リフトオーバー
2018-12-09日記
さて、日記など書いている場合ではなく、いろいろやるべきことがあるのだが、にもかかわらず、飲酒をした次の日というのは、えてしてこのようになりがちだ。 つまり、午前10時頃に置きて、(朝?)ご飯を食べ、空を眺めているうちに眠くなり、二度寝をして起きるということだ。脳のしんの部分が完全に固まっている。
知らない間に、郵便受けに入っている書類を盗まれたような気がする。それがパラノイアだとも分かっている。 一方で、私は『何かが奪われたようなきぶん。ぐらぐら。』みたいな、九九の七の段すら怪しいようなことを言うには、あまりにもコンプレックスがひどすぎる。 昔のインターネット的な語法で言ってやろう。コンプレックスひどすぎワロタ。
もうすでに12時で、ナショジオでは相変わらず獰猛な自然とやらの厳しさが描かれ、ヤマネがころころ掘り起こされては皮をなめされ、どこぞのロシア女の襟巻きになっている。 カムチャッカの朝がどうの、ニューヨークの昼がどうの、とくたばり損ないのじいさんが言っていたのも今は昔、海底と宇宙に可視や不可視のケーブルが張り巡らされ、 すべての恋人たちが、これまでに間違えた恋人たちを数えること以外に、快楽を覚えていない今となっては、あの老人はひどく哀れに思える。 もしくは、私は詩人に期待しすぎていた。
一切の重みがない生活というのは、かなりの点で気楽で、私はそうなることを私自身に課している。くそっ。今日の私の日本語はとてもよくない。あなたはウィークエンドに何をしますか? 私は週末ジョギングをして過ごしました。私のおじもジョギングが好きです。ところでそこにあるのはヴェンディングマシーンですか? 私のおじは毎週三回ヴェンディングマシーンになります……。
最近読んだ本に、なかなか興味深いことが書いてあった。 『もしすべてのゲームから、暴力と性を完全に取り去ったら、おそらく、ゲームは非常に退屈なものになるでしょう』。 もちろん、この言明は2つの観点で問題がある。まず、我々にはこの言明が正しいことを確認する方法が無いことだ(「このゲームは面白いけど、ぜんぜん、性や暴力はないよ」という事は、実際のところ、私を満足させない)。 2つ目に、私達は未だに、性や暴力が何なのか、よく分かっていないことだ。 例えば、我々はツムを爆破することに何らかの暴力を見出すだろうか? ところで、『ゆっくり』というかわいいキャラクターを様々な程度で損壊し、それに対してやや気楽な感情を持つ、という文化があるが、 これはどの程度ツムを爆破することと関係があるだろうか?(今でも思い出すのだが、『アナと雪の女王』のエルサというキャラクターが、ツムツムに登場し、それの能力が『エルサのくしゃみでどうの』というものだった。 私はこれに性的興奮を覚えてもいいだろうか?)
これに関連して、やや面白い話に、明らかに恋人と家族に殴られているものの、その問題を解決したがっていないように見える女(まずここで私に石を投げたまえ)の話がある。 彼女について感情的に語ることは、あまりにも簡単なので、手短にまとめよう。 要するに、彼女は殴られるたびに、それをインスタグラムにあげていて、なかなか反応が芳しかったということだ。
さて、あなたはここから性と暴力を抜き出せて、それをゲームとして楽しめるようになっているはずだ(2つ目の石)。
ここになって気がついたこととして、私は当初、何を書こうと思っていたか、今の私にはぜんぜん思い出せない。 そろそろ、私も、スーフィズムの概念をほんの少しだけ理解し始めているのかもしれない。