風呂についていくつか

日記

 ブコウスキーの The captain ... を読み終わり、Portions from a wine-stained notebook を読み始めた。実を言うと、日本語訳をすでに読んだことがある。こんなことをしてなんになるのかと聞かれれば、何にもならないと私は答えるだろう。
 しかし、そもそも一体、何がなんになるのか? 諸行無常の響きあり。奢れるものもひさしからず。京都の街が焼けたのは、単に防火防災の観点を都市設計者が取り入れなかったという、無知に帰すべき事柄だが、一方で地球がそのうち単に消えて無くなるだろう、という天文学者の意見は、つまりこのようなことである。
 我々の生は、要するに全く、本当にびっくりするほど全く意味がなく、而して、どのような行動も何にかはせむと言ったところだが、あなたが関知するところにおける誠実な人生というものはあり、それに関してはあなたは妥協しないでいるはずだ。

 これは本の話のはずだった。私は――あなたたちと同程度に――病んでいる。要するに支離滅裂ということだ。無くて七癖という詞書もあることぞかし。話を始めると、私はどうしてもひどい場所まで行き着いてしまう。こちらがひどい場所になります。ごゆっくりどうぞ。

書かない日が続く

日記

 暖かい日が続く。嫌な気分だ。春と夏は暑いから嫌いだ。痩せればどうにか過ごせるようになるのではないかと思い、痩せては見たものの、相変わらず夏は嫌いなままだ。
 そもそも、人間は零下でもなんとか生きていけるというのに、たかが五十度で死んでしまうではないか。これはすなわち、人間は一般に暑いところに向いていないということではないだろうか? 夏が好きな人物は、むしろ温暖化に適応しかけている新人類として称揚すべきだが、それが一般に成立するものではなく、むしろ冬が好きな人々の方が原初の形であったのだということは、いくら強調してもしすぎることはないほどだ。

 以上が冗談であった。豈豈、如何すべし。

日記についていくつか

日記

 Charles Bukowski の The Captain Is Out to Lunch and the Sailors Have Taken Over the Ship という本を読んでいる。やる気がややなくなる。

おやおやおやとでもいうべきもの

せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ
 野澤節子

 五月になると思い出す句がこれだ。俳句を横書きにするなど何事だ。私を魔女と呼んでくれ。中世の拷問で、私がもっとも興味深いと感じたことが、火あぶりの刑に関する注釈だ。火あぶりの刑とは、火を直接は触れさせずに、じっくりと加熱し続ける刑のことである。執行開始から数時間が経った、ある受刑者の言葉は次のようなものだったと、その本に書いてあった:「もっと薪を入れてください」

驚くほど時間が経っていることについて

大学

 プルーストはマドレーヌを紅茶につけた時の匂いから、彼が書く物語の世界を構成したという。それって、ものすごい量のマドレーヌを消費したんじゃないかと、僕は思う。想像してほしい。紅茶漬けのマドレーヌ(大量)。想像しただろうか? ちょっとすごいだろう?

 細部を詰めようとすればするほど、あなたのお父さんは、マドレーヌをびしょ濡れにする。もう少しで、教会のステンドガラスのマリアさまの小指の爪のガラスの色が思い出せるんだ。ポリ袋いっぱいのマドレーヌ(紅茶に濡れている)。それを毎週三回捨てなきゃいけない。近所の人に見つかったら大変だ。深夜にこっそり、息を詰めて。マドレーヌの焼きすぎと、紅茶の淹れすぎがたたって、あなたのお母さんはおかしくなる。あなたもやがてそうなる。あなたはそれに気が付いているべきだった。
 大体の場合、こんな感じの生産性の逓減が、芸術一家の存続というやつを台無しにする。ブリューゲルって奴らはすごいね。
 今からするのは、芸術一家の話ではなく、僕にとってのマドレーヌと紅茶の話だ。

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