忌まわしきいちごジャム
2020-04-23性器に対する修正は極めて厳しく、中学生程度の小僧が『生ハメ 動画』と検索した程度では、彼が無修正の性器を見られる可能性はかなり低い。
ないと言ってもいい。変な釣りサイトに引っかかるか、二つのページの間での果てしないトランポリンを繰り返すか1、よくて160pしかないガビガビのエロ動画にたどり着くのがオチだ。
少年よFanzaに挑め。そうして見つけた桃源郷で、祖母がくれた小遣いを使って、いとこのアカウントでJCモノのエロ動画を購入しても、彼はまず性器を見られない。彼のパトスはとどまるところを知らない。そうして彼は異常なまでの妄想を膨らませて、結局、事が済んでしまえば、友人に対して「そんなでもなかったよ」と女性蔑視的な言葉を繰るのだからやるせない。
人というのは物事を正当に評価できないものなのだ。
そんな彼に私が教えたいのは、尻は大丈夫だと言うことだ。尻は大丈夫だ。アスイズオーケー。分かるだろうか?
ついでに言えば口も大丈夫だ。マウスイズオーケー。分かるだろうか?
田崎君分かるだろうか?
君は夜な夜なこっそり起きて、父親と兼用のパソコンで違法なエロ画像を探す必要はない。明日の朝からはちゃんと顔を洗って歯を磨いて学校に行き、隣の席の四條さんと話せばいい。君は四條さんの口が見放題だ。性的消費し放題だ。君は最悪の犯罪者予備軍だが、犯罪がなんだ。何が『しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである(マタイ5章28節)』だ。何がモーセだ。一度失敗しやがったくせに偉そうに。田崎君、君は失敗するんじゃないぞ。口をよく見てこい。口は見放題だ! マウスイズリーガル。一度そう考えるとエッチな気分になってくるだろ。現に私がそうだ。ノムの口を見たくなってきた。ノム! おれだ! お口見せてくれ!
……さて、現在は言論の自由を所与のものと見なしてもよい、という考えがあまねく広がっている2。 これは全く自明な事ではなく、このために無意味に人が人を殺させられた。我々は人の死を嘆くのでも、人を殺した人を憎むのではなく、人を殺さしめた人をこそ憎まねばらぬ。
そんなことはどうでもよく、これはいちごジャムの作り方である。レシピは樋口先生のノートを参考にしている。
いちごジャムの作り方
材料
名称 | 分量 | 備考 |
---|---|---|
いちご | 1パック | 小粒の方がよい |
砂糖 | いちごの重量の50% | 計算すること |
石油 | 5バレル | 不要である |
ボウルが必要だ。
原理
ジャムが独特のゲル感を持つのは、果物の中に含まれるペクチンの性質による。Wikipediaによると、ペクチンは細胞壁に含まれるらしく、スクロースが60%以上で、pHが低いときにゲル化するようだ。
つまり、いちごジャムを作るには、砂糖を煮詰める必要がある。上のレシピは重量比で1/3しか砂糖が入っていない。もちろん、いちごを全て潰すわけではないのだが、液は減らす必要がある。
また、ペクチンは熱に弱いようだ。つまり、煮詰めるとは言っても、ペクチンがある状態で煮込んではいけない。
つまり、いちごを脱水して、出てきた水を煮詰め、しかる後に粉砕したいちごを加えれば、ペクチンを破壊せずに煮詰めることが可能だと考えられる。
せっかく自家製にするのだから、少しはいちごがまるごと入っていてほしい。今回は、5、6個のいちごを潰し、ペクチンのたねとして使って、残りのいちごを濃厚砂糖液でさっと煮ることにする。
作り方
- いちごを洗ってへたを取る。洗いたくなかったら洗わなくてもよい。へたは取りなさい。
- ボウルにいちごを入れて砂糖を入れる。スプーンでいちごに砂糖がまぶされるくらい上下を返す。上下を返すというのはボウルの中で返すという意味だ。
- もし1.でボウルの上下を返していた場合、いちごと砂糖が床に飛び散っている。そのような場合、常識を学んでから0.に戻る。
- ボウルにラップをして、半日~一日待つ。目安は入れた砂糖が全て溶けるくらい。次の図の様な感じだ。時々上下を返すといい。
- 鍋(私はテフロン加工だったフライパンを使った)に液を入れる。
- 鍋を弱火で加熱する。いちごを5個程度潰しておく。
- 鍋をかきませながら液体分を減らしていく。
- 潰したいちごを入れ、10分弱火で煮る。次の図のような感じになる。
- 残りのいちごを入れ、5分煮る。コップテストでもなんでもすればいいだろ。
- 暖かいうちに瓶に詰め、蓋をする。
- 冷蔵庫に入れる。
- 蓋が堅くなってしまい、開けられなくなる。
忌まわしさの鑑賞
我々は時として、作ってはいけないものを作ってしまう。それはある人にとっては核弾頭であったり、別の人にとっては賭博のシステムであったり、私にとっては抵抗なく飲めるアルコール飲料であったりする。
それは人類史における汚点とも言うべきものであり、排斥できるものならしたいのだが、既にそれにかかる便益や微妙な平衡が存在しているために、根絶は不可能になっている。核は危ういバランスで保たれる、とこしえに存在するべき武器になっているし、アルコールはバッカスの時代より根付いている。
ただ、このたぐいの物事に関しては、我々は単に恨めばそれで済む。過去にそれを作り出した人を現代から断罪すればよい。人類にとっての汚点だと喧伝すればいい。我々はひとつの立場に立ち続けることができる。それは我々を安心させる。少なくとも、敵であるものは永久に敵である。
一方で、この世には、我々が作りだし、それにも関わらず、我々の手の及ばないところに行ってしまったものがある。それは例えばいちごジャムだ。それは例えば散歩の途中に頭に思い浮かび、帰ってきたときにはすっかり忘れてしまっている素晴らしいアイディアで、そして望むとおりには成長しない子供でもある。それらは私たちが作り出し、それがどうなるか、それがなんであるか、私たちは分かっていたはずのものだ。しかし、それは突然、私たちの制御下を離れてしまう。
最初に述べたものとの違いははっきりしているだろう。私たちはそれらに怒ることも、いきどおることもできない。それらは私たちが作ったものだからだ。私たちはそれを受け入れざるを得ない。責任を取ることができようとできまいと、責任を取ることが必要であろうとなかろうと、とにかくそれは私たちが望んだもので、望んだとおりにはならなかったものだと認めるしかない。
嘆きべき事に、『忌まわしい』という言葉によって、この事を認めようとしない人々もいる。彼らは、なぜ思った通りにいかないのかと苦しむ。そして、とにかく目の前の物事の方が間違っているのだ――しかし、それを作り出した私は間違っていないのだ――という奇妙な状態におかれる。忌まわしいもののせいで……忌まわしい悪霊が……という訳だ。自分の子供を殴る母親のうちの何人かは、このような思考をしているものもいるだろうと思っている。