なぜブログは更新できなくなるのか

ユートピアとは、楽しく感動していつも行きたいところです。

ロピア仙台ヨドバシ店限定チラシ

年月が旅行者なら彼らは二度と同じところを訪れない旅人で、人間はすぐに風化していく景勝地だと言える。文明が時間にではなく物質に存在するのは当たり前で、彼らの持つ記憶のどれ一つとして記録されることがないからだ。

私たちは去年の夏ごろに盛岡に行って、まだ行っている。その記録をいま書こう。

2024年9月21日8時54分

家を出てバス停で待つ。9月も下旬に入っているなんて信じられない。おそらくこうやって死ぬんだろう。ドアが開いて、運転手が私のことをじっと眺める。スキンヘッドでティアドロップの眼鏡をかけた男だった。顔が脂でじっとりと濡れていた。すでにいくつか忘れ物をしていることに気がつく。上着、腕時計、充電器。人類のうちのいくばくかは常に何かを忘れている。そうではない奴らもいる。薬の力によって前者の集団から後者の集団に離反した者もいる。侮蔑すべき裏切り者たち。

バスはあまり好きではない。脂と汗のにおい、誰もが疲れ切って土曜日の朝を迎えている。頑張ってつり革にしがみついている。運転手がはなむけとして謎めいた祝詞を唱える。戸塚の一般的な朝だ。

上野行きの電車に乗った。旅行しようとしている家族連れが何組かいる。水色の小さなTシャツの子供がスーツケースに座っている。たくさんの家族がいて、目やにを洗い落として旅行に出かける。

沿線に移り住んではほうき草

これを矢立初めの句とした。

2024年9月21日9時40分

常磐線に乗り換える。乗る前に「Suicaを1秒タッチして入るコンビニ」というものを見つけた。後で調べようと思うが、おそらく忘れてしまうだろう。我々はいろいろなことを忘れて過ごしている。それはいいことでもある。

南千住に着いて、警察署の前まで行く。そこには大きな看板がある。

芭蕉が矢立て始めを行った句

行く春や鳥啼き魚の目は泪

芭蕉

諸処啼鳥を聞く。言語は共有物だから真の独創性はないという意見がある。我々は遺産を受け継ぎ、そして少しばかりそれをひどくして次の世代に渡している。受け取るものがあり渡すものがある。

しかし、その仕事は終わろうとしている。現代は最も栄えた時代で、伝えるべきものもとても多いのに、おそらくそれらは機械にしか伝えられない。我々は1960年代のフランス哲学思想にもはや興味を持たず、一つ下の世代はゲームブックにも2010年代の遺産にも興味を持たない。そして私にとってFruits Zipperは同じ顔の女たちに見える。世代はとても細い紐で繋がれている。まあいいとしよう。データベースは全てを知っているのだから。狂いそう……(静かな怒り)。

死の飛行。胴体を二つに切られて、ガラス管でつなげられた蛾が飛んでいる写真。着地と共に蛾は死ぬ

Radzyner, H. J., & Barker, N. J. (2018). Illuminating Roman Vishniac: A Career in Biological Photography and Cinematography. The Journal of Biocommunication, 42(1), e1.

LIFE (1952). Why Insects Change Form,Vol. 32 No. 6, 11 February 1952, pgs. 79-87

2024年9月21日10時30分

常磐線を降りて上野駅構内のカフェベローチェにたどり着く。

前に並んでいた中年男性は横柄だった。店員の呼びかけに対して、彼は数秒待ってから、メニューを指で突くように指し示した。レジの横にあるVISAのプレートをたたくことで支払いの方法を告げた。アイスコーヒーを受け取った彼の顔が少しだけ見えた。

私は自分のブレンドコーヒーを飲みながら、その中年男性の顔が思い出せなくなっていることに気がつく。彼は紺色のスーツを着ている。どこにでもいそうな中年の男性……。それを思い出さないといけない気がする。

私が席を立って彼の近くに歩み寄ったところで、肩をたたかれる。振り向くと友人が立っている。そしてベローチェを出る。私はあの男の顔を忘れていることを気にしないように努める。

2024年9月21日11時30分

友人たちと駅弁を買う。深川めしを買うと、友人はそれをうらやましそうに眺めた。彼の両親は深川めしを見るたびに買ってしまうらしく、そのせいで、彼の両親は原則として外出が禁じられており、例外的状況にあっても目隠しが必須なのだと行っていた。見るたびに、というのがいい。

2024年9月21日11時50分

新幹線で仙台まで行く。我々の席はトイレに近い座席で、誰かの用を足す音が聞こえた。それは我々に次の句を思い起こさせた。

蚤虱 馬の尿する枕もと

芭蕉

仙台は雨が降っていた。地元の子供たちが我々の隣を駆け抜けていった。一人はパーカーを着た子供で、汚い靴を履いていた。彼女たちは観光客の間を流れるように走っていった。それもまた別の句を思い起こさせた。

かさねとは八重撫子の名なるべし

曾良

2024年9月21日13時15分

松島まで行く電車に乗った。座席は埋まっていた。私がドアの付近に立っていると、友人がドアに挟まれないように注意した。それはこんなドアだった。

指に注意と書いてあるドアの写真

しばらく電車に乗っていると、友人が仄かなうめき声をあげてうずくまった。どうしたんだと言う前に何が起きたかわかった。横のサラリーマン風の男が友人を殴っていた。その青いスーツの男においと私は声をかけた。そいつは友人を殴るのをやめなかった。いや、そいつは殴っているのではなかった。そいつは指を使って友人を突いていた。執拗に、そして猛烈に。私はリュックをそいつと友人の間にねじ込んで引きはがした。そいつはこんな顔をしていた。

指に注意の画像の拡大されたもの

何が起こっていたのかおれに教えてくれ。


2024年9月21日15時20分

そして我々は松島に着いた。イカを焼いている匂いがして、それはどちらかと言えば物事を損ねていた。ハマグリの磯焼きがふつふつと音を立てている。たこ焼きが売られている。パワーストーンが運気を高めている。すべてが縁日のパチものっぽく見えた。

船に乗って松島の遊覧をする。霧のような雨が降っている。また一つの島が霧から浮かび、かつまた消えていった。それはちょうど流れに浮かぶあぶくのように見える。しかし実際は逆で、我々は松島のそばを流れ去っていくはかない泡だった。

船内のくぐもったアナウンスが説明をする。左手に見えるのが仁王岩。右手に見えるのが、烏帽子岩。さる有名な武将がここで月見をしたのだと伝えられる小島を観察する。英語で言うところのムーンウォッチなのだと聞く。それは私に昔の時の話を思い起こさせる。


ドイツの車窓から見た風景

そのとき私は村に住んでいた。街と街の間にある田舎の村だ。どの家も鶏と馬を飼っていて、それが死ぬと男たちが墓を掘る(馬にも墓がある)。女たちはその間は果実を煮る。日曜は教会に行き、もはや三位一体の教義すら理解できなくなった老人の説教を聞く。そういう場所だ。

村の外れ、森との境界には小高い見張り台があった。それに隣接した小屋にはムーンウォッチが住んでいた。黒い小屋だった。彼は昼間は寝ていて、夜にその高台から向こうの村を眺めていた。森の獣たちを見ていた。月の暦を読んでは不吉な予言をした。前の粉挽きを殺したのは彼だと言われていた。彼はキリストを信じていないのだと言われていた。本当の話だ。

私はまだ子供だった。子供たちの間である度胸試しが持ち上がった。ムーンウォッチの遠眼鏡を奪ってこい。私は本当に子供だった。そして誰よりも先に手を上げた。女の子が横にいたからかもしれない。

私は夕暮れ時にムーンウォッチの物見櫓に忍び込んだ。古い遠眼鏡のつなぎ紐を私は切った。レンズはぼろぼろで何も見えなかった。それは滑稽なことでもあった。

はしごの下で彼と出くわした。彼は私のことをずっと見ていた。私は必死で一番近くの小屋に逃げ込んだ。扉のかんぬきを下ろした。扉が強くたたかれた。

返せ、とムーンウォッチが言った。私は扉を眺めていた。木の板が一枚吹き飛んで、彼が拳ではなくて指でたたき続けているのだと知った。まるで執拗なキツツキのように彼はドアを突き続けていた。崩れていく木のドアの向こうで光る目が見えた。それは月の光を反射した彼の目だ。彼の喉元に何かが翻っていた。すぐにそれが何かわかった。それは剥がれた人の顔だった。干からびて鞣されて黒く汚れた皮がひらひらと私を見ていた。それは目の部分から裂け始めていた。彼は部屋に入った。彼はこんな顔をしていた。

指に注意の画像の拡大されたもの

何が起きていたのか私に教えてくれ。


友人が私の肩をたたいた。船は松島をめぐり終わっていた。我々は下船した。降りた先で振り向くと、そこにはこんな立て看板があった。

船着き場の画像。1のりば湾内一周仁王丸と書いてある看板がある

1のりば 湾内一周 仁王丸

詠み人知らず


2024年9月22日9時00分

ドミトリーで目を覚ます。雨が降っている。カップラーメンを食べる。駅で電車に乗って一関までたどり着く。ひどい日だなと誰かが口にしていた。雨は降り続いていた。


2024年9月22日10時

中尊寺金色堂に行く。

中尊寺金色堂の見晴らし台から見た景色。雨がひどく降っている

月見坂を上ってお堂を巡る。八幡大神宮をまつる寺社がある。おそらく、仏神が融合する時代だったのだろう。もしくは救いだけを求める庶民には神も仏も同じなのかもしれない。それをなぜ否定できるだろう? 救いがさき、教義はあと――現代の道徳も同じようになっていて、私たちは信念のために死ぬなんてことが想像すらできなくなっている。それなしでは生きていけないようなものはなくなりつつある。それはいつでも死ねると言うことだろうか? 生きるためだけに生きるということは。

金色堂を見る。いまだに雨を振り残している。荘厳な建物だ。当時の人々は腰を抜かしただろう。雪が降ったときはどう見えたのだろうか? 奥州藤原氏の短くも凄まじい歴史で、雪に降りこめられて、冷たくなった足先を擦りながら。雪がどこかで溶けて、どさっという音をさせて、ひさしの先に降りたつららの水滴に太陽の光を集めて。軒先で冷えていく火鉢がときおりぱちっと言いながら小さくなっていく。黄金の宮殿が光り輝いている。浄土は近い。本当にそうだったのだろうか?


2024年9月22日15時53分

そして高舘へ行く。この場所は、一つには源義経が死んだ場所として知られている。そしてもう一つには、芭蕉が有名な俳句を残したことで知られている。

長い階段の先に、クリーム色のぐらぐらした資料館があった。資料につけられた解説はどちらかというと情緒的で、それはどことなく懐かしさを感じさせた。『義経は間違いなくナイス・ガイだ』とそれは言っていた。我々は少し笑った。過去についていくつかはっきりしていることがある。植物が地上に上がったこと、恐竜が滅んだこと、毛のない猿が度を越えた殺し合いをしたこと、そしてその猿の中の一匹が間違いなくナイス・ガイだったこと。進化が優しさに導いたのはもしかしたら一度きりになるかもしれない。そう考えると、義経が偉業を今日まで伝えるのは悪いことではない。

そしてあの俳句の場所を見た。そこはフェンスが張り巡らしてあり、刈り込まれた生け垣が人を飛び降りることから防いでいた。しかし、それによって、風景はより狭く、夏草と言うよりはむしろ常緑の生け垣のほうが目についた。奥州藤原氏はここで力尽きた。源平の兵士たちはここで血みどろの戦いを続けた。彼らも死ぬのが怖かったんだろうか? もしくはそれを贖えるだけ彼らの夢は価値があるものだったのだろうか? 新渡戸稲造の『武士道』には書いていないことだ。私たちは色々なものを受け継ぎ損ねてきている。いいものも悪いものも。

高館から見た風景。緑が広がっている。

夏草や兵どもが夢の跡

芭蕉


このブログ記事は本来は2024年の秋ごろに書く予定だったのだが、この節以降の旅行記が全く埋められなかった。これ以降やったことと言えば、牛の資料館やらサンリオ展やらに行って、それから痛飲して帰るだけだった。はっきり言わせてもらうが、10か月程度、その部分が書けずに放置していたのだった。


改めて言っておくが、ブログを書くというのはある種の奇行で、しかもそれにフィクションを入れるというのは輪をかけて奇行だ。もしあなたが人なら、今日からどこかでブログを開設し、日常について書いてみることを勧める。慣れてきたら、それにフィクション的な要素を入れてみよう。

例えば、こういうのを書こう。コンビニに行っておいしそうなジュースを見つけた。それをセルフレジで買った。店員がじっと見ているので、何かおかしいか聞いたら、彼は跳ね上げ式の扉を開けてこちらに歩いてきて、途中で二頭の大きな犬に変わって店の外に出てしまった……。

そして会社だか大学のサークルだかの飲み会で、趣味の話なったらこう言ってみよう。ブログをやってるんですよ。結婚式の司会をぶん殴る話とか。おそらくちょっといい空気になるはずだ。


物語にも構造がある――というのは正確な言い方ではない。ロシアの民話を分析して類型をまとめることは物語の領土の一部を指し示すが、それが領土の全てではない。序破急、起承転結、越境と貴種漂流譚。物語は次の状態へと遷移していくオートマトンで認識できるようなものではない。

それを踏まえたうえでも、一つのテンプレートがあるのは認めないといけない。それが『行きて帰りし物語』と呼ばれたりする構造だ。詳細は省く。ここまで読んでいてこの物語構造を知らないなんてことはない。もし気になるならLLMにでも聞けばいい。

この構造は旅行記の構造に線形的に写すことができる。旅行に出かけようと思う――旅先に行く――ちょっとした成長――そして帰還。奥の細道も天候を後から操作することによって、世界をこの物語構造に適合させようとした。

当初の目的は、このような操作を二重に行って旅行記を書くことだった。すなわち、『生きて帰りし物語』という一般的な物語構造と『奥の細道』のあらすじをなぞりながら、私が実施したところの旅行を書くことだった。

もちろん、これは物語における技術面の話だ。内容面はいくらでもでっち上げることができ――引き写すことを改めて使うことができた。世代の断絶は常に存在していて、我々は過去の物語をうまく解釈できなくなっている。そして次の世代にうまく物事を伝えることもできなくなっていく。信仰心が最初に挙げられるだろう。牛の資料館もとても動物福祉にかなったとはいえない陳列の仕方をしていた。コーヒーショップのサラリーマンはそれの予感として導入できる。シリアスになりすぎないためにちょっとした愉快さが必要なら、電車のドアに書かれていた「ゆびにちゅうい」が使える。

しかしこれをきちんと構築することは私には難しかったようだ。今後は読者への課題とする。