池袋はマジで怖いが勇気出して映画館行って『白爪草』見てこいオタク今行けオタク

前書き

更新が途絶えていた。私が忙しかったからだ。もちろん、諸君らには何の関係もないことだ。ところでU-temo先生の新連載がスタートしている。『今日はまだフツーになれない』だ。面白いので読もう。


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あらすじ

今日は電脳少女シロ主演の『白爪草』および東雲めぐ主演の『人魚姫』について話す。要するに二人とも頑張っていて、しばらくは楽観的になってもいいだろうと私は思っている。『四月一日さん』や『バーチャルさんは見ている』や他の作品に紙面を割けないのは残念なことだ。見てはいるのだが。

末尾に、本稿に含めることのできなかった記事の断片(『くず肉』)を置いておく。これは主となる原稿のスコープから外れるため切り離されたが、指摘しておくべきだと思ったことを書く。

また、このブログは本当に質が高く、本稿は多大な影響を受けている。


この原稿に対する関係企業からの金銭的な援助は一切ない。また、ネタバレに関しては曖昧な立場を取る。『シックス・センス』のブルース・ウィリスは実は死んでる。『鋼の錬金術師』に出てくるセリム・ブラッドレイはホムンクルスである。私に容赦がないとお分かりいただけただろうか。


内容

形式と内容

最初に思いついたのは我々の遠き祖先ではないのかもしれない。人類の家系図をさかのぼっても、壁画の描き手や大捕物の語り部の始祖が出てこないということも大いにありえる。

一方で、壁に手型をつけたり伝承を伝えていた頃から、もっと新しい技法はないのか?と我々は思っていたに違いない。証拠はない。単に私が確信しているだけだ。進化心理学者は性選択の理論を持ち出すかもしれない。

実際、絵画の世界では「網膜に投射されたように描かなくてもいいのではないか?」という疑問が呈され、そのたびに新しい領土が開拓されてきた――16世紀のマニエリスム、19世紀の印象派、20世紀のキュビスムだ。小説の世界でも、語り手の立場をめぐる冒険が繰り返されてきた。語彙を厳密に管理する静謐で洗練された文体と、くだけたダルい文をぐっちゃにして書くという発明も再発明され続けている。


映画は比較的歴史の浅い分野であるにも関わらず、瞬く間にすさまじい進歩を遂げた。もちろん、厳密な歴史学の方法もあろうが、ここで、合成という視点を取ってみよう。

世界最初のストーリー映画『月世界旅行』から、映画はどのように嘘のの世界を合成するのか、を一つのサブテーマとして抱えてきた。その嘘は、『やくざが沖縄でドンパチの抗争をする』(『ソナチネ』)という小規模な嘘から、『人類はコンピュータに支配されていて、仮想現実を見せられている』(『マトリックス』)という中規模な嘘、そして『おもちゃが意思を持って助け合う』(『トイ・ストーリー』)という大規模な嘘まである。

そして、この嘘を合成していく間に、無数の技術が発明された。ヒッチコックがスリラーの技法に及ぼした影響は計り知れない。ピクサーのZバッファといったソフトウェア技術もそうであるし、GPUがサポートするレイトレーシングといったハードウェア技術もそうだし、歩く人間の『歩調は揃えてはいけない』という認知科学上の事実もあろう。 『スター・ウォーズ4新たなる希望』のミニチュア撮影から20年と少しで『スター・ウォーズ1ファントム・メナス』のレースシーンが撮影されたのだ。 ここには驚嘆すべきものがある。

一方で、この技術の潮流に、VTuberが何の寄与を果たすのだろうか? これまでもフルCGの映画はあったし、オタクの妄想が公式に輸入されて映画に使われたこともあったし――艦これの悪口は言わないでください――キャラと俳優が同一視されることも多々あった。実際、『シックス・センス』のマルコム・クロウと言われても誰だよそいつマジって感じだろう(ブルース・ウィリスのことだ。ちなみに幽霊である)。

そう考えると、VTuberの映画なんて、とりあえずアセットが用意されてて初期投資がちょっと減って便利、くらいの利点しかないのではないか? 単にオタクが「うー」「Kawaii~」「色と音があって10兆点」とか口を開けていただけではないのか? 本当にきつい。しかも池袋と来た(編集注:『白爪草』は池袋HUMAXシネマズで公開されていた)。街行く人の服の色と髪の色が極めて個性的だ。どういう神経してたら緑色にしようと思うんだよ。ホントこういうの石田衣良が全部悪い。一生ホームレスの骨折る小説でも書いてろ。


翻って、演劇――特にミュージカルに限定するが――においては、変身という特徴に、映画における合成と似たものが見られる(私はほとんどミュージカルを見ない。劇団四季に年2回行く位だ。なので、ここら辺は相当適当だ)。

例えば、『カモメに飛ぶことを教えた猫』や『CATS』を思い出してもらえばいい。確かに、歌と踊りが中核を占めることには同意するが、仮装による変身も間違いなくミュージカルの中心要素の身分を持つだろう。

このように思うと、VTuberがミュージカルをやって何が面白いの、という疑問が浮かんでくる。ちょっとすごい特殊メイクと何が違うの? 3DCGなら『アナと雪の女王』とか『ズートピア』とかがあるじゃん、ポリゴン数も多いし、ピクサー最高! さすがジョブズ! ジョブズはすごい! ビル・ゲイツとスティーヴ・ジョブズ、情報科学の将来を語りあう。


要するに、別にバーチャルな人を用意して映画を撮ったり、演劇をやらせたりして、何が楽しいの? という問題がある。シロちゃんは可愛い。めぐちゃんは可愛い。それはいいよ。でもだから何って話だ。何がそんな面白いの? 可愛いならいいってんなら、YouTubeで柴犬の動画見てりゃいいじゃん。

疑問を正確に言い換えよう。私は何かが違うと思ったのだが、一体、何が違ったのだろうか? 単に私が「シロちゃんはお尻が小さくてまんまるのだいふくなんじゃあ……」と言いだけだったのか? それとも、私はとりあえず流行のものに乗っとけやっとけなカスなのか? 実は私の見てきたものは、実際はマージナルな改良にすぎなかったのか?



コピーを取りたいのでコピーさせていただけませんか

人は複製できないという原理がある。あなたはどうやっても複製できないし、私もそうだ。うり二つの双子などは存在しない。少なくとも、私の知っている双子は、それぞれが十分に異なっていた。それは我々の経る人生が複製できないからかもしれない。何にせよ、我々は人格の存在を信じるし、それがある人の個性であることを受け入れるし、人格がcp コマンドで複製できないことを「そらそうよ」と認める。

一方で、キャラクターや物品の中には、好きに複製できるものがある。

ユニクロに行けば、同じ服が死ぬほど買える。無印良品に行けば量産される丁寧な生活を享受する十分な資格を――いくばくかの金銭と引き換えに――手に入れることができる。アナもエルサも複製することが可能だ。アセットとして存在する。MMDやちょっとエッチなソフトウェアでは、版権キャラに似たエッチなキャラを作って共有する文化がある。

バーチャルアイドルはこの二つの複製可能性の間に立っている。確かに、我々は3Dモデルを手に入れたり、踊らせたりすることはできる。のら様は量産版のら様を配っているので、この点ではのら様は完全に複製ができる。一方で、のら様が二人といないこともまた事実である。MMDモデルが配布されていたとしても、電脳少女シロが一つのまっとうな人格であり、ちょうど俳優その人であるようなことを――法律上の人格と認めるかはさておき――我々はナイーブに認める。

もう少し言えば、『電脳少女シロ』という芸風の人がいることを私は認めるし、その人が『白爪草』の俳優として活動することを認める。ちょうど、ブルース・ウィリスが存在することを認めるし、さらにそれが『シックス・センス』で死んでるおじさんの役を務めることを認めるのと同じようにだ。おそらく、読者諸兄も同じだと思う。

そして、映画を見て「シロちゃんはかわいかった」と私は言うのだ。これと『アナと雪の女王』を見たときの「エルサがかわいかった」という言葉を比べてみると、何が起こっているか知ることができよう。

しかも、『白爪草』において、シロは双子の役をやっていた。つまり、シロは『蒼』と『紅』という役に複製され――髪飾りなどのマイナーチェンジがどちらかに加えられ――両親を殺害したのはどちらで、そしてなぜなのかについて語り合っていた。

これとそれまでの表現との間にはかなりのギャップがある。私たちはどちらの双子キャラのどちらがシロなのかを決めることはできない。というのも、シロの外見は完全に複製できるので、こちらが本物で、こちらはCG、などと言うことはできないのだ(『ターミネーター:新起動/ジェニシス』でのアーノルド・シュワルツェネッガーを思い出そう)。かつまた、どちらもシロちゃん、ということもできない。その言明は、人が複製できないという原理に抵触する。

おそらく、私が「おっやってるじゃん」と思ったのはここだ。これは『ガンダムSEED』において、フレイ・アルスターとナタル・バジルールの声優が同じというレベルではない。シロちゃんは二人になって演技をしているということであり、これはこれまで見られなかったことだろう。

例えば、人を複製するという観点から言えば、『マルコヴィッチの穴』という作品がある。しかし、これはCG技術によって合成されたものであって、映画を撮影するときになって、いくばくかのコストを払うことによって可能になったものだ。つまり、前提として人は複製できないという原理があり、それを破るを導入するためにCGが使われている。

対照的に、『白爪草』においては、シロちゃんが二人の役を一人でできるのは、完全にただで手に入っている。ヴァーチャルアイドルを使いましょう、と決めた時点で、もはや嘘とは見なされない要素として、演者の複製可能性も手に入るし、しかも複製してもそれぞれがその人であることもキープできる。

それって何が嬉しいの? という疑問にも『白爪草』は答えている。ストーリー中盤で、蒼と紅がお互いの服を交換する、そして二人の生活も『交換』する、というシーンがある。そしてどちらかが「どっちもよく似てるからバレるはずがない」と主張する。

これが実写だったら、我々はその欺瞞にたちどころに気がつく。CGを使っていたら、「ああCG使ってんだな」と嘘に気がつくし、非常によく似た双子であっても「バレるやろw」と断定できるからだ。実際、双子が入れ替わりのトリックを実際に使っているのを私は見たことがない。

しかし、『白爪草』における入れ替わりの説得力は極めて高い。ひとたびシロがやる映画であることを受け入れると、たちどころに入れ替わることができることも納得しなくてはいけない。これは――VTuberを起用することによって――これまで「嘘をつきます」といってごまかしていた部分を、全く何もすることなく処理できるようになったことを意味する。

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一方で、ミュージカルはどうなのだろうか?

東雲めぐがやっていた『人魚姫』は数回行われ、全てが生配信の形式だった。我々になじみのある『人魚姫』のまた別の変奏とでも言うべき台本が進行していた。

確かに、改良している場所もあった。それは例えばVR空間でやることによる視点の自由さだ。我々は好き勝手な場所を眺めることができ、演出家がスポットライトを当てても、別にそこを見る必要は無かった。この自由さがミュージカルと映画を隔てるものでもある。また、人魚になる/人になるという 変身 がかつてないほど徹底的に行えたという点もある。つまり、3Dモデルを改変することにより、本当に尾ひれをつけることが可能になったのだ。話に尾ひれは付いていない。

しかし、私にとってはその変更は些細なことに思える。正直に言えば、上記の二点の改善は、単なる輸入を行っただけに思える。つまり、今まで他の分野でやっていたものを導入したり、鉄でやったものを銅でもやった……という様な発想に思える。

では何が面白いのだろうか?――私は、ミュージカルもまた複製できないものであり、その『複製できない』という区別が曖昧であるところを突いてきたのだと考えている。

つまり、よく演劇をさして「演劇はやる人・場所・見る人がないとできない、一度きりの芸術なんだよ」と言われることがあるが、この『一度きり』というのが実はもっと腑分けできるものなのだ、と指摘したところに面白さがあると考えている。

確かに、ミュージカルは一度きりだ。幕が開けて、音楽が鳴り始めたら、基本的に止めることはできない。最後までやりきらなければいけない。台詞を忘れることもあろう、音を外すこともあろう、照明の具合がおかしくなることもあろう、かと思えば、練習では不安の残っていた部分が完璧にできることもあろう。ホールの音響が自分の声を受け止めてくれることもあろう――しかし、それは役者にとってだけのことだ。見る者にとっての複製不可能性というのは、単に自分が見た回がたまたまその一度きりであった、というレベルの複製不可能性だ。この二つの『一度きり』を共有するのは――『客席と通じ合う』という欺瞞的表現を認めたとしても――ごく一部の人間だけだ。

多くの観客にとって、演劇の『一度きり』は押しつけられた複製不可能性だ。観客に一度きりの劇をどのように進めるか決定権はなく、どのように見るかの決定権があるだけだ。ビデオカメラで撮られた演劇の評判が『実写版進撃の巨人』並みなのは、その決定権までを奪うからだと私は考える。

では、東雲めぐの『人魚姫』は何を与えるのだろう? おそらく、私はあのミュージカルから、再現できるミュージカルの体験の萌芽を見て取った。これまでは見る方もやる方も一度きりしかできなかった演劇は、3DモデルがVR空間で行うことで――それらは全て再現可能であるから――複製が可能になる。

それはビデオカメラで撮られた演劇とは質として異なる。それは体験の複製が可能であり、しかもどのように見るかの決定権を残している。私たちはめぐちゃんの足下に注目することもできるし、歌に集中することもできるし、初演と千秋楽を比較することも――オーバーレイして体験することまで――できる。それらは今までできなかったことだ。

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終わりに

VTuberの映画も演劇も、一見すると、オタクがかわいいかわいいとかほざいて、その後Twitterの鍵つきアカウントでエッチな画像を収集してるだけに見える。マジオタク最悪だな。本当に考えた方がいい。

しかし、どのオタクもオタクなりに感動するところはある。映画館を出たり、幕が閉じたりした後で、「なんかヤバいもの見ちまったな」という気分にもなる。それはおそらく、彼ら彼女らが、『人の複製はできない』というルールを突然破ってくるからでもあるし、『体験の瓶詰めはできない』というルールを平気で無視するからでもある。

私が本当に嬉しいのは、これら領土の拡大が、領土の拡大を目的にしたものではない、というところだ。「このルールを破ろう」と思ってルールを破ることのなんと醜悪なことか。

もちろん、細かい部分について語ることは本当に多いし、固有の瑕疵というのもたくさんある。モデルの動きは没入感をときおり損ねてしまっていた。例えば、『白爪草』においては、瞳のハイライトが眼球と独立して付いているため、まばたきするたびに瞼の上に光が置かれてしまっていた。このようなディテールの不完全さは、そもそも実写なら何の問題も無いのだった(現実は無限に細部がある)。

ただ、私は最初のトライは寛大に見るべきだと思っているし、少なくとも芸術の幅が広がっていくことには前向きな気持ちでいる。芸術の領土は貪欲に広がっていたし、これからも広がると私は信じている。やっぱりめぐちゃんシロちゃん最高や! みんなも見にいこうや!



くず肉リスト

これは本文に含めようか迷って、迷ったら削るの原則によって削られた文章の破片である。

文章という容赦の無い複製

文章は本当に全く容赦が無い。文章は複製可能性を極限まで要求する。それは『文字が書ければ何であれそれに書き写せなければならない』というレベルにまで達している。木簡、パピルス、羊皮紙、石版、紙、ディスプレイ、点字、オーディオブック。日本語から英語へ、フランス語へ、また古代ギリシア語から現代の日本語へ。

この過程で、書き写せない全ての物は完全に放擲されるか、さもなくばその文章は一級品とは見なされない。ドストエフスキーが今もって頑丈なのは、それが媒体を取り替えることによってほぼ傷を受けないからだ。おそらく、その内Brain-Machine interfaceを介しても文章が伝えられるはずだ。これは伝えられる文章が出てくるというのではない。これはBMIで『カラマーゾフの兄弟』が読める時代が来るということだ。

文章を書くことは極めて簡単で、それ故にすごい文章を書くことが極めて難しくなっている。これまで私はかなり楽観的に書いてきたが、それは私がろくに映画とか演劇とかを見ず、「上智の比較文学科の女がまた『ローマの休日』で卒論書いてるよ、とっととくたばってくんねえかな」くらいのスタンスで接してきたからに他ならない。小説は本当に厳しく、本当に終わっている。バーチャルアイドルの小説もいくつかあるし、一通り目を通しはするのだが、常に激憤明神(CHK)になって着地即土地破壊している。

別に文章を書くことは中心主題ではないのでカット。


ストーリーの望まれた軽さ

ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』という考え方はクンデラ以外の小説家を当惑させた。

クンデラは、数多くの哲学者たちが物事を大雑把に言って重さと軽さに分類して来たと言った。悲劇は重さであり、喜劇は軽さである(逆だったかもしれない)、死は重さであり、生は軽さである……という風に。アリストテレスの時代からだ。物事は軽いものから重いものに行くのか? それとも重いものから軽いものに行くのか? そして、軽いことはいいことなのか?

(一応言っておく。私にとって、『存在の耐えられない軽さ』が残したのは3つだ。1つ、ボヘミアにおいては、水道管工が洗面所で排尿を行うのは当然視されていた。2つ、全ての希望がなくなり、既に希望することすら無くなってからも、人生における善はある。3、それは犬である。)

ヴァーチャルアイドルの世界の基本的な教義は軽さだ。身体には重量がなく(いや、少しはあるか)、複製は可能だ。そして、語られる言葉たちがシリアスになることはめったにない。ホラーや死と言った、重いものは、ほとんど全てゲームの形を取って彼らの前に現れる。しかも、その恐怖や死が直接的に扱われることはほとんど無い。だってゲームでしょ。こいつちょっと殺しとくか。このキャラ死ね! 

私は、ストリーマー一般に固有の瑕疵としてこの軽さ、言うなれば押しつけられた軽さとでも言うべきものがあると考えている。StylishNoobが無職の頃を『最強』と言っている配信でも分かるが、配信者は徹底的に軽くあることを求められる。それは身の回りの全てのものを浮揚させる。

『人魚姫』も『白爪草』も軽さは中心教義であり続けていた。サスペンスに区分される『白爪草』が軽さを持つのは、一見、非直感的に見えるが、終盤に行くに従ってどんでん返しが多くなり、人がガンガン死ぬので、さすがに『日常・笑い』に分類したくなってくる。現実においては、1万人殺してからは軍記物なのだが、フィクションにおいては3人目殺してからは喜劇である。

スタヌの配信を見直したら予想以上に面白く、まともに文章が書けなくなったのと、クンデラを出すのはちょっとインテリすぎたので削除。


ビートダウンとコントール

有名な話に、『どちらがビートダウンか?』という話がある(日本語訳はこちら)。 これはカードゲームにおいて、どちらが攻撃的になっているか、どちらが攻めているかを把握しないと勝てないという議論であり、概ね正しい。多くの対戦ゲームにおいても、『今、どちらのターンなのか?』ということがよく言われる。将棋でも囲碁でもストリートファイター5でもそうだ。

おそらく――特に創作における――敵対的な会話もこの議論が適用できる。今、会話にいるキャラクターのうち誰がビートダウンであり、それはなぜかを明確にすることは、会話の流れを定め、そして会話をする人物の行動を形作る。これは映画のような、短い会話が好まれる形式においては重要な作業だろう。

『白爪草』では、敵対的な会話においては、この「どちらがビートダウンか?」が極めて明瞭に書かれている。そして切り替わりのシークエンスが強調され、役割が交代する。

具体的には、紅と蒼が最初に出会うシーンから、紅が剪定ばさみを振り上げるシーンまでは、常に紅がビートダウンの役目を果たしている。蒼は要所要所で強く否定したり、逆に聞き返すことで巻き返しを図るが、会話の主導権は動かない。次の『和解』シークエンスでは紅のトーンが下がることで、会話の主導権が蒼にあることが印象づけられる。このように考えると、ラストまでの展開も頷けるものになる。

この関係が逆だったら――もし、最初に蒼が紅を詰問するように会話を展開し、紅が無理矢理解決策を提示し、そして最後のシークエンスが始まる、という展開だとすると――ややぎこちなく見えるはずだ。というのも、最後のシークエンスでは――会話はないものの――蒼が攻撃側であり、この役割の切り替わりに必須な出来事が提示できないからだ。

これは会話を書く人向けの話で、会話を書かない人には全く意味の無い話なので削除した。あともうちょっと会話はポリッシュできるだろ!と思ってしまう。頑張れ!!!


なぜ双子でなければならないのか? なぜ他のキャラクターは黒塗りなのか?

『白爪草』が双子の話であることは予見が付く。というのも、二人のキャラクター同士でのサスペンスは、避けがたく二人の間での敵対的な会話を含む。「お前がやったんだろ」、「何言ってんだカス死ねクズ証拠はあんのか淫水灼けのクソアマ」――ざっとまあこういう訳である。そして、基本的には全員が仲良しで、小さな不和もそのようなロールプレイだとされるVTuber業界においては、このような真の敵対的会話は――それがフィクションであっても――受け入れがたいのだろう。

これと同じことが、『人魚姫』についても言える。東雲めぐ以外のキャラクターの個性が徹底的に剥ぎ取られており、単なる舞台装置になっているのは、オタクくんが東雲めぐ以外に特に興味を持たないからでもあり、他の誰かの推しと別の誰かの推しがマジモンのカチコミをやっているとオタクが泣くからである。

あまり発展させようがないし、オタクくんが泣きながらキレてきそうだったので削除した。


はえの目

『白爪草』で印象的なショットに、最初の『はえの目』がある。これは『花組』の店内を飛び回るハエの視点でカメラを動かすショットで、途中、ぐるりと天地が入れ替わる(『ガタカ』のセックスシーンみたいな感じだ)。映画では(なぜか)ハエの拡大ショットが取られることがあり、これもその歴史を汲んでいるのだろう。

もちろん、3Dモデルの利点を生かして、任意の場所にカメラを動かせることをしたかったのだろうが、これはやや不可解な映像になっている。というのも、ハエの目は人間やカメラのような目ではなく、複眼になっており、おそらく我々とは異なった世界の認知の仕方をしているからだ。

ここはもう少し改善の余地があったところだろうが、全く本筋の議論とは関係ないし、私が単に気になっただけなのでパージした。


我々はどこまで細かいモデルが必要なのか

3DCG作品の評価基準として、「モデルが精緻」というものがあるが、私はこの意見には全く与しない。現実そっくりの3Dがすごかった、アニメーションがヌルヌル動いてきれいだった、本物そっくりの映像美……こういうことを聞くたびに、私はNHKでやっていたバイオリンの番組を思い出す。その番組では、多くの人がバイオリンを作り、ストラディバリウスにどれだけ似ているかでバイオリンの良さをはかっていた。

実際のところ、3DCG作品を精緻さで評価するのは馬鹿げている。別に似ている必要はないし、ポリゴン数が200000000を突破しても、私は――計算機に敬意は払うが――だからといって素晴らしいとは思わない。私は単に精緻さと『よさ』が単純に相関しないと言っているだけだ。

これはそれほど刺激的でもないし、ストラディバリウスの比喩がやや不適切なので削った。