未経験の惑星

クンデラが死んだ。私は小説と作者に区別をつけるし、原則として一度書かれた小説は書き直されることがないのだから、クンデラが死んだところで私の本棚が変わることはない。ただ、また一匹の熊が舞台を去り、そのことを残念に思う。

 しかし舞台には一匹の熊が躍る場所しかない。書くことは戦いで、戦いは死を含む。だからその特別な場所には莫大なものが賭けられる。死ねば即刻忘れ去られる。もしも、この世界から死ぬことが消え失せたとしたら(そして消え失せようとしているが)その時、もはや賭けるものはなくなり、それゆえに踊る場所も、名誉も与えられなくなるだろう。そのことに気がつかない者はまだ誰かの庇護のもとで生きている子供なのだ。


 クンデラは人の死について次のようなことを述べていた。宇宙にはすべての人がもう一度生まれてくる惑星がある。そこは地球に瓜二つの場所で、唯一の違いは、そこで生まれてくる人が、地球上で過ごした自分の人生をそっくりそのまま引き継いでいるということだ。

 そして、さらに次から次にこのような惑星があって、私たちは死ぬたびに一つの人生だけ経験を積むことになる。問題は、この輪廻を(もしくは永劫回帰の一端を)経験した後に、全体として、最後の惑星はもっと良い場所になっているだろうかということだ。私たちはより賢くなっているだろうか? 私たちはよりまともになっているだろうか? すべての過程は少なくとも今よりも血なまぐさくなくなっているのだろうか?

 この疑問に肯定的な答えを与える者のことを、楽天主義者という。そうとは思わない者のことを悲観主義者という。


 この話を、私は今年の三月に、医者の友人にした。それは甲府駅の北口を出たところにあるイタリア料理屋だった。メニューはラミネート加工されていて、それだけですべてが台無しだった。

 しばらく考えたのちに、友人は、「何も変わらないと考える人のことは何というのだろうか」と尋ねた。

 この疑問は適切で、一つのテーマになるだけの資格があったが、その医者の実家は透析施設を持っていて、人生のありとあらゆる軌道は敷かれてしまった後だった。そこからわき道にそれることは、そもそも実行可能なオルタナティブとして考慮に入れられていなかった。

 まだ私たちは一度も生まれ変わっておらず、地球(すなわち、未経験の惑星)でおびえている。ときどき足を踏み出しては後悔している。


 しかし、人の死について何が言えるだろうか? 残り何人生きているだろうか? 私はよくこのことを考える。あと何人いるだろうか? ガルシア・マルケス、リョサ、ブコウスキー。ウエルベック、ピンチョン、アイラ、村上。これからもどんどん死んでいく。もはや私は死体に向かって書いているような気がする。大作家などもはや出てこないのだと私の友人は言った。そして尋ねた。イシグロがどこまで行けると思う? ジュノ・ディアズは新しいテーマと文体を見つけられるか? 女たちが女たちであるという位置から踏み出すことはできるだろうか? 次に舞台に上がるのはどんな熊で、それが一体どれほど長く踊り続けられるだろうか。

 死について語るのはくだらないからもうやめにしよう。


 言葉というものは常にチープで、おそらくこれからもどんどん安っぽくなっていく。きっと二年後にはレシートの裏面にほろりとする短編小説が印刷されるようになり、それを読むためだけにスーパーマーケットで主婦層が炭酸水を買うようになるだろう。『指よりも太いもの』が出てくるような文章が書かれるのだろう。明日には何が書けるだろう。  そもそも、私は誰に向かって書いているのだろうか?