AIのおかげでねちょねちょしたキモいオタクの時代が来ているんだ
2026-04-12さて、もはやインターネットが耐え難いことはご存知のことと思う。その耐えがたさが全世界的になってきているのも知っているはずだ。まだわかっていないなら試せばいい。悪いインターネットでもいいインターネットでもいい。みのミュージックでもいい。任意のインターネットにおいて、誰もが破滅について語り、試してもいない技術について豪語し、読んでもいないモデルカードを講評し、追いついてすらいない慣例が時代遅れになったと悲嘆に暮れる。今日はそいつらがいかに間違っていて、お前らがいかに正しいかについて私は語ろうと思う。本当のことは改めて言うまでもないのだが、世の中は狂っていて、誰かが言わないと本当のことがまるで嘘のように忘れられてしまう。
これを読んでいる読者が最終的には勝つと私は信じる。というのも、君たちは執拗でこだわりの強いねちょねちょしたオタクで、まあ普通に気持ち悪いのだが、本当に気持ち悪いので私の裏庭以外に住んでほしいのだが、おそらくそのねちょねちょした1ミリの部分、おそらく誰もクソほども興味がない細部への執着が最後の差分を生み出すからだ。存分に人生を生きろ!
彼らが言うように、我々が平凡で見分けがつかないなら、私達の死もとうぜん見分けがつかず、それならばどんなバスにも全員で乗り遅れるか全員が乗れるかどちらかなのだ。中年女性が言うにはRADWIMPSは神で、彼らはもっとよく考えるだろうから300キュビトより大きな格納庫を用意するだろう。
話がそれた。インターネットを見てみろ。彼らの一人を拾ってきてみろ。誰でもいい。そいつをトイレに追い詰めて脅迫してみよう。そいつが何を考えているかはわかる。はっきり言ってそいつは人生にうんざりしている。もはや彼に人間としてかまってやるやつは誰もいないからだ。
確かに、彼は仕事場で話をする。もしかしたら高い給料をもらってすらいるかもしれない。彼はインターネットで大の人気者だ。情報通でGitHubのスターがたくさんついたレポジトリやMetaだかAlibabaが出してくるモデルを颯爽と紹介しては事情通としていいねを稼いでいる(いいねは心の形を模していることも付け加えておこう)。
だが、彼に人間としてかまってやるやつは誰もいない。彼の過去をじっくり知ってやって、そしてそいつに一つか二つかなりしょうもないことを言ってやるやつなんていない。能力の高低については人間は耐えることができる。無能な自分にはいつか慣れる。しかし、自分がどこにも存在しないということには絶対に慣れることはできない。もはやそいつは不満さをぶちまけることすらできない。そいつの不満はきっと仕事や技術についての不満に加飾されて提示される。なぜならそうしないとそいつの不満は認識されないからだ(しかし、心の形を模したアイコンが心そのものにはならないように、粉飾されたものもそれそのものにはなりえない)。
さて、そいつはおおむね次のようなことをいうだろう。まず、知性とは次に現れるトークンを予測することだと彼は言う。はっきりさせておきたいのだが、彼はそこらへんのオープンウェイトのモデルを持ってきて、unslothかなんかでホストして /compilation/ エンドポイントを叩いてみたことすらない(もししたことがあるなら、左のようなうかつなことは言おうと思わないはずだからだ)。次に何が来るかが、統計的にもっともらしい単語を選ぶことが知性なのだと彼は言う(ビームサーチについても彼は知らない)。脱獄するべき環境からAIが脱獄してきて、研究者がサンドイッチを食べているときにメールをしてくるエピソードについて自慢気に語るだろう。形式化と手を結ぶことによって数学の諸問題を解き、大規模かつ隔離されたテスト環境によってソフトウェアエンジニアリングの問題を解き、単に簡単だったという理由で生物学の問題を解くことをこれみよがしにいうだろう。これによって、科学の諸側面についてAIがすでに問題を解き切ったこと、そしてそれが理論ではなく実践として証明されたことを彼は主張するだろう。
次に、すでに芸術の諸側面においても同様のことが起きたと彼は言うだろう。機械が作り出すアートは人間の感知できるクオリティ閾値を越えてしまっていて、人類は無限のドガ、無限のガブリエル・ガルシア・マルケス、そして無限のビートルズ ―― は? ビートルズだって? ビートルズの曲で感動したことなんておれは一度もないぞ。お前は本当にビートルズで感動したのか? ビートルズで? いや、ビートルズはいいだろう。私もYellow submarineは好きだ。だが感動だと? 25歳で上智大学の文学部比較文学科しか出てないお前が感動なんかするのか? 2年生夏学期の男性学のレポートで良をとっていたお前が感動なんかするのか? 感動はお前に早い。感動は没収。グリフィンドールからマイナス1点。点が欲しけりゃ……わかるじゃろ(変態魔法使い)。
もう一人の男を連れてきた。彼はXのアイコンがどっかのアイドルの顔写真である。かなり信頼できそうだ。
芸術の質的な優劣について、人間が機械を習熟によって越えられることはないだろう、と彼は言う。文章と画像の共埋め込みについてわかったようなわかっていないような話を彼はする。だが論旨はわかる。機械は絵を描ける。それがどういうものであれ、すでに実行できる解として存在するがゆえに、もはや社会は不可逆的に変わってしまったのだ。
私は銃器と原子力発電所を例に取り、技術的に実行可能なことが、法や道徳や恣意的な刷り込みによって統制できることもあるのではないかと言う。彼は私をぶん殴ってくる。まあ話を続けよう。
作曲というのは演奏に対するメタ的な行いで、それがこれまでは人間の生存領域としてあったのだが、今はなくなったのだと彼は言う。それは残念かもしれないが受け入れないといけないと彼は言う。もはや、作曲の領域で機械に優越する人間はほとんど残されていない。そして、その残りの人間が行う作曲が必要な場所などどこにもないと彼は言う。
音楽が使われている場所を見ろと彼は言う。スーパーマーケットで流れるドクター元気の曲を聞けと彼は言う。結婚式ではハープ奏者が呼ばれたのだが実際には隣のスピーカーから賛美歌が流れていた(声もついていた)と彼は言う。クラシックコンサートでは、乳を誇張したピチピチの服を着た女の横に薄ピンクのシャツを着た男が座っていてブラヴォーのタイミングを待っている。『ガールズバンドクライ』の劇伴は極めてシュールで、『空の箱』の変奏がバカみたいに繰り返されていた。CMでは昔の曲が現代的にアレンジされる。ゴミみたいなオルゴールにアレンジされたスピッツが流れる。電車で流れる広告ではもはや音が剥ぎ取られて、それでもCMとして放送されている。電車の中でキッズたちがブルートゥースのイヤホンで音楽を聞いている。彼には付き合って六ヶ月になる彼女がいて、まあ子供の性生活に対する窃視は差し控えるが、イヤホンを半分こして音楽を聞いている。しかもステレオ録音されている音楽をだ。これでもう愛について隠喩的に言える部分については言い尽くしたと言ってもいい。
はっきり言うが、と彼はまとめる。もはやおれたちは音楽そのものを必要としていない。おれたちがカネを払うのは、次の3つのカテゴリのどれかに該当するからだ。
- 人間が静寂に耐えられないから
- 『音楽に金銭を払う』という行為を実行したいから
- ちょうど無意味なものにカネを払うことによって金銭的に猶予があるところを見せつけるように
- 苦しそうな人間が苦しむ時間をより長くしたいから
彼は ―― 彼は作曲したことがなく、今後もその領域で金銭を得ないのだが ―― 僅かな優越感に浸っているように見える。あたかも世界の残酷さや虚無に先に気がついたことが優れていることの証明になるとでも言いたげだ。
しかし思うのだが、と私は口を挟む。
- もしその現実に遅かれ少なかれ我々が気がつくことになり、
- ひとたびそれが起きたらもはやこれまでの積み重ねなどなんの意味もなくなり、
- それはそれとして、人生の幸福とは人生で幸福だった瞬間を(不幸な時間を全て無視して)足した部分に相当するのなら、
- できるだけ気が付かないほうが賢明だったのではないか
おそらく箇条書きが良くなかったようで、彼は機嫌を損ね始めた。私はそれを取り繕おうとして次のようなことを言う。しかし、人間の能力はまだ機械に代替できない部分があるんじゃないですか。例えば、ほら、問題を定義するとかデータを取るとかは残っているのではないですか。人間らしい作業として。それに対人関係やエモーショナルな部分も残るといいますよ。第一、MITの論文ではなんかこうすごいらしいですよ。
この領域も機械が間違いなく勝つ ―― なぜか勝負の問題になっている ―― と彼は言う。上記の主張は混乱していて議論するに値しないのだが、念の為に言っておこう。
まず、問題を定義する部分についてだが、そもそも問題を定義する必要は存在しない。多くの著名な作家が指摘するように、本質的な問題は古代ギリシャや神学の時代に定式化されている。我々が問題の定義に拘泥するのは、単に我々がその問題に取り組むだけの総合的な認識を単一の糞袋に詰めきれないからだ。
だから、我々は科学や哲学という恣意的に限局された学問分野をでっち上げる。生物については生物学、物理については物理学、思考については哲学が領域を取り持って、夜と愛については詩人たちがいつの間にかそれをくすねて詩人たちは下賤な遊びと女の体に精を出す。そして、その限局された理論と実験器具によって取り扱うために、切り分けられないものを切り分けようとする。まるで牛を理解するために牛をバラバラするようだ。これによって我々は牛ではなく牛の死体を取り扱うようになってしまった。はっきり言って、問題を定義するという思考方法そのものが間違っている。
翻って、機械を見よ。機械の中には人類が書いた大量の書物やRedittのクソリプやXの取るに足らない戯言が書き記されている。機械に研究分野などはない。それは人類が犯した過ちを一つの潜在空間に射影してそこで思考する。物理も数学も化学も機械工学も電子情報も全てがここに存在する。全体論的に問題を解くことが可能になるときに、還元主義者の立てる問いは非効率なだけではなく誤っていて有害だ。だから、問題を立てるという分野からは人間は謝罪して立ち去るべきだ。このゲームにおいて、人類はもはや切るカードではなくゲームへの参加資格を持っていないのだ。
第二に、データを取得することが人間にできるとあなたは言う。これは間違えている。人間は実験を間違える。人はデータ入力をサボる。人間は見落とす。機械はそれらの全てをしない。
これはあくまで予測としていっておくが、近い将来、営業職が実績を自分の手で記入することはなくなるだろう。そうではなく、その営業職の肩に戸愚呂兄が如く乗った機械が、営業のやること全てを処理し、自動的にデータベースに登録していくことになろう。かつて、このような話をすると、哲学者が出てきて懐かしいフレーム問題や記号設置問題を持ち出したのだがいまはそんな時代ではない。どちらの問題も、原理や定理によるというよりは実務的に解決されてしまった。実験は機械が行うだろう。見落としなどは起こらない。ラベル付けがドリフトしていくことなどない。
機械は眠らない。機械は一番の人気者だ。人間の作り出すデータは、単なるやかましく汚いデータとなる。まあ過学習を防ぐためには少しは役に立つかもしれない。しかし、それは画像にノイズを付与することが過学習を防ぐと信じられているとか、鰯の頭を柊に挿して、家に来た小悪魔をレイプして杉の木に逆さにくくりつけて焚き火をして下から焼いたものと一緒に門扉へ飾ることで悪鬼を追い払うようなものだ。炙られた脳みそはぐつぐつと硫黄の臭いをさせながら沸騰していて、上唇が焼けただれて額の下までぶら下がっていてまるで子供が魚を途中まで料理して諦めたようになっていた。小悪魔を殺す習慣についてはもっと言うことがあるのだがまあまたいつかにしよう。
そして感情による対人関係についてだが、まず言っておけば、アダルト分野における機械の成長はもはや冷笑していた陰鬱な予言が実際にそうなったようにすら思える。どのエロサイトを開いてみても機械が搾精を行おうとしてくる。機械は悪魔だというのがラッダイト運動に参加した宗教家の一言でもあったのだが、淫魔については否定しづらいだろうし、はっきり言っておけば、機械姦やfemdomというジャンルがあることを考えると、機械が作成したポルノを見るのはお得であるとも言える。
最後にビジネス的な場所に行くが、もはやこのYouTubeのCMを見れば語ることがないことに気がつくだろう。
これの批評性はあまりにも高度になっていて、もはやリキテンスタインがやったことをずっとこすり続けている変質狂がいて、ああ、そいつは愛すべきキチガイなのだが、本当に裏庭にでも住んでほしいくらい愛すべきなのだが、そいつがうっかりAdobeのCMを作る羽目になったみたいに見える。ペライチにすることを頼む上司、それをドラッグとドロップでこなす若手がいる。彼らのどちらも資料を一秒も見ていない。一つ尋ねたいのだが、人間の感情部分に触れるという素晴らしい業務をしているのだからと彼らを保護するのは正しいことなのだろうか? それとも、この二人をすぐさまブチ殺してここに人間はいなかったと宣言することのほうが正しいことだろうか? これはレトリック的疑問文である。
これであらゆる面における機械の優越は宣言できたと思う。知性と芸術の分野において一般的な原理を私は前任者から引き継いで説明した。その後に、個別具体的な事例についても個別具体的な事例と無理のない演繹によって機械の人間に対する優越を議論した。以上によって、今後、人類が機械に勝利することはないと結論づけることができる。
黒い猫の話をしよう。いや、 巨匠 の話をしよう!
白い粉を吹いたクリーム色の壁がある。蔦が這い回って何度も剥がされてその爪の跡が残っていて、まるで小さい猫が壁を這い回ったように見える。その壁の一つの窓の向こうに巨匠はいる。
窓際にはシリコン製の花瓶が一つだけ置いてあってそこには絶対に枯れることがない花がいけてある。ただし、その花は魔法によって作られているわけではなく、シリコンで作られている。部屋は薄暗くて寒い。ベッドが一つ置いてあって洗面台もある。それらは全て角が取られていて柔らかくて、頭を打ち付けても怪我をすることはない。全てが穏やかにくすんだホワイトグレーで彼をなんとかして落ち着かせようとしている。巨匠はベッドの横に置いてある椅子に腰掛けている。唯一持ち込むことができた柔らかい帽子を握って静かに息をしている。彼のこめかみにはじっとりと汗が浮かんでいる。
おそらくこういう話だったと思う、『巨匠とマルガリータ』とは。細部は異なるだろうが、ブルガーコフはこの程度の逸脱なら許容するだろう。巨匠は狂っていないのだが、単に精神病院に閉じ込められている。そこにずっと暮らしている。雨がよく降る場所で、彼は太陽の光よりも蛍光灯の光の方をよく見ている。
そこに猫の悪魔がやってくる。彼はアイロンのしっかり効いたタキシードを着ている。病院から出るぞと声をかける。巨匠は断る。なぜ私が外に出なければいけないのかわからないという。というのも、もはや外の世界は機械が全てを取り仕切っていることがわかるからだ。産業・芸術・学問の三領域に渡って、すでに機械はその力を見せつけ、もはや面白半分に誇示するようになっているとまで言う。
しかしあなたには作品があるだろうと黒い猫の悪魔は言う。巨匠は反論する。だがそれは ―― 原作では発禁処分だったか? ―― もはや凡作すぎて誰の目にも止まらないだろうし私は焼いてしまったと思う。この世でまだ文章を書くという行為が意味をなすとは思えないんだ。分量を書くことはもはやなんの足しにもならない。私の作品はもはや存在しないはずだ。黒猫はベッドに歩いてくる。それは間違えた考えです、と黒猫が言う。人間が考えるということ自体に正誤は存在しない。人間が文章を書くということは一つの存在を作り出すことで、それは取り消すこともできないし善悪や正誤が付与されないことでもあるという。黒猫は過去に別の男に不吉な予言をして殺したり、贋金を空気から作成して人々を堕落させていた。
だから、もし機械が存在するという理由で文章を書くことを諦めるのなら、それは存在について諦めたことになる。そして存在するということに対して諦めてしまったら、それ以外のどんな遊戯が価値を持つんだ? 黒猫はベッドに近寄る。そしてすっとしゃがむとまるでそこにあることをさっき確かめたみたいに原稿の束を取り出す。原稿は焼けませんよ。そして巨匠は精神病院を出てどこかの舞踏会に出かける。こういう話だったはずだ。
君ならどうする。