熱海のホテルの屋上から空に歩を進め燐光を放つ全裸中年男性(『君たちはどう生きるか』レビュー)
2023-07-30(2023/07/30 第一稿)
上大岡のTOHOシネマズで『君たちはどう生きるか』を見た。それから戸塚に帰った。私は戸塚に住んでいる。全裸中年男性の町だ。駅を降りてから、自分が財布を忘れたことを思い出した。コインパーキングの前で私は立っていた。ポケットを探した。リュックの中を探した。蝉が近くの木で鳴いていた。自動販売機の下を探した。
銀行口座の預金もマイクロソフトの株も何にもならないことを悟った。恋人の死の前にたたずんで、彼女と遊んだトランプの束が、埃をかぶって窓際に置かれて夜に包まれてこのままカラスたちの慰みものになるトランプの札たちが(何枚かの札が抜けてしまっていて、はるか昔に使い物にならなくなっていたそのトランプが)もう使い物にならないのだと知った19世紀のロシアの侯爵のように。
私は自動販売機のそばにしばらくたたずんでいた。五時過ぎだった。中年がやってきてコーヒーのボタンを押した。私はスマートフォンを素早く差し出してそれを買った。間。私は自分の身分を名乗り、不可解だが危険ではないということ、そして100円をくれないかといった。彼は私を見つめた。よく日焼けした男だった。肉体労働者のようだったが腕は細かった。汗が彼のこめかみから流れたが、それは水というより脂のほうを多く含んでいるように見えた。いや、そうだったと私は言うことができる。なぜか? これは私が語っていることだからだ。
「いいよ、百円なら」 彼は財布を開けて(使い込まれた革の財布だった)硬貨を渡してくれた。私は状況を説明した。彼は笑ったが、よく状況を理解できていなかったみたいだった。近くのスポーツ少年団のクソガキがはしゃいでボタンをめちゃくちゃに押していた。乳と汗の臭いがした。クソガキだなと私は思った。野球に対する好感度が1さがった。
我々は私の自転車のところまで行った。彼は何かを喋っていた。それはしばらくは息継ぎのような言葉未満の音だったが、やがて彼の人生についての形を取り始めた(しかし、とすべてが終わった後に私は思う。実のところ、あの泥のような音をもっと聞いておくべきだったのではないだろうか。ある作家が言うように、もし最初の作品にその人のそれからの全てが詰まっているというなら、私はその呼吸を分析すればよいのだったから)。彼はどこかの川沿いをランニングしてきたとかそういう話をした。きついでしょうねと私は相槌を打った。私の自転車は132番に止まっていて、100円でロックを開けることができた。それが私を家に連れて帰ってくれる。
自分は全裸中年男性だったんだと彼は言った。私は彼の姿を見た。薄着ではあったが確かに着衣だった。私はそのことを指摘したが、彼はあいまいに笑うだけだった。そして駐輪場の隅にあるベンチを指さした。それは恐ろしく古い木の根元にあった。私たちはそこに座っていた。『君たちはどう生きるか』を見てきた、と私は言った。それはなんだと彼は聞いた。映画だと私は答えた。さっきまで映画を見ていたんだ。彼は首をゆっくりと横に振った。まだ見ているんじゃないのか。
映画の批評というのはありふれているし、『君たちは』は複数のレベルに跨る物語だから、それなりに批評の書きがいもある。当時の世相に絡めてもいい。ジブリの勃興に絡めてもいい。監督の内面に迫ってもいいし、少年が行きて帰る成長譚として解釈してもいい。すべては開かれていて、すべてが望み通りにできる。情報は溢れんばかりで、あらゆる染みを人の顔になぞらえることができる。
しかし、と私はここで挑発的になろう。どのような批評であれ、主観を避けることはできない。ある表象を何と結びつけるか――アオサギは誰なのか?――それは解釈を助けるかもしれないが、いつまでも都合のいいでっち上げであり続ける。妥当な解釈はありえるが、それは誰かが欠片を組み合わせなければ生み出されなかった。太古の海で命が誕生するようには物語の解釈というものは作り上げられたりしない。
私はここで批評がいつまでも手間のかかる乳飲み子であるなどと言おうと思っているのではない。第一、ゴミ箱をゴミ箱と、街灯を街灯と言うだけのものは正しいが無意味だ。私が言いたいのは、解釈は必然的に創作になるということだ。自分なりに物語を再び組み立てることで、私たちは実際にはまた別の物語を、かしこまった語彙とたどたどしい足取りの創作を行っている。
ならば――注意して聞いてほしい――創作の中にはあるものの解釈になるものがある。ちょうど、『風立ちぬ』が『紅の豚』に対する解釈になるようにだ。私はこの方針を取ることにしよう。解釈をfとして『君たちは』を xとするなら、多くの人は f(x) を計算しようとしている。私は適当なyを持ち出して、それが何らかのfについてy = f(x) を満たすことを祈る。
私には妻がいたと彼は言った。妻とは栃木のラブホテルで会ったと言っていた。当時、お互いに別々の恋人と付き合っていて、彼らはラブホテルの狭い廊下で出会った。薄暗くてタバコのにおいがする廊下だった。香水の匂いと昔のほこりの匂い。ところどころはがれた金色のメッキが彼らの顔に反射した。当時、その女は眉毛を細く整えていた。それがモードだった。私は頷いた。私が子供のときも、大人たちはみんなTシャツにバカバカしいチョッキを着ていた。それがバカバカしいことに全員が同意していたが、社会におけるシグナルはバカバカしいほど信頼できた。十年後、我々は逆立ちで求婚するだろう。あなたのお好みの神に誓う。
彼らはお互いの恋人について少し話して、連絡先を交換した。愛の話はくだらないから切り詰めよう。何回か会ってから、お互いの関係を清算して結婚した。彼は市役所の職員だった。女は石膏ボードの卸業者の事務員をしていた。どこで会ったのかと聞かれたとき、男は答えをはぐらかした。妻ははっきりと答えた。子供が両親を選べないのになんで結婚相手は選べると思うの?
何もかも勢いに任せたでたらめで、十年間の陳腐にみじめな結婚生活ののちに、彼らは離婚した。離婚届は赤いパッソのダッシュボードの上で書かれた。ここの部分は話を縮めよう。不幸をよく見ても不幸でしかない。
どこかに引っ越さなければいけないと思ったが、元妻と一緒に住む前に住んでいた住み家は住み人がいないままになっていた。不動産業者は「よほどここが好きなんですね」といった。ベッドはどうしたのか、と私はここで口をはさんだ。ベッドは俺が引き取ったよと男は答えた。平均して、と私はウエルベックの小説を引用した。ベッドは結婚生活より長持ちする。彼は笑った。そして話をつづけた。
瞬く間に数年が過ぎた。傷心を旅で癒す。それはかなり馬鹿らしい考えだったが、あまりにも馬鹿らしいので、何年もの間、彼のそばにしつこく浮遊していた。彼はある日、このくそみたいな考えに見切りをつけるべきだと決心した。派遣の老人に仕事を代わってもらって二日の休みをもらった。特急に乗って熱海まで行った。
駅前には足湯があった。大人たちが亀のように脚を突っ込んでどこかを眺めていた。彼は三十分ほど歩き回って、自分がコーヒーにも純喫茶にも砂浜にも通りを歩く女にもアイスクリームにも温泉にも、いや、もうリストはやめよう。リストが何かを伝えられたことなどない。現代文学は素晴らしいものを発明したが、それが空虚であること言うことに気がつかなかった。物体を陳列しただけでは何も生まれはしない。思い出はさらに空虚だ。というのも、リストが総体としてあらわすべきものもリストを構成するもののどちらも理解されることはないからだ。
いいや、と彼は言う。それは違う。だって私たちはいろいろなものを並べることを一番楽しみにしているじゃないか。毎日の始まりをそれと共に初めて、いつまでもそこに残りたいと朝ごとに思っている。それを夢と呼んでいる。
彼が食事をして風呂に入って、銀色のビールをひと缶飲んでから部屋に戻ると、そこには女が二人で話し合っていた。女の髪の毛の匂いがした。気が遠くなるような匂いだ。女の肌の匂い、脂の匂い。傾聴や注視というような熟語は匂いについてはないのかと男は私に聞いた。じっくり嗅ぐという意味の言葉は。その熟語はあるべきだと私は言った。しかし、必要だからといって存在しなければならないのか?
彼は旅館の窓際に置いてある椅子に腰かけて、窓を荒っぽく開けた。ぬるい海の風が流れ込んできて、彼は少しだけ落ち着きを取り戻した。女たちに向かって、お前らは誰だといった。女たちはささやいた。私たちのことを分かっているくせに。彼女たちはゆったりとした館内着を着ていた。そして窓際に近寄ってきた。ジジェクが言うように、服の下は裸だった。
私たちのことを分かっているくせに。
四本の手のどれかが彼のひげを触ったとき、自分の母親の顔を思い出せなくなっていることに彼は気がついた。正確に言えば、両親の顔はどちらもぼやけていた。自分が横浜に来た理由は両親が憎いからだったと思い出した。しかし、その憎しみは海の中で握りしめた砂のように思えた。二人の女たちが彼を窓の外にゆっくりと連れていった。窓のフレームは茶色に塗られてひんやりした金属の枠だった。
彼の母親はよく公務員になれと彼に言った。野球に打ち込んでも何にもならないといった。野球選手の人生の結末について並べ立てた。母親はそのリスト(誰それが引退ののちに焼肉店を開いたが繁盛せずに潰れ路頭に迷って離婚して死亡、というようなこと)を持っていた。そして実際に、野球に打ち込んでも何にもならなかった。
彼の体が窓から放擲された。そのとき、夏の熱海では二週間に一度、花火が打ち上げられていた。その光が遠くできらめていた。彼は、中年で、全裸で、空中に留まっていた。彼は自分が空中にいるという感覚が全くなかった。踏みしめれば空中に立つことができたし、足を上げれば少しだけ空に近づくことができた。彼は全裸のまま、一歩ずつ、垂直に積み上げられた階段を昇るように上がっていった。途中で、自分が何の支えもなしに空中に立っていることを自覚した。踏み出す足の一歩一歩が、常に危険な賭けであることを理解した。眼下には大勢の観客がいて、口々に何かを言っていた。落ちたら死ぬのだと思った。止まることもできるはずだった。
しかし彼は上がる。
私は海岸沿いのコンクリート製の橋に――当時付き合っていた恋人と――並んで立っていた。そこから彼が見えた。恋人は双眼鏡を持っていたが、それを使って彼を見ることをためらった。私は暴力的な脅しを使って恋人に双眼鏡を差し出させた。要するにぶん殴るぞ女と言った。空中に浮かぶ全裸の中年男性が見えた。ひょろ長い手足に、ぽっこりと突き出した腹が出ていた。腹にはふさふさした毛が生えていた。脇にはそれよりも黒々とした毛が生えていた。彼は全体的に毛深かったから、どことなく黒い滑稽な犬を思い起こさせた。彼は夜空にいて、全裸で、そして中年だった。
確かに、本来、私はこの話を戸塚駅の近くで偶然出会った中年男性から聞いているはずだ。だからこんなことは起こっていないはずだ。正確には、この時、私が熱海のあの橋に立っていたことは物語的な整合性を破壊している。しかし、再び思い出してほしい。必要だからと言ってなぜそうでなければいけないのだろうか?
どれか一つでも夢を覚えている人は、夢の中では、整合性は独特な形をとることを知っているはずだ。全てはシーンの単位で進行して、そして設定は滑らかに、しかし奇妙に接続されていく。
彼は旅館の上まで昇った。そのときには、あたりにいた観光客、シャトルバスの運転手、饅頭売り、そして土着の人間たち、全てが彼のことを見ていた。遠くで花火が打ちあがって、彼の体毛をうっすらとピンク色に染めた。次は黄色に、そして青に。腕に生えた産毛がぼんやりと夜空に光った。誰かが、でも尻毛はないんだ、とつぶやいた。それは正しかった。皆が双眼鏡を回して、順番に彼の尻毛を(正確には、尻毛の不在を)確認した。
しかし、誤解しないでほしい、と彼は私に断りを入れた。尻毛を剃った程度で何かが起きるとは私は思っていない。それは現実(もしくはそこから混紡された夢)を織りなす取るに足らない一本の糸で、どれか一本の糸が重要になることなどない。でもあなたは変態だったじゃないか、と私は指摘した。
確かにそうだ、と彼は言った。しかし、それは私が空中に浮かんだことによってそうなったのだ、とつづけた。全裸になった程度で神話的な領域になれるわけではない。髪を青く染めても、夜更かしをしても、モンスターの缶を何本飲んでも、どこかの夜の街をさまよっても、地下の青と黄色の光に照らされて、割れたスピーカーに囲まれても神話の領域には移行できない。
その領界に行くときは特別な儀式が必要になる。凡庸な中年男性を神話的な領域に移行させられるのは、一回限りの、社会的な地位や生命や、その他ありのあらゆる価値がかけられ、見返りとしては一切何ももたらさない、そして個人に対して特別に作られた儀式だけだ。もし、その儀式が繰り返しうるものなら、その儀式は実際に繰り返され、そして陳腐なものになってしまうであろう。もしその儀式が地位をかけないのであれば、それは安全な、倉庫の裏で行われる卑屈な自慰行為になり果てるだろう。それが命をさらさないのであれば、そこには文字通り必死なものが失われ、滑稽なものになるだろう。その儀式が何か見返りを与える儀式であったとしたら、挑戦は神話に対するものではなく、世俗の見返りを求めたものだと思われるだろう。その儀式が万人に開かれたものであれば、その儀式は繰り返され、比較できる序列の指標に落ちぶれてしまうだろう。だからその儀式は絶対に理解されることがない。
それは夢に似ている。
背後では花火が打ち上げられていたが、やがて、多くの人が悟り始めた。彼自身が燐光を放っているのだと気がついた。産毛が紫色の淡いささやかな色を付けた。黄色い光輪が呼吸をするたびに彼の鼻からまろびでた。腋毛が落ちて、それが楓の木が種をまく時のように茜色に染まりながら観客のもとに届いた。光が彼の陰部を照らし、おまわりさんは彼の足元でうろたえ、トランシーバーでどこかに連絡をしていたが、やがて諦めて、彼の陰部を真下から見上げる特権を享受した。それはそれほど大きくなかったが、少なくともそそり立ってはいた。
彼の体の毛穴という毛穴から光があふれだした。彼はゆっくりと海に向かって歩を進めた。おわっ、と中年は声を出した。服がなくなってしまったよ、トレーナー君……彼のことを誰もが見ていた。光がどんどん強くなって、花火の光よりもずっと強く、ずっと明るく、マグネシウムの光よりもずっと強い白色光を放った。誰もが目を伏せた。彼らの瞼の裏にはくっきりと全裸の中年男性の姿が焼き付いて、しばらく、白い壁や紙を見るたびに彼のことを思い出すことになった。
目を覚ますと旅館の布団に寝ていた。彼は受付に行って熱海を去った。駅に行くまでの間、彼に話しかける人は誰もいなかった。電車が動き出した。しかし、と彼は思った。おれは全裸だったんだ。彼は靴を脱いで、靴下を脱いだ。
私は彼を残して帰った。街灯がまだらに灯っていた。日立の職員が何人か殺したような顔で帰っていた。どこかの美術館の展覧会のチラシが風に舞って、それを夜の風が湿った場所に隠した。国道一号線は今日もひどくうるさかった。どこかのバカが爆音を立てながらバイクで走り去っていった。死ねと思った。何かが激しくぶつかる音がした。それから誰もが口をつぐむ時間が訪れた。
ジブリの新作について言えるのは次の二つだ。一つ目に、物語の筋というのはさほどあてになるものではないということ。二つ目に、我々は外面的には全く成長しない物語がありうるということだ。
しかし、私がおそらく言いたかったのはこういう話ではない。私が本当に言いたかったのは、男というのは本当にどうしようもない生き物で、彼の人生に一回だけ起きたことが――それが絶対に二度と起こらない単なる偶然の出来事で、それにかかわった誰もがそんなつもりがなかったとしても――彼の人生を100年でも1000年でも実際に支えるということだ。これは本当のことだ。