前提として愛は偶然

いかがお過ごしだろうか。ツイカスが慌てふためているらしい。ミシェル・ウエルベックの新作『滅ぼす』が出るとも聞く。以上の二点から、私はうれしくなっている。

突然、話を変えるが、子供のとき、親から本田勝一の『日本語の作文技術』を渡された。その中に、要するに変な誇張表現を使うなと書いてあった。それは私の中にあまりにも深く根を張っているため、このようなときに『喜色満面になっていた』などと書くことができない。喜色満面であるとはいったいどのようなことなのか、本当に私は喜色満面であったのか、この二つの条件をクリアするまで私は喜色満面であると伝えることができない。

私は無意味にこういうことを書いているのではない。ネットで流行っている文章を見たら、『小さくコクリと頷く君を、今すぐ抱き締めたくなった。』という本当にどうしようもない文章を見た。一つ目に、美的観点から見て『抱きしめる』と漢字を開くべきだ(というのも、『締める』という言葉には不穏な響きとエロチックな含意があるからだ)。そして二つ目に、『コクリ』と頷くことなどできる人間などいないからだ。書きたいことを漫画にした後、それをノベライズするように小説を書くことはできない。どの芸術にも固有の領域というものがある。


また話を変える。最近、知り合いの女性から「 いい人 を紹介してくれ」とチャットが来た。医者の友人が何人かいると私は答えた。身長と顔写真をくれと彼女は言った。私は発作的に『前提として愛は偶然である』という題の2000字の体験談(嘘)を書き上げ、彼女に送付しかけた。私は十分に理性的だったので、それを取りやめた。そして、「それは目録的な態度だ」という趣旨のことを述べた。「そんなんだから恋人ができない」と返信が(侮蔑的な絵文字 🥹 と共に)来た。この侮蔑的な絵文字は三つもついていた。これはあからさまな侮辱だった。この話はこれで終わりだ。

せっかく書いたので、噓の体験談を掲載しておく。改めて言うまでもないが、私はこのブログをうその日記として使っている。


前提として愛は偶然である

1995年のミシェル・ウエルベックは一つの観点を――いまだかつて誰も真剣に扱っていなかった観点を――提示しようとしていた。一つのシステムがある領域に広がっている。そのシステムの名前とは市場であり、広がっているのは精神と肉体の(一つにまとめたければ、愛の)領域だった。

もちろん、彼の前にも、我々の貪欲さがこのシステムの提供するメカニズムと合致して、適用されていると気がついていた者はいた。私ですら五人は挙げられる。例えば、スタンダールが『赤と黒』を書いたとき、彼はまさにこのことに気がつき始めていたに違いない。人妻について書くよりも、生娘の令嬢について書く方が読者は喜ぶのだ。そして、それは概ね、我々が人物を――その功績と身分ではなく――その肉体と精神をポケットに収まるくらいの語彙集に収めているからだと。きめ細かな肌。バラ色の唇。ほっそりとした首とふくよかな胸。まあざっとこういうものだ。

しかし、前任者たちはその直感をおおむね単に受け入れることにした。誰もが胸筋のたくましい男が好きで、尻の大きな女が好きなら、どうしてそれをメジャーの目盛りに対応付けてはいけないのだろうか? 彼らは自由恋愛という味のよい果実をあどけない貪欲さで喰らっていったが、それをまじめに質量分析器にかけようとは思っていなかった。そして2023年の我々は『タップル永久ゼロ円』というかなり滑稽な宣伝に出くわすことになる(永久にマッチングアプリを続けられるというのは、特典なのだろうか? それとも現世における餓鬼道なのだろうか?)

普通、ここから、世界で五指に入るフランス人作家がどのようにこの主題に取り組んだかが議論される。しかし、私はフランス文学の専門家でもないし、愛についての専門家でもない(むしろ、愛については私は 初心者 ( ビギナーズ ) だ)。私はそれほどぱっとしない男だ。ワンケーの部屋に住んでいる。毎月、床屋に行く。毎週日曜日は料理と洗濯、そして少しだけランニングをして過ごしている。ユニクロの服を着ているし、それに対して要求されればささやかな罪悪感も持てる。愛について語るには適格ではない。


 愛について語るのにサウナは最適な場所だ。一つには、サウナでは絶対に性的に興奮してはいけないという不文律があるため、我々の会話が適切な露骨さまで調整されるからだ。これによって私たちは愛と肉体的な快楽を切り離して議論することができる。いちおう言っておくが、性生活と愛の間にはそれほど強固な紐帯はない(さもなければ、私の最愛の人は私の左手だということになる)。加えて、サウナの中では声が10パーセントほど早く届くので、会話もそれなりに円滑になる。

 私の友人は公衆浴場のサウナでマッチングアプリの話をした。彼は山梨から遊びにきていた。すでに近隣で登録されている女たちはあらかた見尽くしたらしく、二週目に入ったのだと言っていた。私はマッチングアプリで同じ顔の女に何度も会うところを考えてみた。それはかなり『マトリックス』的な想像だった。自撮り写真を登録している奴はスルーしているとか、カフェで撮られた写真が多いとか、そういう話をした。成果は芳しくないようだった。たるんだ顔の中年が入ってきて、私たちは外で涼んだ。それは六月の珍しく晴れた日だった。またサウナに入って、八分間の愛の話を始めた。

 スリーサイズを記入する場所はあるのかと私は聞いた。ないと彼は答えた。おそらくそれを記入することも許されていないかもしれない。サウナのテレビで、くだらない芸人が合いの手を挟んだ。しかし、大きさがわかる写真があった方がいいだろうね、と彼は続けた。私は中学生のころを思い出した。校則を破って、短いスニーカーソックスを履いてくる女の子たちがモテていたが、彼女たちのくるぶしの魅力はその理由の一部でしかなかった。彼女たちがまさに校則をかいくぐれるというその事実が、彼女たちを魅力的にしていた。

 こう考えると、人を数値化することにまつわる不快さには我々はとっくに気がついていて、それは注意深く取り払われているように思えた。たった一つ、年齢をのぞいて。私は戦略を変えることにした。人を数値に還元することにおいては、彼との間には対立項目が立てられそうになかった。何かについて話すというのはささやかでその場限りの対立項目を作ることを含む。そうでない会話、単に同意と『個人の感想』だけの会話は、むしろ猿の毛づくろいに近い。私たちは議論の場所を外のベンチに移した。鳥が鳴いていて、彼はその種類を言い当てた。私はそれを確かなものだとは考えなかった。

 マッチングアプリで会った人とは打ち立てられるものは、次の二つになるだろう、と私は言った。一つ目に、すべてが合意ずくで、時間をかけて選んだ、冷静でしっかりした恋愛。そして二つ目が、「ああ、私はなんてすごい大恋愛をしていて、それをする私もまた同様になんてすごいんだろう」というもののだ。いずれにせよ、そこに偶然がかかわる余地はない。

「そして計画されたものは計画されたようにしか進まない――反復的な性交、取ってつけたような婚約、出産、お決まりのいがみ合い、そして離婚だ」

彼はしばらく黙っていた。つぴつぴつぴつぴと鳥が鳴いていた。我々はあの鳥は不愉快で、道徳的に間違っている、というようなことを述べた。それから彼は、
「さっきのは本当に正しいと思うか?」
 と尋ねた。計画された出会いは、その始まりが計画されていたという理由だけで、本当に計画されたようにしか進まないのだろうか? 目標が精緻に定められ、そしてその目標を狙って適切なタイミングで打ち出された砲弾が、全く予期せぬ理由で、誰も想像していなかったことを引き起こす――これを誰が否定できるだろうか。もし、ある出来事がある意思をもって生み出されたとしても、それがなぜ違った意味を持たないでいられるだろうか? 姉を愛した男が、何かの作用によって妹と結婚するようになることは、本当にないのだろうか?

 私はその疑問に答えることができなかった。確かに、それは可能性としてはありえた。計画的に織り込まれた布が徐々にほつれていき、絡み合った繊維へなることも十分にあり得ることだった。だから問題は、それが実際に起こるのかどうかということに尽きた。やってみろ、と私は言った。彼は何も言わなかった。