マウスについていくつか

日記

我々は専門用語を用いるときに、多くの場合、ただ一回のみ定義が上書きされることを措定している。 例えば、我々は『リアリズム』と言った言葉を、国際関係を述べるときにおいては、ある種の悲観的な立場のことだと捉え、 特別な注釈や、議論がよほど行き詰まったときでなければ、これらの定義を振り返ることはしないし、 別の場所(例えば美術における)『リアリズム』と混同することもない。 この一回きりの定義という条件が成り立ち、日常用語を上書きすることによって専門用語を構築している限りにおいては、 用語の定義の順序にはさほど気を使う必要がない。 というのも、私たちは必ず一意に定義の鎖をたどっていき、それは日常用語か、上書きされた一つだけの用語に落ち込むのだから。

 ところで、実験用のマウス、と言ったときに、バイオインフォマティシャンたちは何を思い出すのだろうか? この愛しい赤い目の白いふわふわのことだろうか? それとも、この赤い光線を出すなんとも健気な機械に対してだろうか?

 これもまた別の種類のたわごとで、私がこの話を日記として書こうと思ったのは、単に、日記という名前に、私があまりにも注意を払ってこなかったことに気がつくためだった。 (読者への注:このような動機で書くことは可能なのだろうか? つまり、すでに気がつこうと決心したことに、再び気がつくことは。私にはよくわからない。私は自分に言及しすぎることはわかっているのだが。)

これもなんでもいい話だった。

現在の進捗について

日記

およそ4年前、『捗る』ことがかまびすしく金科玉条に掲げられたことがあった。 捗ることは何よりも大切だとされ、数々のテックやハックが開発され、淘汰され、混交され、そしてあらまほしき型になろうとしていた。 少なくとも、今よりも捗る生活の形があり、私達はそれを目指していればよかった。 どんどん進んでいられた。コンセントはキャップをはめられ、ポテチは箸によって食べられた。 数億のクロスバイクが購入され、夏場には冷感シートが大量に売却され、日本中でハッカ油が浴槽に注がれ、 そして憎むべき相手の庭にはミントの種がひっそりと植えられた。

もちろん、この捗るという概念は、その後、濫用され、しまいには、『墓地が無料、今すぐ死ね』という主張がなされたあと、 この笑いによって更地になった茫漠としたインターネットを駆け抜けたのは、 我々が求めていたようなものではなくて、企業の利害関係と調整、そして広告費の バランスから産み出された、マーケティングであり、我々がそれの名前(確かステマというのだった) に気がついたときには、『捗る』なんていう言葉は、もう、おばあちゃんのぽたぽた焼きの裏にでも載ってそうな、 子供時代の懐かしい思い出の品になっていた。 パラダイムは、行き詰まったというよりも、単に消費しつくされてしまった。 もしくはその新鮮味を失った。 言葉の上での頻度依存淘汰と言ってもいい。ミームの適応度と言ってもいい。 過ぎ去ったことの説明に対して、我々がどのような道具を使おうと『捗る』は雌伏の時期に入ったことは変えようがない。

今となっては、我々は新しいパラダイム『コスパ』の元にまた歩みを進めようと思っている。 実際は、これはコストに比重を置きすぎた、貧しくなりつつある本邦の愛おしい自尊心とでもいうものなのだが。

さて、本来、私は、ハッカ油によって聖別された子供というのは、やはり、歩けなくなった憐れむべき男に対して、 ささやかな清涼感を提供したり、女に屈辱を与えている男たちに対して、 「この中で今ひやっとしていない者だけが石を投げなさい」などと言うのだろうか、と疑問を呈そうとしていた。

この段階になって、ようやく理解してきたのだが、この疑問はよくなかった。

日記

日記

どうやらやや異常に時間が経っていたらしく、光陰矢の如し、月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり、 10年は一昔、ということを思った。何を言っているんだ?

何にせよ、近年では、夏が終わり、秋がやってくるという事態に発展し、これがいわゆる自民党の総裁選を引き起こす事態になったことは言うまでもないことだが、 やはり総裁選の前に悪辣な策略をもってなんとかがどうの。私は本来、もう少し病的なことを書くつもりだったし、 実際に一度ならず書いたのだが、あまりにも書くことに意識的になりすぎたあまり、消してしまった。 少しだけ話しておくと、自分のレピュテーションをあげるために、災害を意図的に引き起こし、どうの、と言うつもりがあったのだが、 これは明らかに、具体的に触って、見ることが出来る種類の人権を無視している。 というのも、原則として、いわゆる政治というものが人間を利用することはあってはならず、災害を利用することによって、 間接的にその被災者をも利用している、というのは明らかであるから。

私は何を言っているんだ。

アルコールについていくつか

日記

とても久しぶりに日記を書く。 だんだん私も理解してきたことで、多くの人が幼少期に学ぶべきものとして、生活には述べるところがあまりにも少ないということがある。 私はこの事実を『ユリシーズ』を通して理解した。生活は単調で、すべてがルーチンと化していく。 朝日が昇る、服を着る、顔を洗う、化粧をする……すべてが徐々に巨大な柱に巻き取られていき、それの外周を歩くのには24時間かかる。

私は一体どんなメタファーを使おうとしているんだ? そんなものはどうでもいいことだ。

何にせよ、私は書くし、それは書くべきでないことや、書くことによる効果("書く意味"とあなたは言うかもしれない)がないものや、 あなたや私にとってどうでもいいことを含む。例えば昨日の停電のことなど……。

日記

一ヶ月も空いた。

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