テスラの犬モード
2020-06-02こんな話を聞いた。
テスラに犬モードが搭載される。
私の興奮が分かるだろうか? テスラは車の会社だ。頭のイカれた(褒めている)男が作った頭のおかしい車だ。電気とガソリンのハイブリッドで、AIが搭載されていて、モーターはシーシーと鳴る。なぜか生物兵器への備えがあり、発動すると、車内には陽圧が掛かって、一切の外気を遮断する。炭疽菌と天然痘の混合兵器で冒された空気を切り裂いて進む。操作は全部タブレットで、スペースXと連携して月に行く。こんなところだろう。
はっきり言って、私は車にはさして興味がない。『渚にて』というSF小説を読んですぐの感想は「死ぬ間になっても、人間は自動車レースに熱中する」だった。今では、この感想は間違っていると知っている。人は死ぬ間際になると、せめて自動車レースで死にたがる。というのも、キリスト教的な世界においては、自動車レースで死ぬことは合法的な自殺手段だからだ。自動車レースで散った男、ここに眠る。まるで自動車レースが男を殺したみたいだ。実際はまるきり違う。自動車レースは主体にはなり得ない。それはまるで『決闘がガロアを殺した』というようなものだ。殺すのはいつだって人間に決まっている。
なぜ死の話をしている? つまらない人間は性と死の話をしたがる、とつまらない誰かが言っていた。今はテスラの話だ。
どうせ淡路だの神戸だの、アメリカよろしくゲーテッドコミュニティをブチ立てた金持ちが買うに決まっている。そこでは二十メートルおきに充電スタンドが建ち並び、パパ、娘、そしてクソでかい熊のぬいぐるみがそろって馬鹿顔を並べて時速150キロメートルで爆走する。警備員の一人や二人、轢いているかもしれない。娘はママに似て非常に美人で非常に馬鹿だ。七の段ができない。パパはママが三十五になって、毎晩のセックスが退屈なルーチンになったら別れようと思っている。それまではよだれを垂らしながら毎晩紡がれる肉欲の宴に邁進している。そのくせ、このパパと言えば、年中無休で8時から22時まで働いて、毎日20人のクビを切っては20人を新たに雇い入れている。新宿に土地を持っていて、その事実だけで彼は生きていくことができる(事実が金銭を生成する、というのは、現代における魔術の一つだ)。ママはコカインが頭にたまって何も考えられなくなっている。そういうものだ。
なんにせよ、テスラ、この世の資本主義とアメリカンドリームと排外主義と成金趣味とハイテクノロジーの粋を集めた汎用機械――私はあえてこの言葉を使う。テスラはすでに車ではない――が、犬モードを搭載する。
犬モード――分かるだろうか? この言葉の意味が分かるだろうか?
つまり、こうだ。私が偶然、新しく作られたテスラの鍵を(突然博愛の心に目覚めたイーロン・マスクから)もらう。私はおびえながらスイッチを押す。自動運転でテスラが届く。黒いフォルムは、まるでもう一層、何か透明で硬い層に守られているみたいに光る。キシキシと小さな音がする。それはエンジンの音でも電気モーターの音でもない。それは集積回路、5G回線通信、そしてボディの各所に備えられたカメラとマイクが動く音だ。それはまるで、精巧に作られた昆虫のように見える。私の体にぴったり合うように作られた外骨格。
そして私は犬モードのボタンを押す。キーから『犬モード』の連絡が行き、テスラが(当然の帰結として)犬モードになる。テスラは突然、私のそばにぐっと寄ってくる。私がびっくりして後ずさると、テスラも、はっと(ギアをRに入れて)距離を取る。テスラがバッテリーをショートさせて、私の目の前でパチパチと放電をさせる。おびえる私に、イーロン・マスクが「テスラは噛まない。近寄ってやって触ってやるといい」と言う。「そうでもしなきゃ、レモネードを売った意味がないだろ」と笑う。マスクは私と誰か別のアジア人を混同している。
私はおびえながらテスラに手を伸ばす。テスラの額をなでてやる。テスラのマークの部分をなぞってやる(抽象的な磔刑のキリストみたいだ! と私は気がつく)。テスラはだんだんおとなしくなる。ゆっくりと近づいてきて、私の脇腹に腹をこすりつける。危うく私は轢かれそうになる。実際にちょっと轢かれてもいる。こうして私と犬モードのテスラとの友好関係が始まる。
犬モードのテスラは、毎朝、私が起きる数分前に起きる。そして、私のスマホが目覚ましを鳴らす数秒前からクラクションをけたたましく鳴らし始める。私がスマホに起こされるのが嫌いなんだろう。つまり、私を毎日の眠りから覚ますのは、あのみすぼらしく脆弱なスマートフォンではなくて、自分、この崇高なる汎用移動機器にほかならない、という訳だ。私が顔を洗ってリビングに戻ると、犬モードのテスラがテーブルの横できちんと待てをしている。私はテスラのリアウィンドウを軽くなでてやると、コンセントを入れて充電してやる。数年分の年収が掛かったが、私は自家用の充電ケーブルを引いている。だって、他のテスラがいるところで、どうやって私と(犬モードの)テスラがゆっくり休めるだろう?
シリアルで朝食を済ませると、私と犬モードのテスラは軽い散歩に出かける。犬モードのテスラはフォルクスワーゲンにちょっかいを出そうとする。クリーム色の、上品な老婦人のようなフォルクスワーゲンだ。私がタッチパネルをつついて注意すると、申し訳なさそうにサイドミラーを畳む。私はテスラを許してやる。私はテスラと仲が良いのだ。
仕事を終えて家に帰る。私はテスラを会社に持って行かない。テスラが他の車に嫉妬するからだ。私が車のキーをカチリと鳴らすと、犬モードのテスラが一目散に駆け寄ってくる。私は死なないためにぱっと横に飛び退ける。いつもこれだけはやめろといっているが、テスラは聞く音声認識ソフトウェアを持たない。全く困ったものだ。イーロン・マスクに電話を掛けると、「それならダナおばさんの揺り椅子を誰が直してやるんだよ」と返事をされた。マスクは私と誰かを混同していたが、おそらくダナおばさんと誰かをも混同していたから、どの人に言ってもあの言葉は意味を持たなかったに違いない。
とにかく私はテスラに乗り込んで、目を閉じる。テスラもヘッドライト、テールライトを消して、内側の照明もごくごく小さくする。テスラのモーター音が小さく聞こえる。私はテスラの頭をなでてやる。犬モードのテスラ。私の大好きな犬モードのテスラ。
分かるだろうか? これが『犬モードのテスラ』が意味すべきものだ。『犬モード』と言うとき、それは犬のようでなくてはならず、犬のようであるとは、人間の最良の友人であると言うことだ。我々は犬に何も求めず、犬も我々に何も求めない。犬はルーチンでも喜んで迎え入れる。犬は幸福を運んでくる。犬モードのテスラも同じに違いない。私は犬モードのテスラが欲しい。犬モードのテスラ。ああ、犬モードのテスラ! 犬モードのテスラ!
調べたところによると、犬モードのテスラとは、『車内に犬を放置したときにも、犬が熱中症で倒れないように、車内を適切な環境(温度、湿度など)に保つ機能――これを犬モードという――を持つテスラ』を意味するようだ。
私はベッドに横になった。
では、私が考えた『犬モードのテスラ』とは何だったのか?
ドアの外では誰かがチャイムを鳴らしていた。それは何も言わなかった。保険屋か、ガスの商人か、間違えた部屋に訪ねてきたUber EATSの配達人か、何かの宗教の信者のどれかだった。私はとっとと消えてくれと思っていた。「うせろくそやろう ぶち殺すぞ」と言った。そいつはいつまでも消えようとはしなかった。ずっとチャイムを鳴らしている。