コーマック・マッカーシー

コーマック・マッカーシーが死んだ。死んだ有名人に対して何か取ってつけたようなたわごとを述べるのは私は好きではないし、マッカーシー本人もおそらくは自分の死について何かを述べられようとも思っているまい。舞台には一匹の熊が躍るだけの空間しかなく、彼もまた踊り疲れて死に寝首をかかれた熊だ。

ただ、彼は私の読んでいた数少ない存命作家のひとりだった。これは(もちろん虚偽のものなのだが)日記なのだから、自分の心に浮かぶことを少しだけ書いておこう。

心――マッカーシーが聞いたら一笑に付すだろう。彼は概ね、心というものを小説における一級市民だとはみなしていないように見える。聖書の教えとアメリカ文学の蓄積、そしてアメリカのからからに干からびた大地に浮き上がった偏執的な狂気。彼の文章を構築するのはそれらのずっしりとして静かな言葉たちだった。

これはおそらく『ライ麦畑』に乗っていた話だ。ホールデン少年がよい小説についてタクシーの中で語る。いい小説って言うのは、読み終わった後で、電話を持ち上げて、作者に電話を掛けたくなるようなものなんだよ。タクシー運転手が頷く。少年は尋ねる。池の水が凍った時、鳥たちはどこに行くんだろう。この話の続きを私は覚えていない。

小説の中には、読んでいる間じゅうずっと、作者が前にいて自分に手ほどきをしてくれると思える作品がある。ガルシア・マルケスのいくつかの作品、ミラン・クンデラの番号付きの作品、そしてブロンテの作品を読むたびに、目の前で彼らが私に何を書くべきなのか、ここで何を書かなかったのかを教えてくれる。コーマック・マッカーシーの文章もその一つだった。どのように風景を書くのか。何を削り取るのか。リズムとは何か。 pick a man, any man ( 男を選べ。誰でもいい。 )

彼の作品のパロディはうんざりするほどあふれている。句読点なしで五百文字くらい続けて、とってつけたように猟奇的な描写が差し込まれる。見ているがいい。私はもっとうまくやれる。