卒業についていくつか

日記

 本を読んで過ごしている。きっと、卒業の話を書くべきだろう。感謝を連ねることを忘れてはいけない。ビッグネームも忘れずに。
 だが、そのようなことはしないつもりだ。僕は卒業証書が嫌いだ。それは結果の証明でなく、むしろ通行証に近い。私を褒めそやようとする態度も、私は好かない。というのも、私は返報性の原理に支配されており、それは僕を常にうんざりさせるからだ。
私はもっとあけすけな態度を好む。アジアの他の国から出稼ぎに来て、そして老いさらばえた女の子たちに見られる種類の態度だ。あんたは難しい教科書を読めるかもね、それはそれですごいと思うけど、私たちは生活の仕方ってのを知ってるからね。その点では私の方が賢いと思うけど。
 僕は彼女たちのことが好きになりかける。そして毎回嫌な気分になる。彼女たちは家族の話を始める。彼女たちは、いとこまで含めて養えるだけの財を稼ぎ、本当に養ってしまう。脳は萎縮し、肺が副流煙で汚れ、背も縮んだ後、一晩に二千本のビールの蓋を開けた手に残るのは……どうしてこんな話を始めてしまったんだ? 私たちは彼女に期待しすぎ、そして失望に対して準備ができていない。結局は人の語ることだ。
何の話をしていたんだっけ? 卒業の話――それもどうだっていい。私は書いている。書くことについて書き、書くことでないことについても書いている。テキストエディタは私を空に持ち上げて、ものすごい速さで書かせる。空気抵抗がそれを一割くらいまで削ぎ落とす。それだけが重要だ。まさに然り。

インタービュー

1

 青い目玉と赤い目玉――それはトルコ石で作られていて、彼女の眼球とぴったり同じ大きさがあった。彼女の父親が、友人から貰い受けて、彼女にあげたのだった。ナンナちゃん、その友人は、鷲鼻を彼女の頬に擦り当てる。青い目は幸福を選り分けて、赤い目は不幸を睨んでいるんだよ。だからこれが見つめる方をいつも見てるんだよ。離すんじゃないよ。これは君を救ってくれるからね。

2

 彼女もまさに型通りの話し方をする。自分の感性は全てを透徹し、核の部分だけを抽出できる。若い文学少女にありがちなスタイル。制服のスカートはきっちり膝まで。スニーカーはコンバースのハイカット。人間は外見じゃないと思うんです。地元の文学部に進学し、地元の作家について詩をまとめるだろう。手はファリミーレストランのテーブルの上に乗せられていてる。硬く握り締められて。白くなるまで。

 少女が質問に答える。そうだよね、とインタービューアーは相槌を打つ。レコーダーの残り時間を確認する。地球が太陽に飲み込まれるくらいまで録音できる。学生はそれを見ようともしない。少女のナイフからチキンが滑る。二回。取りにくいよね、と女は声をかける。
「新しいナイフ取りに行く?」
 少女は取り合わない。
「家だとお箸なんです。古くて。和風っぽいんですよ。母が」
「そういう感じだもんね。正座しても疲れないでしょ」
 インタービューが進む。事前に書いた質問を、インタービューアーは暗記している。同僚に笑われた。質問袋みたいじゃん。違う。彼女は反論したものだった。実際にそうなの。

「それじゃあ、小説は毎日書いているの?」
「はい。疲れちゃう日はあるんですけど。ちょっとずつ。忘れないように。たくさんメモを取って。家の段ボール箱に詰めて。ぜんぜん読めないんですけど」
「いいね。継続は力なりってやつ。賞とったやつのも……」
 はい、と少女は遮って、スマートフォンの画面を見せる。小さな丸い字で、メモ帳に文字が書きつけてある。そこに小説の一節がある。
「ああ、ちゃんとあるんだ」
「探すの、ちょっと、超恥ずかしかったんですけど」
 彼女はレコーダーを、少女の方に寄せる。インタービューを続ける。向こうのテーブルに座っていた、金色の熊のようなオーストラリア人が席を立った。個人でやっている英会話のようだった。彼は手を振る。インタビュアーは無視する。外の雨は本降りになってきている。
 ナンナはインタビューを切り上げる。
 二千円分の図書券を渡す。何買うの? さあ、と少女ははにかむ。オススメの本とかありませんか? ナンナは唇を噛む。自分が、失神しそうになったことに気が付く。目頭を抑える。指先が化粧で黒く汚れる。

「滞りなく終わりましたか?」と電話の向こうで井上が言う。はあ。ナンナは髪の毛を腕に巻きつけながら答える。終わりました。書き起こしはお金もったないので、あたしがやります。
「いつくらいに(原稿が)あがる?」
「坂木さんのあと?」
「了解。じゃあ、その子、親御さんのところまで届けて」
 彼女はスマートフォンのスピーカーを眺める。ひっくり返して、リンゴのロゴがちゃんとそこにあることを確かめる。それから、もう一度電話を耳に当てる。
「電波の調子が悪いみたいです」
「なんだって?」
「電波の調子が悪いみたいです」
「雨もひどいし、その子共働きなんでしょ?」
 あー、と彼女は答える。とても気が利きますね。
「普通のことだよ、大人なら」
 彼女は通話を切る。少女の方を向く。
「あのですね」と、ショートボブの少女は言う。
「電波って、私たちの見える光と本質的には同じなんです。だから、電話を通じて、私たちは、私たちには見えない光を聞いているんです。彼氏と電話しているときに教えてもらったんですけど」
 ナンナは言う。それってすごいね、真面目に。

「商用車じゃないから」
 ナンナは五分間かけて、助手席を人が座れそうな状態にする。少女はそこに、ためらいがちに座る。数年前の書類やメモ書きの上に。
「音楽聴く?」
「あの」
「エド・シーランあるけど」
 間。
「マルーン・ファイブもあるけど」
 沈黙に耐えかねて、ナンナは少女の方を向く。
 彼女は申し訳なさそうな顔で、ナンナを見つめる。すいません、何か足の先の方で壊れたみたいで、めっちゃ蹴り飛ばしちゃったかも。
「ごめん、私もわかんないし、その、そこに何があったのかって意味だけど、気にしないで」
 緑色のミニクーパーが動き出す。駅のロータリーを通り抜ける。学生たちが別れを交わしている。四人が二人ずつになって、横断歩道を挟んで手を振っている。彼らは、ナンナが見る限り、ずっと手を振っていた。雨がフロントガラスに張り付いて、掃き出されていく。鳥は安全な場所に隠れている。ナンナはそのことに気が付いている。
「鳥がいませんね」
 と少女が漏らす。そう、鳥はいない。とナンナは答える。そして指をさす。あそこ、ハトがたくさんいた。あそこにはカラスが。そこにはスズメが。ムクドリ。ハクセキレイの首がどう動くか知ってる? 
「面白いですよね。カメレオンの瞳みたいで」
 そしてナンナは口をつぐむ。
 赤信号で車が停まる。彼女はギアをニュートラルに入れて、それを確認するためにシフトレバーを左右に振る。それから、
「インタービューの続きでも」
 と言った。少女はゆっくり話し出した。ナンナは自分の親指の爪を人差し指に突き立てたが、少女の話は遮らなかった。

「確かにね」
「そうなんですよ。本当にはもっと大切なものがあって、最初はそれを欲しい、欲しいってか、近づきたい、くらいだったはずなんですよ。でも、みんながそれに近づきたがって、近づきたがるだけの集団になると、もう私はそれを忘れちゃうんですよ。つまり、本当に欲しくなっちゃうってことなんです。ソーシャルネットワーキングサービスってそういうものだと思うんですよ」
 盆地を車が走り、アスファルトから水を掻き出す。遠くの、ぐらぐらした煙色の山並みは、少し雪を被り始めている。カーナビが目的に到着したことを告げた。
「わかるよ、そういうのも」
「ありがとうございます。私、そう言うのになんだか耐えられないんですよ。争うってことに。自分の言葉、自分の本当にやりたいことがしたいんです。それは諦めるとか、そう言うことじゃなくて、ちゃんと自分の聞くべきものを聞いて、話していかなきゃって思うんです」
 うん、とナンナは答える。人差し指の爪が、親指に塗られたマニキュアを剥がしていく。クラクションの中心に描かれた羽に、死人の灰みたいにこぼれ落ちていく。その羽には振り払うだけの力も残されていない。
「だってそうでしょ。私たちは力もないし、お金もないし。でも言葉はあるんです。それはうつくしいものを書けるし、きれいなもの、しあわせなものを一足飛びで――ナンナさん、そこ左――書けるんです――あの茶色のレンガの、煙突、あれにせものなんですけど、のところ――それは、なんて言うんでしょう、権力に――ナンナさん?」
 暇つぶしで、口の中に溜めていた唾液を、ナンナは飲み込んだ。それから、着きました、と呟いた。少女は途切れた話を繋ごうとしたが、どこで途切れたのか、そもそも何の話をしていたのか分かっていないようだった。そして彼女は諦めてしまい、ドアを開けた。
「ありがとうございます。来週の日曜版に載るんでしたっけ?」
「うん。パウチ送るから、待っててね」
「はい、今日はありがとうございました」
 少女はすっきりとした顔で、ドアを閉めた。傘を開く。それから、何か思い出したように、窓を下げてくれとジェスチャーした。ナンナは窓を下げた。
「これ実は彼氏の家なんです。お母さんには秘密にしててください」
 得意そうに、少女は、にこっとして、玄関に走っていく。チャイムを鳴らす。ドアがすぐに開く。少女は最後にもう一回お辞儀をして、そして家に入る。
 やがて夜になって、雨が強くなる。今まで見えていたものが見えなくなる。ナンナは扉があったはずの部分を見ていた。

 彼女はエンジンを切って、シートを倒す。それから、何か思い出したように、助手席に屈み込む。頭を馬鹿みたいにダッシュボードに打ち付ける。彼女はくそとか死ねとか呟く。
 助手席の奥に砕けているものが何か、彼女は知っている。彼女はそれを握りしめて、体を起こす。フロントガラスから差し込む、街灯の光に照らす。少し揺らしてみる。
 紐にこびりついたトルコ石が――実際はそれは安いプラスチックでできた模造品だったのだが――シートにこぼれ落ちる。後には、青い目玉も赤い目玉もなく、ただ黒い紐が、干からびた魚の内臓みたいに揺れている。
 彼女は半分開いた口から、ゆっくりと息を吐いた。ここで、彼女が喋ることはなくなり、したがってこの話はここで終わる。

参考文献

『全ての見えない光』アンソニー・ドーア
『物語の作り方』バルガス・リョサ