弟について

日記

さて、世の中には、文頭の一字あけや『?』の後の一字あけは文章そのものにコードするべきだという立場と、組版の段階で、組版ソフトや人が行うべきだという立場の2つがある。

前者の方は、一般に学校で教わるものだ。これの優れたところは、自分の文章をほとんど自由にコントロールできるというところにある。 つまり、どの場所で改行するかはもちろんのこと、文頭にどのくらいのスペースが空くか、行と行の間隔はいくらかまで含めて、文章を書くことを書き手は要求し、実際にそのとおりにする。 この立場においては、文章とその表示において、表現者というものは書き手に限られている。読み手は書き手が書きたいと思ったものを直接的に受け取り、そこに 他の媒介物はない。純粋な二者のコミュニケーションが図られる。

一方、後者の立場は、この純粋なコミュニケーションと言うものの成立を疑うところから始める。例えば、私達が持っているスマートフォンやパソコンは多種多様で、そこに、書き手の書こうとしたものが、正確に表示される保証はない。Webページに貼られた文章の多くは、ディスプレイのサイズに合わせて表示されるからだ。紙に印刷された文章は、モニタに映る文書とは異なった質感を持っている。フォントの形によって、文章の印象は、がらりと変化する。何よりも、視覚に障害を持つ人にとっては、そもそも、文章を整形するという概念を、正確に伝えることが難しいだろう。それに、文章を用いた二次創作――書道など――は、この純粋なコミュニケーションというものがまさに存在しないからこそ、その美学があるのだ(さもなくば、単に同じ文字が書かれているだけだ)。

したがって、この純粋なコミュニケーションという枠組みは、棄却される。そして、この、書き手と読み手という、今や分かたれた二者の間に現れるのが、いわゆる組版ソフトであり、他の表現者であり、何らかのメディア――まさに『媒体』としてのメディア――なのだ。この立場からすると、改行の幅、フォントのサイズ、表現のデバイス等々は、すでに書き手の手の届かないところに存在する、美学的なものになる。もちろん、もとはパラグラフの先頭を探すためのマーカーであった文頭の一文字あけも、この例外ではない。例えば、パラグラフ間を広く取る組版システムにおいては、文頭で一文字あけるのは、それこそおせっかいというものである。

要するに、多くの場合、我々が書くものは、我々が見ているものではなくなってしまう。

今から話すのは1994年の1月21日に兄を亡くした弟の話だ。

いくつか

日記

私は酔っている。異常なことを書いてしまう。私には私が止められない。これだから酒は嫌いだ。私はひどく酔いやすく――じゃあなんで飲むんだよ、キャハハ!――そして狂気はこのときにだけ元気になる。 しかし私は知っている。酒は狂気のカンフル剤であって、狂気の食物でない――よく言ったもんだよ! チャハハ!

続きを読み給え。あなたが十分に準備が出来ているなら。

切断についていくつか

日記

 初めに、先日の更新を修正した。というのも、途中までしか更新が反映されていなかったからだ。より正確に言うと、git pushを忘れていた。

 最近わかってきたことだが、私は日記というスタイルに向いていない。私はたわごとを書く。そして日記はあまりにもたわごとになりにくい。というのも、意識的に他人の日記を見る時、その人は、単にたわごとを読むというよりも、その日記の著者の思考や日常をなぞるためにやるのだから。

 私が好きな状況の一つに、願い事が叶えられ、本当にほしかったものとは違うものがあなたに与えられているのに、周りの人々が、口々に「良かったじゃないか」と言ってくる、という状況がある。あなただけが、願いがうまく叶わなかったことを、あなたが間違えた精霊に頼み事をしたことを、そして、それにもかかわらず、あなたがそれの対価を支払わなければならないことを知っている。ジンは悪辣な笑みを浮かべる。あなたはあなたの人生というやつを与えなくてはならなくなる。

 例えば、本当は単に生きていくための縁(ヨスガ)や治療を求めているが、よくわからない彼氏や彼女をあてがわれて、それと毎週セックスをして、まるでそれの恋人のように過ごさなくてはいけなくなる、という事がある。他にも、知識が欲しかったはずなのに、両親の称賛を与えられ、その為に、書物の大海ではなく、数冊の教科書と参考書しか与えられなかった、高校までの秀才などがいる。単に、抽象的な幸せを求めていただけだったのに、それの具体例として、カネを使うことしか与えられず、二十四歳にして、月収や年収以外の話に興味が持てなくなってしまった実業家。私がセックスとカネを信用していないのは、それがたいてい、本来求めているものとは異なるものだからだ。

 おそらく、誰であれ、(比較的どうでもいい)願いのいくつかはこのような成就の仕方をしているはずだ。このような状況においては、我々が出来ることは、はっきり言って、とても長くてとても孤独な相撲とでも言うべきものに限られる。わかりすく言うと、ベッドの中で、するべきではなかったがしてしまったこと、するべきだったがしなかったことを思い出し、自分をいたぶり、なじり、将来に関して悲観的な予測を立てることに限られる。この相撲においては、あなたは常に自分自身を徹底的に打ち負かさるし、どのような救いもない。不思議な話だが、多くの人が、このような自虐と自己憐憫においては、ある種の楽しみがあることを認めている。それこそ、多くの哲学者が、決まって自分の前の書籍を引き合いに出して叩くのは――しばしば本人も認めるが――このような目的だ。

 これもそのような種類の話だ。(本当は20枚位の話を、1枚分にまとめている)

マウスについていくつか

日記

我々は専門用語を用いるときに、多くの場合、ただ一回のみ定義が上書きされることを措定している。 例えば、我々は『リアリズム』と言った言葉を、国際関係を述べるときにおいては、ある種の悲観的な立場のことだと捉え、 特別な注釈や、議論がよほど行き詰まったときでなければ、これらの定義を振り返ることはしないし、 別の場所(例えば美術における)『リアリズム』と混同することもない。 この一回きりの定義という条件が成り立ち、日常用語を上書きすることによって専門用語を構築している限りにおいては、 用語の定義の順序にはさほど気を使う必要がない。 というのも、私たちは必ず一意に定義の鎖をたどっていき、それは日常用語か、上書きされた一つだけの用語に落ち込むのだから。

 ところで、実験用のマウス、と言ったときに、バイオインフォマティシャンたちは何を思い出すのだろうか? この愛しい赤い目の白いふわふわのことだろうか? それとも、この赤い光線を出すなんとも健気な機械に対してだろうか?

 これもまた別の種類のたわごとで、私がこの話を日記として書こうと思ったのは、単に、日記という名前に、私があまりにも注意を払ってこなかったことに気がつくためだった。 (読者への注:このような動機で書くことは可能なのだろうか? つまり、すでに気がつこうと決心したことに、再び気がつくことは。私にはよくわからない。私は自分に言及しすぎることはわかっているのだが。)

これもなんでもいい話だった。

現在の進捗について

日記

およそ4年前、『捗る』ことがかまびすしく金科玉条に掲げられたことがあった。 捗ることは何よりも大切だとされ、数々のテックやハックが開発され、淘汰され、混交され、そしてあらまほしき型になろうとしていた。 少なくとも、今よりも捗る生活の形があり、私達はそれを目指していればよかった。 どんどん進んでいられた。コンセントはキャップをはめられ、ポテチは箸によって食べられた。 数億のクロスバイクが購入され、夏場には冷感シートが大量に売却され、日本中でハッカ油が浴槽に注がれ、 そして憎むべき相手の庭にはミントの種がひっそりと植えられた。

もちろん、この捗るという概念は、その後、濫用され、しまいには、『墓地が無料、今すぐ死ね』という主張がなされたあと、 この笑いによって更地になった茫漠としたインターネットを駆け抜けたのは、 我々が求めていたようなものではなくて、企業の利害関係と調整、そして広告費の バランスから産み出された、マーケティングであり、我々がそれの名前(確かステマというのだった) に気がついたときには、『捗る』なんていう言葉は、もう、おばあちゃんのぽたぽた焼きの裏にでも載ってそうな、 子供時代の懐かしい思い出の品になっていた。 パラダイムは、行き詰まったというよりも、単に消費しつくされてしまった。 もしくはその新鮮味を失った。 言葉の上での頻度依存淘汰と言ってもいい。ミームの適応度と言ってもいい。 過ぎ去ったことの説明に対して、我々がどのような道具を使おうと『捗る』は雌伏の時期に入ったことは変えようがない。

今となっては、我々は新しいパラダイム『コスパ』の元にまた歩みを進めようと思っている。 実際は、これはコストに比重を置きすぎた、貧しくなりつつある本邦の愛おしい自尊心とでもいうものなのだが。

さて、本来、私は、ハッカ油によって聖別された子供というのは、やはり、歩けなくなった憐れむべき男に対して、 ささやかな清涼感を提供したり、女に屈辱を与えている男たちに対して、 「この中で今ひやっとしていない者だけが石を投げなさい」などと言うのだろうか、と疑問を呈そうとしていた。

この段階になって、ようやく理解してきたのだが、この疑問はよくなかった。

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