弟について
2018-11-14日記
さて、世の中には、文頭の一字あけや『?』の後の一字あけは文章そのものにコードするべきだという立場と、組版の段階で、組版ソフトや人が行うべきだという立場の2つがある。
前者の方は、一般に学校で教わるものだ。これの優れたところは、自分の文章をほとんど自由にコントロールできるというところにある。 つまり、どの場所で改行するかはもちろんのこと、文頭にどのくらいのスペースが空くか、行と行の間隔はいくらかまで含めて、文章を書くことを書き手は要求し、実際にそのとおりにする。 この立場においては、文章とその表示において、表現者というものは書き手に限られている。読み手は書き手が書きたいと思ったものを直接的に受け取り、そこに 他の媒介物はない。純粋な二者のコミュニケーションが図られる。
一方、後者の立場は、この純粋なコミュニケーションと言うものの成立を疑うところから始める。例えば、私達が持っているスマートフォンやパソコンは多種多様で、そこに、書き手の書こうとしたものが、正確に表示される保証はない。Webページに貼られた文章の多くは、ディスプレイのサイズに合わせて表示されるからだ。紙に印刷された文章は、モニタに映る文書とは異なった質感を持っている。フォントの形によって、文章の印象は、がらりと変化する。何よりも、視覚に障害を持つ人にとっては、そもそも、文章を整形するという概念を、正確に伝えることが難しいだろう。それに、文章を用いた二次創作――書道など――は、この純粋なコミュニケーションというものがまさに存在しないからこそ、その美学があるのだ(さもなくば、単に同じ文字が書かれているだけだ)。
したがって、この純粋なコミュニケーションという枠組みは、棄却される。そして、この、書き手と読み手という、今や分かたれた二者の間に現れるのが、いわゆる組版ソフトであり、他の表現者であり、何らかのメディア――まさに『媒体』としてのメディア――なのだ。この立場からすると、改行の幅、フォントのサイズ、表現のデバイス等々は、すでに書き手の手の届かないところに存在する、美学的なものになる。もちろん、もとはパラグラフの先頭を探すためのマーカーであった文頭の一文字あけも、この例外ではない。例えば、パラグラフ間を広く取る組版システムにおいては、文頭で一文字あけるのは、それこそおせっかいというものである。
要するに、多くの場合、我々が書くものは、我々が見ているものではなくなってしまう。
今から話すのは1994年の1月21日に兄を亡くした弟の話だ。
寒いロンドンの夜が空けようとしていたときだったね。お前がその知らせを受け取ったのは。お前の目付役ハサンがドアを叩いた音で目を覚ましたんだ。覚えているね。嫌な予感がしたんだ。
「こんな早朝になんだよ」
「お兄様が死にました。ダマスカスです」
冗談だと思っていただろう。シャッビーハがよくやるきつい冗談だと。ご子息様、今日はビールフェスのようですね。不信心者がどのくらい死ぬか賭けませんか? ハサンはこの種類のからかいをよくした。お前はあまりいい気分じゃなかったね。お前の異端の心では、すべての人間は啓典の民で、ニファークはいなかった。どの民も等しく預言者を与えられ、お前達が最後に授けられただけに過ぎなかった。すべての人間はやがて……。そして、どの民族にも同様の価値と約束が与えられ、それらの民族の中には、くじに狂ってしまった、ラテンアメリカの男たちも含まれてもいたにもかかわらず、ギャンブルは悪徳だと、お前は思っていたんだね。
「ハサン、冗談はやめろ。朝の3時だぞ? 故郷の時計に合わせてても、早起きすぎだ、今日が別に――」
そしてお前は、ハサンの目が完全にまともで、そして、うろたえていることに気がついた。街灯が徐々に消えていき、それと同時に、青白い朝が訪れようとしていた。霧が濃かったのを、お前は覚えているね。朝の光が、霧に反射して、外は黄土色にくすんで見えたね。橋も。木々も。並んだ槍のような柵も。グロッサリーも。印象派が描いた幻想的な絵画というよりは、誤った光線が、ロンドンとダマスカスをなんとかしてつなごうとして、そして無残に失敗してしまったように見えた。
「本当です。先程入りました」
「だって、今日の夜だろ、ドイツに来るって言ってただろ? 最高級のレストランが予約してあるんだろ? アルプスの炭酸水と羊の腸のソーセージが湯気を立てているってお前は約束したじゃないか? 二時間だけだけど――」
お前には想像できすぎていたんだ。久しぶりに出会う兄と、あの悪辣で、傲慢で、そして卑屈な――ここがお前にとっては受け入れ難かった。卑屈さが、お前には、お前の民族の刻印みたいに見えたんだ――父親なしで、たっぷり会話と食事を楽しむつもりだったんだろう? キャベツの匂いのする、油でぬるぬるする床の、打ち解けた空気の、『ラックス』という名前の料理屋で温かい料理を食べながら、お前たちの間に積もる話をすべて溶かして、そして、未来の話をするつもりだったんだろう? まっさらな地平線に、お前ら兄弟の未来を。お前はそのことが想像できすぎていたんだ。そして、想像できすぎているものは、もはや実現しなくてもいいと判断されたんだよ。誰にだろうね? お前には理解できない。お前たちには敵が多すぎたんだ。
「パラノイアにならないでください。事故です」
ハサンはそう言う。ほとんど何の助けにもならない。お前は知っているからだ。ハサンが、いくつもの殺人を事故にしてきたことを。それがシャッビーハのやることだからだ。お前があの女と結婚しているようで、実際にはハサンと暮らしていることも誰にも気が付かれていない。お前がいくら逃げても、不必要な隠蔽と完璧な偽装がお前を待っている。きっとお前の兄にも。死んでしまった兄――お前はまだ受け入れられていない。
窓を開けた途端、重い空気が流れ込んできて、お前がいた、狭くて凶暴な――そう、お前の部屋はとても凶暴だったんだよ、とてもね――部屋の窓ガラスをすべて結露させていった。そしてラジエーターのバイメタルが反り返って弾けて、また部屋を温め始めた。こういった日常の音は、お前を日常に引き返しかけた。つい最近『ウェスタン眼科病院』に改名されたセント・マリー病院の日常に。お前がテックガイと呼ばれているあの場所に。「なあ、95の調子が悪いんだけど」「それはレジストリが汚染されてるからだよ」とお前が言葉を交わしていた場所に。
そうはならないんだよ。
「お父様から電話がかかってきています」
お前は電話を受け取る。とても重い電話だ。何重にも盗聴防止が掛けられ、大量の暗号化と、それと同じ数の復号化と、イギリスがせめてもの嫌がらせに送り込んでくる遅延のせいで、ひどく父親の声は聞き取りにくかった。それはほとんど、一般的なアラブ人の声にしか聞こえなかった。とても抽象的な。
「帰ってこい。今日の便を取っている。今すぐ支度しろ。女は後で送ってやる」
お前は頷くしか無い。違うな。お前は諦めつつあるんだ。お前の生活が両手からこぼれ落ちていくのがわかるだろう? お前が大切に、後生大事に取ってきたロンドンでの生活が、砕けていくのがわかるだろう? 一度出国したら、もう二度と、入れなくなるのがわかるだろう?
「わかりました。すぐに行きます。葬儀には必ず間に合います」
「当然だ。分かっているな? お前は、私になるんだ。私の後の私になるんだ。これは今決まった」
お前には断れない。違うな。いくらお前の口が神に捧げられていても、自由意志というものが存在せずとも、お前には断る力があった。しかしお前は使えなかった。お前も結局、国民の一人でしかなかった。自由というのは、抜け出した束縛と隷属の存在の裏返しで、それらの鉄鎖が崩壊したら、お前の自由も消えてしまう。それをお前に埋め込んだのが、父親が入念に一九七〇年から二十四年かけて作り出した牢獄、畏怖と恐怖の監獄、それの名前をお前はつぶやいている。国家。皮肉なものだ。お前は一度、宗教という軛からもがいて抜け出し、その次に、国家を抜け出し、そしてこのロンドンで再び隠れたムスリムとしてメッカに頭を下げ、そしてまた国家に戻ろうとしている。次は国家そのものになろうとしているね。
お前は聞く。
「ハサン、飛行場に行くまで、どのくらい時間がある?」
「あなたがここを去るまでには、二時間あります」
「お前には?」
「それは知る必要がないでしょう」
お前は頷いた。大家さんにはひどいことをしないでくれ、というのがやっとだった。それから、一時間たっぷりかけて、朝五時のロンドンを歩いた。たった今、兄が死んだラウンドアバウトのことを考えながら歩いた。本来兄が乗るはずだった飛行機のことを考え、本来ならお前が乗るはずのなかった飛行機のことを考えた。野犬が柵に小便をしていた。その犬がお前の足音と体臭に気がついて、お前の方を向いた。その犬の目は牛乳の色をしていた。君は白内障だと、これ以上無いほど典型的な白内障の症状だと、お前は犬に伝えた。
「アラブ人は犬も診るんだな!」
と、ナイトバスに乗ることもできないほど泥酔して、さっきまで昏睡していた若者が叫んだ。お前は少しだけ、笑ってしまった。奇妙な想像をしてしまったね。そのとおり。お前の直感は当たるよ。これがお前の、眼科医として最後の診療になったんだ。
ねえ、お前はここまでうまくやってきたよ。お前は束の間ではあるにせよ、自由を楽しんだ。牛の肉を食らって、一度だけ酒を飲んだ。体のラインの出た服を着る妻をもらった。でも、お前が払った対価では、運命というやつは、お前にここまでしか見せてやれないんだ。お前が、お前の兄を贄として捧げて与えられた生活。次に、お前は当然の報いを受けるんだ。肉親を身代わりに自由を手に入れた罰をだよ。
そしてお前を罰するのはお前しかいなくなるんだ。
バッシャール・アル=アサド。独裁者になる前のお前の瞳はどのようにロンドンを見ていたんだっけ?