできないが、何らかのがあるのだと悟る。

そう、595ページ周辺で語られるこの文章によって、主人公は明確なスイッチを踏む。17歳のころの恋が完全に終了したことを確認する。相互理解というものが(あるいは、愛が)ある領域に限定されている――それがどれほど広くとも、少なくとも『個人だけの領域』を残すようなものである――ことに気が付く。また、そのプロセスが時間的な広がりを持つべきものであることも受け入れる。

この発見と、『街』の成立は極めて鋭い対象を見せている。というのも、『街』ではプライバシーがなく、存在を丸ごと転移させる必要がある。そして『街』は時間的な広がりを持たない。四季は繰り返すが、誰も歳を取らない。

この性質たちは子易の『図書館』においても成り立っている。例えば、子易の図書館にプライバシーがないことは、子易の極めて私的な部屋を指す次のような説明によって、逆説的に示されている――「でもあの部屋(子易の私室)には盗まれて困るようなものはひとつもない。そんなところにいちいち鍵をかける必要なんてないはずだ。何のための施錠なのだろう?」(272ページ)。一人称を通したこの記述は極めて不穏なメッセージを含んでいる(秘密がないならなぜ鍵なんてかけるのかという意見はあべこべの意見だ。鍵によって我々は秘密を持つことができる)。

この記述から、『街』はある種類の停滞した個人的な領域を指していると想像することができる。そのシステムの中では安寧が保証されていて――それがどのような犠牲と抑圧によって下支えされていようと――そこには、そう言ってよければ、何らかの調和がある。それは外側の対象との交流を放棄した平穏だ。

ただ、まだ注意が必要になる。これを愛情と混同してはいけない。『イエロー・サブマリン』の図案が書かれたヨットパーカーを着た少年もそこに行こうとしていて――彼は無条件の愛情をむしろ拒絶してそこに行くのだ。

私はこれで村上の提示しようとした疑問にさらに近づいたことになる。街とは何らかのメタファーである。そして壁も何らかのメタファーである。それらはおおむね心の内側のことを指している。愛を含む何かを。

(加えて言えば、この『コーヒーショップの女』への移行はちょっと寝取られっぽいフレーバーで語られる。具体的には、主人公は『ヨットパーカーの少年』が『街』の図書館に行き、主人公が好きだった女が少年のために熱くて濃い薬草茶を淹れるところを想像する。そして「淡い哀しみ」を覚える(535ページ)。あれ、ちょっとこの人……腰のあたり……ふっくらしてはります……?)


ヨットパーカーの少年はなぜ鍵を開けてから街に行かなかったのか

『ヨットパーカーの少年』について語ることは少ない。

技術的な水準としては、村上はやけに作中の『雌猫とそれの産んだ子猫たち』と少年を類比する。具体的には、少年が失踪した後、少年の家族が彼を探しにやってくる。父親と面会したあと、主人公は、その少年が子猫とその親の雌猫がじゃれあう様子を眺めていたことを思い出す(531ページ)。

ほかにも、彼らの兄弟が少年の様子を聞きこみに来た時も、主人公は「猫と五匹の子猫たちを」飽きることなく眺めていた少年のことを思い出す(567ページ)。

つまり、一人称視点を通したとき、少年と、彼がいなくなったら取ってつけたように半狂乱になる家族は、あたかも猫とそれの産んだ――そして地域住民に引き取られた――子猫のように見えるのだ。

このような類推が最も明確に書かれるのが473ページにおける記述である。それは、

少年のためには、母親から切り離されるのは好ましいことかもしれない。子猫たちがある時点で母猫から切り離され、自立していくのと同じように。

と書いてある。つまり、少年の選択は、主人公にとっては(それが主人公に決定のコストを背負わせない限りにおいて)おおむね肯定されている(余談:村上春樹はこの部分で、明らかに読者を全く信頼していない。彼は執拗に猫-少年の関係を書き直す。理由は不明だ)。

むしろ、ここで私が問いたいのは、公理5.で挙げた疑問だ――なぜ村上はここでプロットを少しだけ変更させなかったのだろうか。なぜ、少年が家出を偽装して、家族を欺かなかったのかという点だ。

そのようなプロットにすれば、少年とその家族との間の溝はより絶対的なものになるだろう。というのも、現在の設定において、少年の家族は『街への移行』という可能性については棄却していないからだ。

一方で、もし、少年が窓の鍵を一つでも開けていれば、いつも着ているパーカーを着ていれば、小銭を少しだけ握りしめていれば、家族たちは普通の家出だと思っただろう。この可能性は作中でも述べられている。

しかし、村上はその物語のパターンを選ばなかった。ここには間違いなく理由が存在する。

技術的な問題はここにはないことを挙げておく。一つ目に、『ヨットパーカーの少年』はむしろ極めて知的な対象として描写されている。したがって、家出を取り繕うという可能性に少年が気が付かなかったことはない。二つ目に、少年は人を騙すことができることを挙げておく。451ページで書かれるように、彼はわざと粗野にふるまうことができる主体として描かれている。単に無垢で、あどけなく、何の苦悩もない存在ではないのだ。したがって、物語的な可能性としては、『ヨットパーカーの少年』が鍵を開けて、家出を偽装して『街』へと旅経つのは完全にオープンな可能性である。

だから、村上はここで、少年の親族にその可能性を提示し、その反応を記述するべきだと考えているはずだ。彼らは一様に少年を大切にしていると語り、彼を何とかして探し出したいと思う。例えば、

そして、それらはおおむね、『街』の存在を認めながらも、そこへの移行は非科学的として棄却する態度になっている。その世界は主人公(とその恋人)が捏ね上げた架空の世界であり、そこへの移行は単にできないものだと主張している。

重要なのは後半の記述だと私は考える。というのも、もし仮に鍵を開けて出て行ったヴァージョンでも、前者――つまり、「私は少年とできるだけコミュニケーションを取ろうとしていた」と主張すること――は可能なのだから。

ただ、ここで村上が書こうと思っているのは、おそらくは科学(?)への挑戦でも、彼らの想像力の欠如でもなかろうと私は考える。村上が書かんとするのは、この節の最後に端的に書かれている。少年の兄は、弟が『街』へ消えた可能性について触れる。そして、その移行が「比喩的にか、象徴的にか、暗示的にか」は不明だが、と述べる。

いや、それは比喩でも象徴でも暗示でもなく、揺らぐことのない現実なのかもしれない。(571ページ)

つまり、ここで村上が書きたいのは、『街』やその『壁』を知る者にとっては、『街』の世界と現実の世界――もしくは本体と影――は自明な区別がないということなのだろう。ちょうど、硬貨の表と裏についての意見が時折かみあわないように、少年とその周りの人々は、どちらの世界がより現実であるかについて異なった意見を持っていた。

だから、少年が主人公に伝えたかったのはこういうことなのだ――あなたのいる世界は、僕にとってはむしろ『街』であり、僕に「誕生日の曜日を教える」という入口以外与えない、あなた達の日常が『壁』なのだと。

この書きぶりはあまりにも野蛮かもしれない。第一、この議論はあまりにも薄弱な類推に基づいているし、あまりにも開かれた解釈から一つを任意に選び取ってもいる。

しかし、村上がその『街』とそれを囲む『壁』が空想と現実の境目でないと書いているのは前にも見たことだ。また、村上が意図的に私たちが現実と考えるものを揺さぶりに来ていることも理解できる。加えて、私はこの解釈を二つの議論から正当化する。

一つには、この少年が『壁』に囲まれた『街』をむしろ第一級の現実世界だとみなしていることがのちに書かれるからだ。主人公は作中で、「夢に類するもの」を見る。その夢で、彼は森の奥にある小屋に入る。彼は「その小屋の内部には漠然と見覚えがあった」(573ページ)。そしてその小屋の奥で、ヨットパーカーの少年に瓜二つの人形を発見する。彼がその人形の口に耳を近づけると、人形は彼の 耳たぶを強く噛む

ここで注意するべきなのは、その少年(の人形)のことを、彼がこの世界に残していった「肉体」なのだと主人公が判断するところだ。彼にとっては、通常の意味での現実世界とは、人形という変わり身を置く場所に過ぎない。

二つには、そのあとの 581ページで、「なぜ少年は耳をかんだのだろう」と主人公が追憶するシーンで、主人公がこの現実世界の不確かさを――半ばシュルレアリスミックに――体感することが挙げられる。少年が伝えたかったこととは、一つには、この世界と無意識の世界の境界は個人的なものであるということなのだろう。冷たく冷えた鉄みたいにソリッドな質感を持つのが、『街』の世界である可能性もあるし、そして不確かであいまいで『壁』によって阻まれる世界がこちらがわの世界であることもありうる――そのように彼は主張している。

(余談だが、このあたりで「図書館に設置されたコピー機を使って地図のコピーをとり、コピーしたものの方に」……という文章が出てくる。コピーコピーうるせえよ。カカシ先生か)


『コーヒーショップの女』は『街』が小さいが明確な愛によって否定的に揺さぶられるシーンを、『ヨットパーカーの少年』は『街』がこの現実世界と対等な関係でありうることを示している。『街』、『壁』、そして無意識の世界。

村上がこの小説において疑問に付したいものとは――『街』と『壁』とは――他者への全体的な信頼とでもいうべきものなのだろうか?


第二章の終わり、主人公は川を発情期の鮭みてえに遡上する。くそっじれってーな 俺なんかやらしい雰囲気にしてきます。そしていやらしい空気になる。中州で……ねえ……。ちゃんとビニールシートとか持ってきなよ。汗で滑ってめちゃくちゃ最悪だけど。でも毛布だとすげえ汚れるんだよな。

私が注意しておくのは、この短いスケッチに、固有の名前が全く現れず、言葉はほとんど崩壊しているということだ。子供は「何を言っているか聞き取れず」、人々は「どことなく古っぽく」見える。そして「数千本の目に見えない糸」が二人をつなぎ、「無数の蝉」たちがなく。やがて名前のない星たちが瞬く。

これらは抽象的というよりはむしろ――私はちょっと大胆になる――ぼろぼろになった記憶を思い出しているときのパターンによく似ている。

少し試してみてほしいが、初めてのデートのことを思い出してみてほしい。もしそういう経験がなければ、私が行ってあげてもいいんだからね。あんたがかわいそうだから付き合ってあげてるだけなんだからね、ちゃ、ちゃんとエスコートしなさいよね。今なんの話ですか? 村上春樹の小説の話だ。

話を戻す。あなたが強く覚えているものを思い出してほしい。それをできるだけ細かく説明しようとしてほしい。気温はどうだったか? 日は出ていたか? 風は吹いていたか? 何月の何日だった? あなたはどこを歩いて、周りの人は何を言っていた? 何匹の虫が鳴いていた? 床の色は――流れていた曲は――みんなの服装は。

おおむね、それらの回答はあいまいなものになる。それらを自分が実際は忘れつつあるのだということに気が付くだろう。そして、まさにその時から、自分がはっきりと覚えていると思い込んでいたものが、実は単なるぼろぼろの記憶で、それから目を背けていただけなのだと気が付いた時から、暴力的な忘却のプロセスが始まる。ちょうど、『ドリアン・グレイの肖像』に書かれるようにだ。私はあなたたちにかなりの良心の呵責を感じる。私はあなたたちの重要な記憶を野蛮な方法で風化させに行ったからだ。しかしそれは避けられないことだ。あなたはいつか記憶の風化に向き合わなければいけなかった。

大胆な類推を許せば――これはアマチュア作家としての類推だが――ここで主人公は、この少女を忘れようとしている。というのも、少女の記憶は名付けられないものでできた記憶へと変わり、名付けられていないものを思い出すことはできないからだ(そう、ガルシア=マルケスが『百年の孤独』において言ったように)。

批評家がこの節を読んで「思春期に戻ろうとする意志」と評するのは間違った考えだと思う。この節は忘却のプロセスの始まりを描いている。自分があれほど愛して、意識と無意識、そして肉体、すべての領土を明け渡そうと思った相手の名前すら、固められただけの粉砂糖のように消え失せてしまうものだと知ってしまう、そのわずかに緑がかったプロセスを。


お前の恋はそんなもんか問題

第三部において述べることは短い。影が『コーヒーショップの女』に惚れて、16歳の少女のことを失い始めた影響がそこかしこに見られる。例えば、

そのあと、主人公と『ヨットパーカーの少年』は短い対話を行う。そののちに、主人公は元の世界に帰ることを選択する。主人公はいろいろなことを少しだけ思い出す(ここで二章の最後のシーンが思い起こされる)。そして、影が待つ現実の世界へと足を踏み出す。

第三章は私にとってはかなりハートブレイキングだ。あれほど恋焦がれた少女が徹底的に消去されている――そして、一人称の語り手はそれを全く認知しない――という記述が徹底的に繰り返される。その消去にはプロセスというものはおそらく存在しない。『街』は時間を持たず、プロセスは時間によって駆動する。だから、『街』は過程というものを持ちえない。

そして、そのような固定された時間、『壁』に守られた『街』でヨットパーカーの少年は生き続ける。現実世界の山小屋に自分の肉体の名残だけを残して。

私は最初、この節を「お前の恋はそんなもんか問題」と始めた。あまりにも主人公の忘却ぶりがすごすぎたからだ。しかし、今では、私はそう主張する気にはならない。これは代替わりについての記述なのだろう。


終わりに:街とは何なのか――何が疑問に付されているのか

村上は、『街』とそれを取り巻く『壁』を何のメタファーとして用い、そして何を疑問に付したかったのだろうか?

第一章において、『街』と『壁』は、個人の中に存在し、無意識の世界に属する、恋人との静的な世界だと示唆された。

この一人称の視点を補完するように、第二章においても、小易の視点から、それは無意識の世界であること、また強い愛から生まれるものだとサポートが与えられた。

しかし、『コーヒーショップの女』のエピソードを詳細に見れば、その世界とは固着していて、他者に開かれておらず、また時間の幅を持たないものであることも示唆された。さらに、その世界が愛のみに留まるものではないことが、『ヨットパーカーの少年』の話から追加された。

これらの話から、『街とその不確かな壁』を一言で名付けるのは困難で、村上春樹の努力を小ばかにしたことでもある。第一、もし、私がここでぱっと一文でまとめてしまえるなら、いったい、小説の意味とはどこにあるのか? (公理3に違反――村上春樹は『職業としての小説家』の中で、「小説の中で『素敵な一行』を書かないようにしたい」という趣旨のことを書いていた)

しかし、野蛮にも大雑把な近似を行うことにする。私は、この話は 親密さ ( インティマシー ) についての疑問だといえるだろう。

親密さとは何か? 言葉を定義することは難しい。しかし、私の言葉で定めるなら、それは他者とのかかわりあいの一つのパターンで、無意識の領土をお互いに渡しあうことだと定義できる。そして、この小説の一つのテーマとは、次のように書ける。

我々は全面的な親密さを抱くことができるだろうか?

相手のことを「きみ」と、そして自分のことを「ぼく」と呼んでいたとき、二人は確かに親密さを持っていた。無意識の領土――『街』――は二人で構築するもので、それの 建築家 ( アーキテクト ) が誰で、煉瓦を積むのが誰であろうと、その領土は二人だけのものだった。そして強固な『壁』によって彼らは守られていた。

小易が育んでいた愛もおおむね似たようなものだっただろう。無意識の領土は共有され、周りの親戚からの(幾分か醒めた)監視を、壁は守ってくれた。

だから答えは肯定的なものになる。私たちは全面的な親密さを抱くことができる。私たちは愛されたことがあるし、愛したこともある。よく言われるように、「19歳の時に彼氏にドライヤーをしてもらったときの幸福」のような形で(私はこのキッチュさを単に許すことができないが)。

しかし、その『壁』が破られ、親密さが損なわれた後、主人公は一人その『街』に取り残される。時間の停止した無意識の領土で、彼は親密さを分け与える相手を持たない。そしてそれまでは彼らを守るはずだった壁は、奇妙に形を変え、常に付きまとい続ける。

主人公は新しく女と出会うたびに、その壁が無意識の領土を『守って』いるのを感じずにはいられない。そしてそれは親密さを阻害する。『コーヒーショップの女』との間にもそれを感じる。時間がその壁を溶かすのかもしれない、もしかしたら単に老いるだけなのかもしれない。すべては未確定で、暗闇の中にある。

小易は重要なことを言おうとするが、ストーブの薪は崩れ落ちることで警告する。あなたは本来とるべきでない相手と親密になろうとしている、と。

ヨットパーカーの少年はそのような親密さを抱くことができなかった。どことも、誰とも結ぶことができなかった。そして彼は強固な壁に囲まれた場所で、すでに誰かもわからない少女とともに暮らすことになる。村上はそれに対してほとんど価値判断を下さない。微かな「哀れみ」のような描写は一人称の目からなされるが、それは単にありうる選択肢の一つとしてみなされる。

さて、我々は全面的な親密さを抱くことができるだろうか?――それが破壊された後でも。


残りのもの

小説の解釈はロールシャッハ検査的だ。実際、『壁と』を別なように、そして私の結論と全く異なったように読むことは間違いなく可能だと私は考えている。より強く、それらの意見には私の意見より妥当なものが多いとも思う。

というのも、私の議論はぐらぐらした類推や、不確かな仮定、妥当でも健全ではない議論に頼っているし、何より、作中に現れたいくつかのパーツを『残りのもの』として放置しているからだ。

おそらく、より『正しい』解釈というものは存在し、そのものでは、それら『残りのもの』は正当な位置が与えられるだろう。しかし、私の能力はそれほどまでに卓越しているわけではない。

女の逆半分

第一章において、熱病を出した主人公の看病をしてくれた老人が語るエピソードがある。このエピソードがどのような身分を持つか、私にはわからない。

身投げ

また同様に、第一章では集団自殺のシーンが描かれる。これも何らかのメタファーではあろうが、私の手には余る。

恋人の夢

最後に、主人公の恋人が手紙に書いてくる夢の話がある。この夢が何を意味しているのか(何らかの暴力の暗示なのか)、主人公の立ち位置とは何だったのか、そして彼女が難破した船からなぜ逃げることができなかったのか――それらは単に置き去りにされている。


以上である。