サンポールのソロモン的解釈
2018-04-29日記
『ゼンデギ』を読んだ。なかなかおもしろい。二冊連続で、ここに書くくらい面白い本に当たるのは、めったにないことだ。
ところで、米には六柱の神が載るという。ソースはない。そもそも、『米には六柱の神が載る』ことを正当化しようと思ったら、まず神の存在を正当化せねばならないのではないか? 違うか。ともかく、我々はその様なところには立ち入らないつもりだ。これはあなたに認めていただこう。
さて、一方で、サンポールには三柱の神が宿っている。これはサンポールそれ自身の名前、そして名は体を表すところから、非常に自然な形で演繹される。
私はいつも、ソロモン七二柱の話を聞くたびに、それの依代の準備はかなりのものがあったのではないかと思っていた。もちろん、彼はブラスに72柱を閉じ込めおおせたのものの、そこから特定の一柱のみを取り出さねばならぬとしたら、もちろん、それぞれの独房を作らざるを得まい。米の部屋は広すぎて、ソロモンはアモンを呼び出すときに、バルバトスとストラス、サレオス、マルコシアスにオリアスまで一緒に呼び出さなければならなくなる。ひどいねこれは。
一方で、七二個の真鍮器は多すぎる。ここで、彼はサンポールを使ったのだろう。72 = 3 * 24。無論、この24は、2+4 = 6であり、この6という数は、旧約聖書でヨセフの前に生まれた男の子の数とぴったり一致する。これはすなわり、二四本のサンポールが、まさにダンからゼブルンまで続く六人を神がヨセフに従わせたのと同じく、72柱の悪魔がソロモンに従っていたということである。
これはかなりまずい冗談だった。
ところで、これから嘘をつく。最初から最後まで嘘だ。これは、子供の時、精神病院の患者と、私が親しかったときの話として、作ったものだ。
彼は三十五歳くらいだった。彼を女にしようかとぼくは考えもしたが、そうするには、この話には、いささか淫靡なところが多すぎた。それに、心の病を抱えた女性には、あまりにも特筆すべきことがなかった。
さて、そろそろ私に石を投げ終わった頃だと思う。予備知識として、単に受け入れてもらいたい事実を挙げておこう。彼は札束を伴侶にしていた。
花畑病院という精神病院だった。1955年に、焼け野原になった街から逃れてきた、町医者の角谷が設立した。彼は妻を救いたいと思っていた。1945年7月6日の甲府大空襲――『もう一つの七夕』――が運んできた焼夷弾は、角谷の妻の精神をも焼き払っていた。坂口安吾も彼の救いにはならなかった。
当時にしては瀟洒な造りの病院において、何が行われ、そして何が行われるべきだったのに行われなかったかは、私は寡聞にして知らない。ただ、そこでは、沢山の患者が治るか、または治ったように見えた。もっとも、病院とは、病気の治療と、症状の隠蔽という、二つの異なった理念に支配された施設であることを考えると、この曖昧さを非難することはできない。
時間は下って、彼――瀬尾氏とでもしようか?――が生まれたのは、ちょうど平岡公威が、築地に行った帰りに、自分の腹をさばき――要するにマグロと張り合いたかったのだ――うっかり死んでしまった日だった。瀬尾氏は、このことを、誇りに思っていて、ぽんぽんと、自分の隣りにある札束を撫でながら、「俺には継承した文才があるんだ」言ったものだった。ただ、瀬尾氏は時折、自分は乃木希典が死んだときに生まれたと言ったこともあった。
要するに、彼は頭が悪かったのだった。もしくは何度も生まれたことがあったのだった。
私と瀬尾氏が会ったのは、小学校三年生のときの校外学習だ。帰宅許可が出されていて、電気で少し麻痺した脳を揺らしながら、彼は、伴川沿いをぷらぷら歩いていた。すでに、彼の嗜好はなかなかユニークになっていて、彼の手には、ところどころ変な染みの付いた、変な臭いがする万札の束が握られていた。
私たちは、伴川の水がどのくらいきれいか調べましょうという、せいかつかの授業で川の畔に来ていた。みんな、暑さを逃れるために川の水を被ったり、ちゃんばらをするためにすすきを薙ぎ払ったり、単なる快楽のためにヤゴを屠殺したり、単なる快楽のために猫を生活排水パイプに押し込んだりと、子どもながらのあどけなさでもって、ソドムの市ばりに悪徳を栄えさせていた。
ここまでならば、単に、我々の横を、瀬尾氏が通り過ぎるだけで済んだ。
しかし、事態を悪化させたのは、我々の担任であった松田桃子先生が、見目麗しい、二十三歳の女性教諭だったことにある。要するにグッとくるスケだったのだ、松田は。松田の給食をつまみ食いすると初潮が来る、というフォークロアが、私の学年の女生徒の間で流布していたことからも、彼女が、どれほどグッとくるスケだったのかは察することができるだろう。精通については、もはや言うまでもない。
そして、瀬尾氏は、小さい尻を振る小生意気なスケを見て、自分の札束の優位性を納得させずにはいられないタイプだった。
我々も、瀬尾氏も、もちろん松田先生も、誰も悪くは無かった。だが、この世には、一切の悪人がいないにもかかわらず勃発する、トラジティというものがある。私は瀬尾氏の目つきが怪しいことに気が付き、桃子に向かって、「おい、桃子、【差別的発言により検閲。詳細はNTTネットワーク管理局までお問い合わせください】」と言った。
これが悪かった。
色々あって、松田先生は札束で頬を叩かれ、私は、交番の奥のベンチで、瀬尾氏と、かなり心温まる会話をかなりすることになった。わたしはかなり謝った。彼はこの謝罪がかなり気に入ったらしく、私は毎週、彼の病室に行き、かなり懺悔を行うことになった。
毎週木曜日、私は彼の病室を尋ねた。病院の中の人は、みんな、とてもまともそうに見えた。彼の部屋は、三階の西の突き当りにあって、オレンジ色の午後の光に満ちあふれていた。花の匂いがした。
彼の病床の横には、小さなエクストラベッドが置いてあった。親戚の子供が寝るようなやつだ。白と青のストライプだった。そして、その上には、1万円札の束が、何個も何個も積まれていた。それは複雑な配置をしていた。
彼はそれのことを、自分の伴侶だと説明した。私はそのことを受け入れた。ここで謝罪するのは失礼か、というのも、あなたのパートナーにとって、耳目に心地よい話ではないからだ、と私が尋ねると、彼は笑って手を振った。
「お金は嫌なことを聞かせると増えるんだよ」
私はそのまま謝罪を続けた。
彼の治療費、入院費は、全て彼の伴侶から出ていた。私が病室に入るたびに、彼の伴侶は、アラル海みたいに、少しずつ減っていった。
彼は札束を全てばらして、ひと束を50枚にして、また伴侶を作り直した。私は、少しだけスタイルが良くなりましたね、と言った。彼はありがとう、と言った。私はその伴侶をじっくり見て、それの股の部分がどこにあるか知った。ひどい臭いだった。
ぼくが学年を一つ上げるときには、彼の伴侶は、もう、心臓と頭しか残っていなかった。彼は、ぼくの進級を、喜んではくれた。おめでとう。ありがとう。私達は黙って、彼のパートナーを見おろしていた。これが、ここまでゆっくりと削られてしまったことに、ぼくは覚えなくてもよい責任感を覚えた。
その日はひどく雨が降っていた。僕たちはくさくさした気分で、それを撫でた。まだ死んでないさ、と彼は呟いたが、それは死ぬことが分かっているものについて言うときの言葉だった。
「崩そうと思うんだ。1000円札に」
と、彼は小さな声で言った。それは危険なことだった。僕たちは分かっていた。しかし、彼には分かりすぎていた。これ以上待っていたら、いくら崩しても、かつての姿には戻せなくなるだろうことも。
外出できない彼の代わりに、わたしが換金を請け負った。三週間もあれば、全ての1万円札は、それの十倍の千円札に化けた。そして、僕たちはそれを配置していった。彼はどこに何をおけばいいか知っていた。鉛色の6月の日だった。とても寒かった。彼は、札で手のひらを切ってしまった。傷をなめて、こんなに痛いものなんだな、と彼はつぶやいた。大切に思うということは。
僕たちは、完成したそれを眺めた。それは小さなベッドの上にばらまかれた札束だった。私は彼を見た。彼は満足しているように見えた。少なくとも、ぼくはそう思いたかった。
しかし、その日から、彼が、以前のように、札束を撫でることはなくなった。おれは、かつての10倍の速さで小さくなっていく、ベッドの上のそれが、何かの力によって保全されることを願った。そうでなければならなかった。なにか嫌なことを言おうとした。そして、その伴侶を増やそうとした。しかし、私は嘘でもそのようなことを思いつけなかった。
彼はある日、もう来なくていい、と言った。私は彼の目を見た。黄色い目だった。そして頷いた。エクストラベッドの上には、あと数束しか残されていなかった。消費し尽くしたんだ、と彼は言った。全部消費してしまったんだ。
ぼくは頷いた。そうするべきではないと知っていた。彼があれらにしたことは、消費という言葉ではなく、もっといい言葉があるはずだと私は願った。しかし、あったところで何になるだろう? 言葉は隠蔽でしかなかった。ベッドの上で行われた、全ての暴力と剥奪の。それは取り返しがつかないことだった。
この話はこれで終わりだ。