日記
まずはタイトルについて謝罪する。私はこれから、政治的に神妙な話を、真剣な顔つきでするつもりはない(もしかすると、私は形容詞を交換したほうがよかったのかも知れない。真剣な話を神妙な顔つきでに。しかし、オリジナルのほうが、私には好ましく思われる……私はオリジナルの方を好む……オリジナルのほうが私は好きだ。未成熟な私の言語野)。
今日は土曜日、先週は来なかった聖人たちが、福音書をiPadにおさめてやってくる日だった。しかし、私は誰とも会いたくはなかった。多くの人が、このような日をもっていることを、私は知っている。彼らは、それを、二重にロックが掛かった下着入れの中の箱に詰めてしまっておく。または恋人と分け合ったりする。または排水口に流してしまう。または、それに気がつかないまま、ずっと血を流している。私は単に露悪的なだけに過ぎない。あなたは、単に、これが許容されうることだと、分かっていないだけだ。
だから、私は昼間、コーヒーショップで時間を潰して、図書館で調べ物をして帰った。平成という時代についての本を読んだ。何枚かメモを取った。平成とは――とその本は言っていた――自由と、その代償となる代替可能性の時代である。もっとよい物が常にある時代である。ここで、その妥当性を検討することはよそう。ただ、私は勝利を宣言したくはない。そして、私をもって誰かの勝利だともされたくはない。といっても、私はびびっているだけだが……。
私が部屋に戻ってから、彼らが訪ねに来ることはなかった。私はほっとした。これによって、私は誰かに勝ったのだろうか? 例えば、洗脳されたくないのにされつつある少年などに? そうでないといいなあと私は思う。