モルディオ家のリタ

久しぶりにブログを更新する。明日もするだろう。

文章をまた書き始めている。ネットで私ではない誰かが、一度やめた小説をもう一度書き始めていた。この停止と再開は何度も繰り返されてきたと注意した後で、彼女は、「自分のいる場所に錨を沈めるように小説を書くのをやめていた」と言っていた。これはなかなかいい言葉だったから、ここで改めて書いておく(そしてリチャード・ドーキンスの顔を思い出す)。

しかし、問題は、その錨を下ろす海が、一体どのような海なのか――どのような海水で満ちていて、そして陸からどのくらい遠いのかということだ。美しく晴れた五月の朝まだき、一人のなよやかな女がこぎ出すような海なのだろうか?



モルディオ家のリタ。

深夜の細切れになった時間を使って テイルズオブヴェスペリア をやっていた。

エステリーゼというヒロインが本当にひどくて、何度も「このアマを見捨てよう」と主人公であるところの男、ユーリ・ローウェルに叫んでいた(私は没頭する方だ)。このアマを見捨ててもゲームにクリアすることはできる。実際、このゲームはバランスがありえないほど崩壊しており、犬のキャラクターが完全無敵技を連発できるため、犬だけでクリアすることが可能だった(これは示唆的だ)。

話を戻そう。ユーリ、エステリーゼは二つの意味で運命の奴隷だ。その女はゲームの世界の運命に翻弄されているだけじゃない。そいつはゲームを定められたように運航しているだけだ。そいつが迷っているのは、そいつが迷うように運命づけられているからだ。迷い星と迷い猫を混同してはいけない。ユーリ、そいつがお前に何をしてくれた? そいつのお陰で世界をめぐることができた? 君に真実を伝える。それらはシーンを進めるためだけの逡巡、物語を動かすためだけの善意、そしてユーリ、お前を次の街に運ぶためだけの蛮勇だ。そいつがお前に渡したのはそういう規則的な運命だ。彼女の混乱は記録されるべきものを我々に見せるために作られたものだ。

こいつは見捨てよう。ユーリ、お前にはもっといい女がいるじゃないか。その世界を動かしている仕組みに興味をもっていて、たった一人で研究所にこもっていた女の子がいるだろ。

そいつは運命から切り離されている。第一、このゲームは――2008年のゲームにおいてエンディングを避けることは絶対にできない――その少女がこれまでの15年間を丸ごと全部ささげてきた研究分野とやらを、その素材から完全に消し去る。だからその少女、お前がいままさに手を振って、「またそのうち会うことになるんだろうな」とかほざく子供は、おそらくひどい孤独に苦しむことになる。

考えてみてほしい。彼女がやってきたことはすべて、完全な無に帰したのだ。彼女はそれについての知識をずっと集めてきた。太陽と月の監視を受け続けながら。誰にもなじめずに、同年代の子供たちがひまわりとか水遊びとか初恋の少年の名前に割り当てている脳の場所を別々の専門用語に明け渡して、たった一人で、ずっと部屋に閉じこもって。(彼女は彼女の研究対象を『 魔導器 ( ブラスティア ) 』と言っていたが、それは未来において現れることが絶対にありえず、そして過去は原則的に繰り返さないのだから、その名前は記憶される権利を持たなかった。)

慰めはいくらでもある。地頭は裏切らないとか、鍛えた思考力はどこでも役に立つとか、そういうクソくだらないことは気が狂いそうになるほど見つかる。ガルド(注:通貨)を払えば男娼に腰をさすられながら耳元に好きなだけささやいてもらえる(彼女はそれを正当化する理論ならいくらでも知っている)。もしかしたら、構築した理論からまだ使えそうなぼろきれを拾い上げることもできるかもしれない。リタ、簡単な概念から始めよう。開集合、連結性、連続性――ずっと古い記憶を覚醒させて、硬くなった道具のさびを取って、また新しい領土に進んでいけばいい。まだ彼女は若くて、望めばきっとどこにでも行ける。みんなもきっとそう言ってくれるだろう。それに、リタには今や仲間がいる。ははは。リタには今や仲間がいる

でも彼女は気が付いてもいる。自分の人生はそれにかかっていたのだし、自分の地位も特権も、自分を際立ったものにしてくれたもののすべてが今や、世界からきれいさっぱり落ちてしまった。そしてそれはおおむね避けられないし、喜ばしいことでもあった。自分の手のひらは自分が思っているよりもずっと汚れていた。もちろん、無辜の学者ではないことなんてずっとわかっていた。そして程度の問題は――実際には主観的な問題でしかないこともわかっていた。彼女はそれを言う相手を探して、近所の猫かスープ皿に浮かぶ自分しかいないことを悟った。

次の日、彼女は部屋を出て、昔の同僚――昔、自分がコケにしていたトロくさいやつら――のところに行く。彼らは彼女をぎょっとした目で眺めて、それでも椅子くらいは出してくれる。そこには確かに親しみのようなものもあった。しかし、そこには、リタがいきなり発狂して自殺するのではないかというおそれも感じ取れた。また、ついにこの女も自分たちと同じ場所に来たのかという仄かな侮蔑も感じることができた。誰かが彼女の肩に手を置いた。そして彼女に議論に参加しないかと尋ねる。彼女は頷く。

彼らと技術的な話をする。自分がまだ新しい概念を受け入れらることを確かめる。歯車や運動の変換についてけることもわかる。それが自分を楽しませることもわかる。しかし、同僚の一人がバカバカしい意見を言ったとき、自分が「バカっぽい」と返事をしても、そのアイディアは却下されずにしばらくはテーブルをさまよっていた。会話の流れは順番に回ってきて、彼女がそれを無視して話し始めると、誰かが小さく、しかし威圧的なやり方でそれを止めた。

夜の帳が降りるくらいで彼らは帰っていった。リタはしばらく一人で資料を確かめてから、誰よりも最後に部屋を出た。ドアを閉めるとき、彼女はしばらく部屋を眺めた。自分が座っていた椅子がどれかわからなくなっていたことに気が付いた。

その日の夜、彼女は一人で家の屋根に上って、そのまま縁に腰を下ろす。去年の今頃よりもずっと寒いと思う。首筋を擦って、少しでも冷えないようにする。横を見て、なじみの猫がもはやそこにいないことを――うすうす感づいていたことを――確認する。ここから落ちたら死ぬんだろうなと思う。街の光がもはや自分にはなじみのないやり方で光っているのが分かる。家々から流れる炊事のにおいが変わりだしているのが分かる。月の瞳が自分ではない誰かの監視に移ったのが分かる。おそらく私よりも優れていて、きっと世界の作り方を丸ごと変えてしまような人がいるのだろう。ざらざらした雨どいの縁をなぞる。彼女は、ばかみたいにでかい本を取り出す。それを膝の上で広げてぱらぱらとめくる。もはや現実世界の何とも対応していない言葉たちを口に出す。でも私には仲間がいると誰かに伝える。リタモルディオと自分の名前をささやく。私には仲間がいるとつぶやく。その事実が自分を救うのを待っている。



のちに調べたところによると、リタ・モルディオはその目標であったリゾマータの公式とやらを発見し、おもえらくは幸せな人生を送っているとのことだ。これはなかなか気分がいい。