Of monsters and menのライブがあるじゃないか

宣伝なのだが、以下の同人誌に寄稿を行った。ぜひチェックしていただきたい。ラッパーを僭称しそのように言うなら チェックしてみな ( チェケラ ) ということだ。

内容はいわゆる疑似論文とかルポタージュフィクションとか呼ばれるたぐいのもので、基本的には評判が悪いのだが -- 文体の下から態度が透けて見えるランキング上位であることは間違いない -- なんとなく普通に書いてもさっぱりウケないのでこちらにした。私はまだ自殺したくないので、書いた文章を基本的に読み返さないのだが、常にかなり真剣に書いている。

また、自己紹介の部分にも書いているが、一階道洋は寄稿依頼を年がら年中受け付けている。学生からは料金を頂戴せずに書いている。なぜなら私がそうさせたことがあるからだ。以上。

さて、本題に入るが、Of monsters and menというバンドがいる。 私が彼らに最初に出会ったのは2016年くらいで、なぜかというとその頃住んでいた北千住のクソみたいなアパートのことを思い出すからだ。 思い出したついでに書いておくと、そのアパートは極めて一般的な名称が付与されていた(信じがたいが、『アパート』みたいな名前だ)。

さらに思い出したのでこのアパートが2020年から被った被害について説明させてほしい。ああ、クソみたいなウーバーイーツが出てきて、なんかお母さんかレストランがないと食事にも困るようなクソガキが東京には溢れかえっていて、そのせいで与えられた目的地を見失ったかそもそも目的地などないのだと気がついていない食料配達人たちが干からびた体とハンバーガーをこのアパートに横たえていた。

チャイムが鳴る。ドアを開ける。白い熊みたいなバカでかい白人が突っ立っていてこちらをじっと見ている。彼はずぶ濡れで(それは雨が降っていてアパートに軒先がないからなのだが)黄土色のくるくるしたヒゲから水滴が垂れる。それが彼の手に握られていたマックのプラスチックバッグにあたるのだが、ポテトの蒸気に触れることすら叶わず、まるで透明な硬い壁に引き裂かれた無数の恋人たちがお互いの存在を彼らの信じるところのものによって感じ取って必死に手を伸ばして、その手の跡が壁を埋め尽くすようにビニールの中の霧が大きな水滴になって、どちらの表面からもぐずぐずに濡れ落ちていく。一方が汚れたコンクリートに落ちて猫の吐瀉物と一緒に典型的な愛の教訓とでもいうように流れ落ちて、横の空き地のセイタカアワダチソウの群生地に染み込み、やがて誰もが耐えられないような臭いを放つようになってからやっと行政の手によって掘り返されて天上の雲に送り返される。私は彼の目を見る。茶色い目だ。私は少し悲しくなる。

「ハンバーガー 203」

彼はスマートフォンの画面を催眠エロアプリみたいに突きつけてきて、はっきり言って私はかなりムラムラしていたのだが、それはさっきまで催眠エロアプリの漫画を読んでいたからだった。私は最低限の敬意を忘れていなかったから、彼を敬うようにかがみ込む。ああ、それはこのアパートの裏手だと言って彼を送り返す。ポテトはどんどん冷めていく。彼はたぶん星1くらいしかもらえないだろう。アメリカ人はカフェで英会話講師でもやればセックスとカネには困らないと調布に住んでいたときから私はずっと信じ込んでいた。

上記のようなことがすべての幸せな思い出と一つずつペアにしてもまだ余るくらい起きて、余ったものは教科書的には爆乳(ないしは逆)の先生とペアになり、いわゆる自慰行為の際のカノニカルチョイスといってもいいのだが、それに類することもバカみたいな回数起こった。

毎月、『ものみの塔』を配布するエホバの証人の信徒が現れた。私は彼らの教義には参与しないものの信仰心一般を尊重していたからドアを開ける。彼らがアイパッドから今月の祝詞を唱える。宗教家も左派も目覚めよと言っているのが面白かった。はい今月のお題を繰り返して。私はバカみたいに繰り返す。彼らは手書きのメモもくれる。紺色のスーツを着た男の首筋に蚊が止まる。2匹目が頬に止まる。彼が耐えているのがわかる。彼の唇の端の動きからそれがわかる。でも彼は説法を続ける。彼は耐えている。蚊にも不信心者の凍りついた心にも耐えるという試練を彼はくぐり抜けようとしている。私は一気にかなり死にたくなる。私は彼らにとっての試練になっているのか? では私はドアを開けるべきではなかった? まどろみの中で体を横たえているべきだったのだろうか。

あの極めて一般的な名前を持ったアパートについてはあまりにも言うことが多い。話を戻そう。Of Monsters and Menの話だ。

間違いなくYouTubeだ。その頃は基本的に全てのものはYouTubeから来ていたからだ。中学生の頃はニコニコ動画からあらゆるものが来ていた。 はっきり言ってニコ厨だった。くるぞ……。何もこねえよ。

集中力が続かないのは春だからだ。しっかりと舵をとって書こう。YouTubeで音楽をだらだら流していたら、プラスティックラブのアトラクタに引き込まれる前に次のライブ映像が飛び込んできた。

音楽性がどうとか着飾ったりしない。私は顔ファンだ。殺してくれ! しかしこれに関して嘘はつけない。流石に顔が良すぎるだろとしばらく見て、流石に声が良すぎるだろと思って更に見た。ナンナの顔が良すぎる。興味が出て、当時はまだそういう風習が受け入れられていたのでアルバムも買った。そして彼らのファーストアルバムMy Head Is An Animalの歌詞を見てたまげた。

こいつらわけわからんことを言ってるぞ

私は彼らのことが俄然好きになった。今もそうかはわからないが、当時、そびえ立ったTowerと多趣味な坊やを除いて音楽はだいたい愛と紐付いていた。しょうもない恋人へのしょうもない泣き言だの『床にこぼれたカクテル オー 振り向いてくれベイベー でも悪いのはお前』みたいなマルーンファイブ的な歌詞のことだ。それは私にとってはときにかなり耳障りだった。

対して、彼らの詩世界は違った。地元の神話やら謎の古びた家やら冷たく泥で濁った川やそこをゆっくり渡っていく小さな舟、岸に積もった雪が静かに落ちていくときの音、夕方の黄色くいびつな光や狼の温かみと名前がつけられる前に滅んでいった毛のない怪物の小さな声で溢れていた。私は即気に入って、当時使っていたエクスペリアに入れた。おそらく大学生のときによく聞いたアルバムのかなり上位に入っているはずだ。

ただ、3rdアルバムは(反米思想に注意)アメリカっぽくなってかなり近寄りがたくなっていった。やっぱりアメリカのスタジオってクソなんじゃないか? 藤井風を見ればたちどころにわかるだろ。なんかサードアイが開眼してるんだぞ。正常じゃない。テイラースウィフトだって本当に小綺麗なスタジオでギターも弾かずになんかセックスシンボルとフェミニズムの間でさまよいながら元カレのことを中傷してたいのかってハナシ。Sevenとかを一生書いてたほうが良かったんじゃないか? おれバカだからわかんねえけどやっぱ資本主義化された音楽産業ってマジでクソで、背後には巨大軍産複合体とCIAがいて、全世界に資本主義の(虚偽の)正当性と大量消費を肯定するイデオローグを撒き散らしてるんだぜ。音楽は麻薬よりも素早く効く。

そういうわけで彼らから遠ざかっていたのだが、最近、新しいアルバムが出たのだと友人から教えてもらった。私は半信半疑でユーチューブを開いた。またなんかビョークみたいなアルバムになってんだろ? ビョークって嫌いなんだよな。なんか文化人が好きそうだから。Of Monsters and Men と打ち込むとたしかに新譜が出ていた(新譜! 私達はこの言葉を使っていた! 書くことは重要なことを思い出すことでもある)。いくつか曲を聞いてみる。昔のヴァイブスをはっきりと感じる! 歌詞はまだ You-and-me な感じでそこまで好きにはなれないが、いくつかのディテールは間違いなく彼らに特有のものがある。流れの早い小さな川、薄暗い太陽の差すオリーブの木。駐車場のとても高いところに投光器が備え付けられていてぼんやりと明るくなっている。まばらに車が停まっていて、そのうちのいくつかには国も家もない男たちが寝ていて、別のいくつかにはもう持ち主がいない。私は彼らのそういう細部と手作り感のある音が非常に好きだ。ライブにも行くつもりだ

おそらく音楽は文章に先んじて生活するすべを見つけている。きっと文章家たちはまた自分たちの声を使って自分の原稿を人の前で読むことに備えないといけないだろう。 音響学的 ( アコースティック ) なもの。トルーマン・カポーティーやチャールズ・ブコウスキーがかつてそうしたように、作品を朗読するということが作家の糧になる日が来るだろう。文章を研ぎ澄ますこと、長短のリズム、音色と韻律、そして翻訳という繊細な問題がまだ山積していて、作家たちはかつてそれを一度解決したのにもう忘れてしまっている。