大学を離れる

これは極めて久しぶりのブログの更新で、しかもきわめて個人的なことでもある。だから、もしかしたら、このような記事を書くのはプライバシーの観点から問題があるのかもしれない。しかし、もはやこのブログを見ている人は誰もいないだろう。また、より一般に、ブログというのはほぼ死滅した表現形式だ。ブログの形式をもって書かれた小説は極めて多いが、それがたどる運命はメールの形式をもって書かれた小説(『バビロン・ゲーム』を挙げよう)とほとんど同じ軌跡を辿っている。これは全く悲しむようなことではない。ただ、私は二十年前に生まれてきたほうがよかった気はする。


 乾いた川から水を汲むという表現を知った。それは――私のかなり怪しい記憶が正しいなら――Stack Overflowを頻繁に利用していたユーザーの声で、つまるところ、これから、生成AIが解答を続けるのなら、もはや新しい情報はインターネットにほとんど追加されることはないだろうと言っていた。追加されたとしてもそれは生成されたものであろう。であるならば、今後の機械学習はどのようなデータを使えるのだろうか? それは乾いた川から水を飲むリスクにさらされている。


 データ収集器/生成器としての人間というモチーフはあまりにも使われてしまっていて、もはや幼稚園のお遊戯にすらそのほのめかしを見ることができる(読者への練習問題とする)。私がこの主題を知ったのは、『メタルギアソリッド2』と『フラクタル』あたりだろう。

なんにせよ、このモチーフが言いたいことは単純で、要するに人間は機械のためのデータを作るのが関の山ということだ。勘のいい読者はわかると思うが、このモチーフが使われなくなったのは、単にそれが新鮮味を失ったからだ。インターネットで少し調べれば、おぞましいポルノを画像1枚を1セントで分類する職業についての記事が二億ビットも見つけられる(いまふうに言えば「AIに聞けば」か)。


 そう、私は大学を離れる。もう九年間も同じ大学にいて、私はこれ以上『アカデミア』(私はこれに絶対に二重鍵かっこをつけることにする)に残ることはできないと判断した。残ったのは何に使うのかよくわからない博士号を持った二十代後半の独身男性というわけだ(卒業したので隠すことはもはやないが、私は東大にいた)。

 客観的に言えば、理由は単に私が常識の範囲内で、しかし許容の範囲外で怠惰だったということが挙げられる。正確に言えば、私はどうやら、集団の60-70パーセンタイル程度を必ずキープするという、怠惰の祝福を受けているように見えた。そして、おおむね、論文を何本か書いて学位を取るにはそれは十分だが、職業としてやっていくことはできない。これは客観的な見方だ。


 ところで主観的な見方もある。そして主観的には『アカデミア』に残る理由も去る理由も100個くらいある。そして、どうもそれらの多くがすでに書かれているように見える。mextが概要を公開している。そしてそれのどれもが私のことをいかにもぴったり記述しているように思えるし、もう何一つ付け足すものがないように思える。これは皮肉だ――かなりの皮肉なので、明示的にそう書いておくことにする。