帰国

日記

日本に帰ってきた。日本での火曜に離陸し、アメリカに火曜日についた。そして、アメリカを日曜日に発ち、月曜日の夜に帰って着た。
会議自体は非常に楽しく、今、生物学、特にゲノム科学の業界において何が行われているか、そして、彼らがどのようなところまで分かってくれるかを知ることができた。具体的には、ゲノミクスという分野では、まだGWASが広く使われているということ、連鎖不均衡や、missing heritability は認知されていて、GWASを捨てるというよりは、困難を取り除くことで、まだ使えるものにしようとしたいらしかった。おそらく、見たマンハッタンプロットの数は50枚は行っていると思う。

旅行についていくつか

日記

さて、明日から旅行に出かける。外国に行くのは初めてで、したがってテンションが上がり、こんなところに書きつけているわけだ。一方で、FacebookやTwitterにこのことを書く気力はない。「あの野郎、自慢しやがって」と思われるのがオチだし、まさにそうしようと思って言うのだから当然とも言える。
このどえらい穴蔵、『地下室の手記』でネクラーソフがどえらい穴蔵といった半地下の部屋みたいなこのブログでくらい、まあ自慢させていただきたいものだ。それにしても、このブログはまさに半地下みたいだ。外の様子ははっきり見えるが、他の人がここを見ているとは思えない。しかし、それでも見せてはいるのだ!

穴蔵といえばアナグラムだ。コンピュータサイエンスの初心者にとって、与えられた文字列を、単に並び替えた文字列を吐き出すこと(これは文字列長の階乗個くらいある)、そして、その膨大な並びの中から、意味のあるものを取り出すことは、必ず一度くらいは通る実践である。
そのようなものの中には、私が天啓と思うようなもの、昼間から金麦とか麦やホップといった発泡性のリキュールを飲んでいるときに吟ずるタイプの無意味さに近いような無意味さを持っているものもあり、私には到底、こう言ったシステマチックな偶然が、とても役に立たないものだとは思えない。

ところで、前の方の席でディスカッションをしている先輩が、「評価される項目をわかりやすくしたほうがいい。『素晴らしい青春の1ページになる』と言いたいんだったらそう書かないといけない」と言っていた。多くの場合、自信のなさが暗黙的なところを生み出す。ピンチョンもそのようになったのだが、全てをつまびらかにした後で、ひたすらにポップで俗っぽいところまで行き着いた後に、それでも残る深みというものが大切なのだろう。

サンポールのソロモン的解釈

日記

 『ゼンデギ』を読んだ。なかなかおもしろい。二冊連続で、ここに書くくらい面白い本に当たるのは、めったにないことだ。
 ところで、米には六柱の神が載るという。ソースはない。そもそも、『米には六柱の神が載る』ことを正当化しようと思ったら、まず神の存在を正当化せねばならないのではないか? 違うか。ともかく、我々はその様なところには立ち入らないつもりだ。これはあなたに認めていただこう。
 さて、一方で、サンポールには三柱の神が宿っている。これはサンポールそれ自身の名前、そして名は体を表すところから、非常に自然な形で演繹される。
 私はいつも、ソロモン七二柱の話を聞くたびに、それの依代の準備はかなりのものがあったのではないかと思っていた。もちろん、彼はブラスに72柱を閉じ込めおおせたのものの、そこから特定の一柱のみを取り出さねばならぬとしたら、もちろん、それぞれの独房を作らざるを得まい。米の部屋は広すぎて、ソロモンはアモンを呼び出すときに、バルバトスとストラス、サレオス、マルコシアスにオリアスまで一緒に呼び出さなければならなくなる。ひどいねこれは。
 一方で、七二個の真鍮器は多すぎる。ここで、彼はサンポールを使ったのだろう。72 = 3 * 24。無論、この24は、2+4 = 6であり、この6という数は、旧約聖書でヨセフの前に生まれた男の子の数とぴったり一致する。これはすなわり、二四本のサンポールが、まさにダンからゼブルンまで続く六人を神がヨセフに従わせたのと同じく、72柱の悪魔がソロモンに従っていたということである。
 これはかなりまずい冗談だった。

『LAヴァイス』

『LAヴァイス』メモ

トマス・ピンチョンが書いた『LAヴァイス』を読んだ。最近、少しひどい本が多く(『オールドパンク・哄笑する』はほんやくがちょっとひどすぎてワロタぞ)、ディプレッションに悩まされていたが、この本はかなりなかなか結構良かったので、メモを残しておく。

想像上の友人についていくつか

日記

 飲み会を二日連続で行った。頭の中がすかすかになる。ワーキングメモリーがほとんどなくなる。映画でさえ見てられない。考えがばらばらになっている。
 今日はエホバの証人が来なかった。ついに私も見捨てられたということだろうか? それはそれで、合理的なことだと、私は思う。
 二十五歳以下の若者にはありがちなことであるが、この世の、あらゆる問題に対する、完璧な解を与えられると、私も思っていて、全ての言葉が、ふくよかな銀髪をたたえた老人どもがどえらく構築しやがった蒙昧に対する、最終通告になると勘違いしているのだが、要するに、時間には限りがあるということだ。もう一年近くも、ヘラヘラ笑っているだけのやつを勧誘することで、彼らの地位が、彼らのコミュニティの中で上がるとは、考えにくい。
 なんでもいいか。

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