先日の日記を更新した。
今日は晴れだった。
情報化社会と権力の解放が極限まで進んだ世界においては、個人のプライバシーは消失する。(『個人のプライバシーがない』とは非文めいているが)我々は他人の全てを知ることになるし、逆に――もしくは、その対価として――他人に全てを知られることにもなる。
そのような時代における日記――ネオ日記――に書かれるのは、皮肉にも『今日は晴れだった』程度の事だろう。それ以外の情報は、全て完全に外部へ記録される。今日は晴れだった。その光が私の瞳孔に刺さった。そのまぶしさ、私の光彩が絞られる痛み――私的で、どうでもいいもののみが、我々の自由に扱える情報として残される。
このような観点からすると、ネオ日記時代の文学は極めて牧歌的になり得る。
これは存在しなかったインタビューの話だ。死にかけのホームレスに「何が欲しい?」と尋ねた女がいた。ホームレスは「家」と答えた。どんな家がいいんですか?と女が訊いた。 家ならなんでも とホームレスは答えた。彼が家を手に入れたのか、私は知らない。
5/28日に書いた記事について、専門家の意見がいくつか見られた。喜ばしいことだと私は思う。一例として、このブログ記事へリンクを張っておく。この記事を選んだ理由は、私はこのブログの著者に何らかの恩義があるように思われるからだ。