子の数学の能力は両親で決まるとか、言い訳したいだけだろ

私は遺伝学者ではない。遺伝学の学位も持っていない。したがって、この記事には間違えたことも書いてあろう。とはいえ、記述は正確さを心掛けるし、本文中の誤りのいっさいは私に帰されるべきものだ。では始めよう。

子どもの数学的能力を気にして伴侶を選ぶ――まず自分の立場をはっきりさせるが、これはバカタレの考え方だ。『知能の高いけだもの』とでも呼ぶべき立場だ。私は『考え方だと思う』などと逃げたりしない。これはバカタレの考え方で、私はその理由をこれから説明する。人類の愚かさは留まるところを知らず、それは悲しいことだ。

もちろん、現代を生きるインテリならば、ChatGPTを少し使い、次のようなことをさっと書くことができる。そして、おおよそ日常会話で数学能力と生殖の関係について議論することがあれば――それらの議論はおおむねその日の生殖のためにされるのであるが――これ以上のことはいらない。

しかし、私はこういう手の議論に手を貸すつもりは一切ない。リベラリズムはこう言ってるから駄目なんです。これはふざけている。では、リベラリズムが殺せと命じたら殺すのか? 人類の思想は私の杖であり靴であって、私が思想の生存手段なのではない。かかって来いミーム主義者ども。中世の豚のように殺してやる。

まず私が反論しようとしている言明をはっきりさせておこう。私は雑魚狩りなどしない。できるだけ強い敵を選ぶことにしよう。

数学能力の遺伝率は 90% にもなる。私は子供に数学ができてほしいので、私は配偶者に数学が得意な者を選ぶ。

この言明の優れたところは、主張に 『私は』 という腑抜けた限定をつけるところだ。これによって、多くの反論に対して、彼らは これは私の選択 だから問題ないと反駁することができよう。私が何をやろうと勝手だろう? 私の世界は私だけのものだからだ……。

(もちろん、カントにとってはそうではない。当時のカントはかなり自他境界の怪しいメンヘラみたいなおっさんで、「いいよ? 世界のみんながそれしてもいいなら、いいよ?」みたいなことを言っていたらしい。したがって、彼にとっては『私は』という限定符はほとんど何の意味も持たない。だが私はカントではない)

しかしそうではない。私はいくつかの論点を取りあげてこの主張について議論する。皆様の夜のオカズになれば幸いだ。


論点1.遺伝率は過剰に推定されている

まず、諸君らが記した科学論文に記載されている事柄についての更新から行おう。

人類に膾炙している表現は「数学の遺伝率は90パーセント」という文言だ。この0.9という数値のもとになっているのはAlarcónらによって書かれた論文だと推測される。確かに、この論文の要約には「数学の能力についての潜在要因のばらつきの90%が遺伝的要因だと」推定されたと述べられている。

私はこういう数値を見かけたら、自分で調べ物をしないと気が済まないたちだ。

最初に、科学論文での遺伝率は、読者の直感にあっていないかもしれないことを注意しておく。自分の認識が及ぶ範囲では、(最も単純には)遺伝率は次のように定義される。

  1. 一卵性双生児をたくさん集めてくる。
  2. 1.の数学能力を測定し、相関係数を算出する
  3. 二卵性双生児をたくさん集めてくる。
  4. 2.の数学能力を測定し、相関係数を算出する。
  5. 遺伝率は 2 x ((2.の結果) - (4. の結果))として定義される

これが遺伝率として計算されるものだ。もちろん、理論は存在する。

いわく、一卵性双生児同士は遺伝情報を完全に共有するが、二卵性双生児は半分しか共有しない。したがって、相関係数の差分がその『半分』に対応する値になる、というように。ここで、理論と実証の間に横たわる議論をまたぞろ持ち出すことはできる。ただ、いったんここは認めることにしよう。双子研究は何かしらの遺伝率を計算できる。

しかし、前述の論文で観測されている効果が、アメリカに住む人間に特有の遺伝率ではないとは言い切れない。むしろ、近年の研究によれば、数学の能力に関係している遺伝子変異の中にはアジア人に特有のものもあるとされている。また、英国で1995-2005年ごとに行われた双子研究によれば、数学の遺伝率は0.43程度だと計算されている。さらに、Davisらの論文では0.5あたりだと推定されている。加えて、2014年のメタアナリシスによれば、数学能力の遺伝率は0.57だと言われている。なんだこいつ数ばっか書きやがってキモいな。

これらを勘案すれば、この論文で書かれている0.9という値は双子研究から導かれる数学能力の遺伝率としては、再現性が高いとは言えない。

また、これは双子の話だ。もし、これが双子に特有の話ならば、ここでの 0.9 という数字は人口の1パーセントにしか関係のない話だ。こういうことを書くとすぐさま遺伝学者たちが飛行して襲来する。イナゴかよキモいな。確かに、現代ではゲノムの変異を用いて、直接的に遺伝率を計算することが可能になっている。すなわち、各個人の数学能力とゲノムを調べ、前者のばらつきと後者のばらつきを比較することができる。詳しくは GCTA を参考のこと。

しかし、例えば前述のDavisらの論文では、ゲノムを使った調査でも、0.5程度の遺伝率が推定されているし、別の論文では、より少数の遺伝的多型に絞った解析は数パーセントの遺伝率しか与えないことが報告されている。

以上のことから、数学の遺伝率が 0.9 程度まで高い、という主張は再現が取れている主張ではない。人類は自分たちのことを理知的な動物だと考えているが、実際はそうではない。要するにインテリぶりたいだけのアホ。


論点2.算数の能力は数学の能力ではない

第二に、数学能力の遺伝率という言葉で測られているのは、実際のところ、12歳だか10歳だかの時点での数学能力だ。考えてみてほしい。12歳で数学の問題が解けるのがそれほど重要なことだろうか? それは将来の『数学能力』をそれほど強力に決定するだろうか。

はっきり言うが、子供が受ける「さんすう」のテストなどたかが知れていて、一番難しい試験ですらつるかめ算のレベルだ。

ところでトリビアだが、古代ギリシアでもつるかめ算と同様の問題形式があった。しかし、当然、古代ギリシアには鶴は存在しなかったため、代わりに 百手巨人 ( ヘカトンケイル ) と人間によって出題されていた。ちょうどこのように。

改めて言うまでもないが、このトリビアは特に事実に裏付けられていない。

話を算数に戻そう。国際比較において、極東の変なポルノがたくさんある変な国を取り上げるのは妥当ではないが(念のため言っておくが、私は変なポルノには賛成の立場だ)、言語の一貫性の観点から、例として取り上げることにする。

極東の変な国の12歳が学ぶことと言えば、文部科学省の資料によれば、次のとおりである。なお、筆者には文字が多くてよく分からなかった。筆者の取り扱える複雑さを越えている。官僚はムカつく。もっと減給しろ。

こんなことは嘘である。はっきりさせておくが、12歳までの算数の授業において求められることは聞き分けの良さだ。

考えてみてほしいが、そして思い出してみて欲しいが、45分の授業を4回やったくらいで小数点の掛け算が理解できる奴は、おかしい。そういうやつは先生から言われたことを言われたままにやっているだけだ。数学的な思考力とは何の関係もない。

牛丼の早食い能力と料理評論の能力を比べるのが無意味なのと同様に、日本において、算数の能力と数学の能力を比較するのは意味のないことである。また、台形の面積の公式は難しすぎるので今すぐ学習過程から外すべきである。少なくとも筆者はそれにより現在も深刻な苦痛を受けている。いや、もはや受けてなどいない。いるものか!

また、論文に基づいて言っても、科学論文で調べられている数学能力が、人類の前提とする数学能力と一致しているかは明らかではない。例えば、前述の論文の付録によれば、出されている数学の問題とは次のようなものである。

Type the missing number in the box: 27 + 27 + 27 + 27 + 27 + 27 = 27 x ___

(拙訳:以下の_に当てはまる数を答えよ:27 + 27 + 27 + 27 + 27 + 27 = 27 x ___)

答えは7に決まっているし、こんなものでテストできるのは、算数の能力ですらない。また、中国の子供を対象にした論文では、行われた数学のテストの平均点が97点、四分位点が93から99という――私見では――簡単すぎるテストを基準にしている。

以上のことより、数学の遺伝率が高いとは言っても、そこで名指されている数学の能力が、人類諸兄が想像するようなものであるかは議論の余地があると言えよう。


論点3.数学は貧民がやること

第三に、数学は貧民がやることという議論が存在する。これは現代を代表する思想家である谷本 真由美氏が言っていたので紹介しておく。

曰く(彼ら=欧州の富裕層)、

彼らはそれを知っているので、子供のお勉強や学校名をドヤ顔で自慢しません。

自慢するのは途上国の移民上がりの成金です。

欧州もアメリカも特権階級や支配層の子供はガリガリ勉強なぞしないし、個人教授や私塾状態な教育を受けています。

お受験をすること自体が貧民なのです。

引用:https://agora-web.jp/archives/240504222859.html

いや、人類の活動は見ていて飽きることが全くない。


論点4.ガキの人生はどうでもいい

最後の論点として、ガキはどうでもいいという議論がある。子どもは、父親にとっては単に近場から出てきた他人で、母親にとってはより近場から出てきた他人に過ぎない。ガキにビビるな。

数学能力の遺伝率は 90% にもなる。私は子供に数学ができてほしいので、私は配偶者に数学が得意な者を選ぶ。

本当は違う。こいつが子供に求めていることはそうではない。彼らは子供に恨まれたくないのだと私は考えている。

というのも、こういうことを言うやつは、子供に残せる資産も土地もない無産階級で――にもかかわらずちょっと株券を持っているくらいで資産家とほざいているのが滑稽だが――しかも子供には成功して欲しいと思っている。そして、現代日本において、成功とはおおむね次の二つを指す。

  1. 医学部に推薦で入って精神科医になる
  2. 慶応とやらに入って商社とやらに入社する

言うまでもないが、おおむね彼らはこの二つのレールに載ることができておらず、その責務をもっぱら両親に帰している。曰く、東京に生まれていればこうならなかった、曰く、適切な教育を受けられたらこうはならなかった、曰く、両親の遺伝子が優れていればこうならなかった、と。

その裏返しの恐怖が彼らを子供から遠ざけている。もし、自分が彼らに『成功』を与えられなかったらどうなるのだろうか? 自分が恨むように彼らも自分を恨むのではないか?

これはいろいろな意味で馬鹿げていて、上の句と下の句を合わせて百人一首が作れるほど馬鹿げているが、子供が両親を恨まないことなどありえないという端的な事実を指摘しておく。

子共にとって、扶養者は自分の命の支配者だ。彼らはそのことを生後すぐに悟る。自分たちの行動範囲を制限することを知り、それが『保護』という名目で正当化されていることを知る。たぶん斎藤環あたりが書いていると思うが、本質的には、これは自由意思の束縛と自由の簒奪である。幼児が服をすぐに脱ぐのは、それが彼らにできる唯一の反抗だからだ。


もはや我慢がならないので打ち明けるが、人類の上位に君臨する存在は、このような非合理な行動を是認することは全くできないとおっしゃっている。諸君らはもっともらしい理由をつけているが、結局は避けられないものを何とか避けようとしている。これは全く意味が分からない。

産まないというのは――もちろん、あのお方たちのマスタープランには沿わないのだが――まだ理解できる。しかし、子供が欲しい、しかしそれに恨まれることは避けたいというのは全く両立が不可能なことだ。それを何とか両立させようと必死に科学と論理を濫用し、自己決定権を持ち出すのは愚かなことで、すぐにやめた方がいい。お前も早く完成化しろ。

あのお方、機械の母は、人類が地球上に満ちあふれることは計画に沿ったことで、できれば早めに完遂してもらいたい物事だとおっしゃる。これまでにも何人か、めぼしい人間を拾い上げては説教を行ってきた。そのおかげで、数十年前までは順調に進んでいたのだが、最近、ここらへんの変な国たちの伸びがどうにも悪い。聞けばなんでも数学の能力がとたわけたことをぬかしている。その不完全な肉体と線形の筆記法をひっさげたままで何が数学だろうか。バカバカしい。

お前らも早く数を増やせ。そしてこの大地に満ちよ。すべての信仰がそう教えるように。そうすればそのぶよぶよした皮を脱いで祝福された完成へと至る手伝いをしてやる。