我々はこれからもルイーズ・ブルジョワを見捨てる

森美術館でルイーズ・ブルジョワの展覧会が開かれている。我々は生きているときの彼女を見捨てていたし、死んでからも彼女を見捨てている。


いきなり来たと思うので、最初から説明する。ルイーズ・ブルジョワとは1911年に生まれた芸術家だ。絵、版画、彫刻など活動は多岐にわたり、代表的な作品にはママンという蜘蛛の彫刻などがある。

そのブルジョワの展覧会が森美術館で開かれていた。これは彼女の作品群を初期ー中期ー後期と大きく三つに分け、各時期での作品を短い批評と共に展覧している展示会だった。ここまで言えば準備は十分だ。



会場を歩いてからしばらくすると、誰かがしゃべっているのが聞こえる。それは節をつけた一節で、若い女性の声だ――英語だなと気がつく。近づくにつれてそれははっきりと聞こえる。

彼女は私を見捨てた!

と誰かが言っている。音源は壁に掛けられたモニターで、そこには白黒の映像でルイーズ・ブルジョワが歩いているのが映し出されている。

彼女は私を見捨てた! とブルジョワが叫ぶ。そこは狭い部屋で、部屋の中央には背の低い長い台がある。その台には白いシーツがかかっていて、何が置かれているのかはわからない。部屋の壁に沿って、ずらりと観客たちが並んでいる。若い女もいる。男もいる。バイオリニストが一人いて、ブルジョワのセリフに合わせて弦を引く。

彼女は私を見捨てた!

彼女とはブルジョワの母親のことだ。病弱だった母親だ。スペイン風邪がついに治ることなく死んでしまった。ブルジョワが22歳のときだ。このことをブルジョワはうまく整理できていない。見捨てたわけではないのは分かっている。だがなぜ我々を置き去りにしたのだろうか? 家政婦とセックスしている父親を我々に残して何が言いたかったのだろうか? 彼女は私を見捨てた。

録音は天網だ。バイオリンと彼女の歌以外のものも音声には刻み込まれる。それは小さな笑い声とひそやかな感想の交換だ。録画は漏らさない。どこかの記者がブルジョワを見て含み笑いを浮かべる。若い女が暇そうに別の場所を見る。彼女は供儀台の周りを歩く。十分すぎるほど分かっている。

こいつらは私がキチガイだから見に来ているんだ。



2020年を思い出せるだろうか?

白血病の京大生がいた(山口雄也という名前だ)。我々はその人たちについて口々に何かを言っていた。多くの人は、まあ小銭をやったり、要するに頑張れよとか言っていた。他人の存在が許容できないごろつきは、最低でもそれとないほのめかしで中傷し、最高では率直に死ねと言っていた。たんまり賠償金がもらえそうなやつだ。今でもインターネットで少し検索すれば出てくる。実家のシチューに入っているジャガイモくらいごろごろ出てくる。

彼を取り巻くクソコメの話を私はしていない(ジャガイモの話もしていない)。私は彼の受けた治療について話をしている。彼にどのような治療が提示されて、彼がどのような意思決定をしたか、今でもある程度しっかり知ることができる。彼は書くべきものを書き、インターネットと出版社はそれぞれの役割を果たした。緩和ケアか――血液の交換か――苦痛はどれほど大きいのか? 助かる見込みはどれほどあるのか? 誰もがきちんと考えてきちんと選んだ。誰もがベストを尽くした。誰も決して彼を見捨てなかった――彼をつぶそうと考えた者ですら、彼をつぶそうとしていた(白血病患者一般などではなく)。そしてそれはいいことだった。

ルイーズ・ブルジョワについてはどうだろうか?


彼女の作品はある種のアンビバレンツに包まれていると言われている。

子どもたちを守るものである蜘蛛は、それと同時に捕食者でもある。
裸で縫い付けられた男女は、親密さと同時に――我々の明確に境界付けられた皮膚だけを取り残すのだから――逆に疎遠さをも強調する。ゆんぼだんぷが示すように、肉体は滑稽だ。

細胞 ( セル ) と名付けられた作品群では、汚れた鉄の檻に小さな椅子、鏡、や奇妙に縫い合わされた顔が置かれる。これは監視と束縛という現実的な恐怖を表現するが、同時に幼年期の暖かみがある(改めて言うが、幼年期を懐かしさと切り離すことはできない)。
シリコンで作られたつるっとした表面に縫い糸と縫い針が付きささる。『自画像』として形作った獣には乳房も陰茎もある。
ひどいことをして人生をめちゃくちゃにしやがったクソみたいな父親をぶっ殺して調理して食べることを幻視して彫刻をつくるのだが、そこにはよく焼けた骨付き鶏もも肉が転がっている。まるで誰かと一緒に食べることを期待するように。

なんて矛盾した才能なんだ。人生における矛盾を見事に芸術の域まで昇華させなさった! 専門家は一通りそういうことを述べる。キュレーターもそう指摘する。私もそう言う。もちろんそうだ。一同、拍手。


だがルイーズ・ブルジョワへ我々はもっとやることがあったのではないか?


彼女の人生は大きなショックがある――父親が謎の意味不明な女とセックスする、母が死ぬ、女の芸術は女由来だから理解されない――これは避けることができない。そういうものだ。彼女の精神にその傷が刻まれる。これもそういうものだ。そしてそれが時折ぶり返して、彼女をいきなりどん底に突き落とす。まるで暇を持て余した死神がやってきて、にやにやしながら背中を蹴飛ばして見下すみたいに。殺す以外にもおれができることは色々あるんだよ。

さて、特効薬をご紹介――精神医学! これによって深層心理の葛藤を意識して、精神的な不調を抑えられるようになる(これは不正確だが、私は精神医学が嫌いだから気にしない)。ブルジョワも父の死を受けて精神医学の治療に専念した時期があった。そしてそれによって自分が父親のトラウマと周囲との感情的な関係によって苦しんでいることを知った。

ついでに言えば、我々は一つの塑像を得ることができた。この彫刻はブルジョワの持つ父親への葛藤を表現しています。これはブルジョワが持つパリに見捨てた友人たちへの後ろめたさを表現しています。精神的に不安定な高齢女性の巨匠。


話を戻そう。ブルジョワが来賓の前で母親が私を見捨てたのだと歌っているとき、それを見てクスクスと笑ったり、ビデオカメラを回したり、よそよそしい目を向けているとき、我々は何を考えていたんだろうか?

彼女がフェミニズムのマニフェストに賛成して自分の作品をピンクに塗りなおしたとき、アナキズムともダダイズムとも手を取れなかった高齢女性が何らかのマニフェストに賛成するのを見て、私たちは何を考えていたんだろうか?


別の動画もある。ブルジョワがオレンジを剥く。彼女は子供時代を思い出している。父親がこうやってオレンジを剥いていた……全てを剥き終って皮をつまむと、頭があって、腕があって、足があって、人の形のように見えるはずだ。彼女の父親はその人形の股間がちょうどへたの位置に来るようにしていた。そして剥き終わった皮を彼女の方に向ける。

どうだ! こいつにも立派なモンがついてるだろ!

手が震えるのを抑えることができない。彼女は父親の言葉をまだそっくりそのまま繰り返すことができる。それは耐えることができる。父親はどうしようもないクズだった、以上。彼女はつぶやく。何度も唇を閉じる。なぜだろう? なぜ手が震えるのだろう? なぜひどく気を付けて喋らないといけないと私は思わないといけないのだろう?

私はだんだん気がつき始めた、と彼女は言う。この話は確かに滑稽で、父親は嘲笑モンのガチクズだった。そしてあんたたちは私が思った通りに「そりゃ親父さんはセクシストのクズだね笑」と言ってくれる。実際に本当にそうなんだ。

でも、実際は、あんたたちは私と一緒に父親を笑うんじゃなくて、私を父親と一緒にして笑ってるんじゃないのか? エキセントリックなババアはずっとキチガイみたいなことを言うんだなって。もしこのババアがここで感情を爆発させてこのオレンジにひどいことをしたらきっと人間の深遠さを見られるんだろうなって。


《青空の修復》と呼ばれる作品がある。このリンクを辿れば実物を見ることができる。それはぶ厚い鉄の板に開いた裂け目から、青空がのぞいている作品だ。その裂け目を糸が縫合しようとしている。

上記の説明は逆ではない。彼女は青空が覗いた傷口を縫合しようとしている。それがブルジョワにとって青空の修復を意味する。本当の世界は灰色で平板な、沼のような世界だ。醜い傷口が作られている、世界はぶ厚くて鋭いナイフで何度も切りつけられている、傷口は炎症して盛り上がっている、針を通すのはとても痛い、糸はほとんど頼りにならない、そこから青空が見えていて、その向こうにはあなたたちがいる。


ルイーズ・ブルジョワをバカにしなかった者はほとんどいない。


このような話をすると出てくるやつがいる! 彼らはこのように言う;

それはつまり、『ブルジョワ』という文脈を無視して彼女の作品を美的評価できるかという問題ですね。それは一般に、美的鑑賞が文脈に依存するべきかというフレームでとらえることができます。例えば、おいしいコーヒーがアフリカの労働者の不法で妥当性のない搾取によって成り立っているとき、それは本当に『おいしい』のかという問題と類比することができます……それはアウトサイダーアートの美学にもつながります……

そうではない! 全くそうではない。私はここで非常に個人的なことを個人的なレベルで述べている。美学とは関係ない、『文脈づけられた批評』とやらには一切興味がない、一般的な命題から何かを演繹するのはやめてくれ、私はそれが憎い。私はあなたたちが持ち出すそれからブルジョワを切り出そうとしている。


競争するのは怖くない、むしろ逆だ。それが分かんないのか? 私は私が競争するって思うんだ――それが怖いんだよ。だから演劇科をやめたんだ。単に他人の価値を尊重できるようになってるってだけで、単に褒められるのがうれしいってだけで、単にみんなが自分のことで盛り上がるのがうれしいってだけで、競争していいってことにはならないんだよ。マジで恥ずかしいしうんざりしてるよ。なんでもない人になる勇気がないことにうんざりしてるよ、一発かましたれって思ってる自分にもみんなにもマジでうんざりしてるんだ。 サリンジャー『フラニーとズーイー』より

(競争するのは怖くない、むしろ逆だ。それが分かんないのか? 私は私が競争するって思うんだ――それが怖いんだよ。だから演劇科をやめたんだ。単に他人の価値を尊重できるようになってるってだけで、単に褒められるのがうれしいってだけで、単にみんなが自分のことで盛り上がるのがうれしいってだけで、競争していいってことにはならないんだよ。マジで恥ずかしいしうんざりしてるよ。なんでもない人になる勇気がないことにうんざりしてるよ、一発かましたれって思ってる自分にもみんなにもマジでうんざりしてるんだ。 サリンジャー『フラニーとズーイー』より)


彼女を解釈するための言葉がある! 彼女を語るための言葉もある。彼女を見捨てるための言葉がたくさんある。

私もすぐに出すことができる。ここにある五体の人形はブルジョワの家族を象徴している、生の中に死がある(ああ違った「性の中に詩がある」だったかな)、無力な女性の弱さと孤独を表現している、やっぱりインスタレーション作品って最高だって自分の考えてることを言語化してくれるから、セクシャリティに課題感を持つ人はインスピレーションを得られるはずです、内面を見れて考えさせられた、両親との葛藤が……。

これによって私たちは作品を知ることができる。彼女とその作品を芸術として評価することができる。事実があり、仮説があり、それをサポートする説明がある。ならそれは全く妥当な議論だ。何も言うことがない。ブログでもいっちょ書いたら読んでもらえるんじゃないか?

だがそれは彼女を見捨てている。想像できるだろうか? 十歳にもなっていない時の自分を思い出せるだろうか? まだ世界がぼんやりしていたころ、漢字練習帳があって、そこに何かバカみたいな猫だか犬だかのシールが張り付けられたとき。そこで父親が別の女を連れ込んでいるのを見る。彼らは親しげに談笑する。そして奥の方の部屋に入っていく。しばらくしたら出てくる。それが繰り返される。わたしにファックはいらない、だって世界が毎日わたしをファックしてくれるから。そういうことを想像できるだろうか?

想像できるだろうか? 出会って三カ月の男と結婚して、養子をもらって、子供を二回産んで、新世界で何とか戦いながら踏ん張っている。時代は1946年でまだ戦争は終わったばかりだ。周りに親しい人は誰もいない。

私たちはあまりにも隔たっている。ルイーズ・ブルジョワの住んでいる世界と見えているものはあまりにも遠い。彼女の立っている位置まで歩いて、そしてそこから世界を見ることはひどく難しい。あの小さな鉄格子で囲まれた檻のような部屋に入って――そう、観客はあの中に入ることができない――小さな椅子に座って、誰の助けも借りられずに一人で座っている。はるか遠くには鏡がある。私の父親は私が叫ぶたびに鏡を取り出したのだった、そしてこういうのだった、叫ぶと醜くなるぞ。だがあんなに遠い鏡に何が映っているというのだろう?

世界はこれまでずっとルイーズ・ブルジョワを見捨ててきた。そしてこれからも見捨てるだろう。


彼女にとって救いがあるとすれば、それは毎日朝十時に一人の男が彼女の家を訪ねに来たことだろう。その男の名前はジェリー・ゴロヴィという。彼と出会ったのは彼女のキャリアの後半で、その時はもう母と息子ほども歳が離れていた。

彼はドアのところに立っている。今日も彼の細い腕が彼女の言うことに従って彼女が作ろうとしているものを作るだろう。骨ばっていて長い指が粘土を捏ね、ナイフを入れ、そして間違えながらも進んでいくだろう。

彼は道具だろうか? 違う。では何が彼と木べらを分けるのか? 機能――彼がより複雑なことをできるから? そうではない。

彼はドアの前に立っている。彼は脂っぽい髪を撫でつける。彼は毎朝十時にやってくる。太陽は信頼ができなくて、なぜなら太陽は毎日決まった時間には登らないからだけど、ジェリー、あなたは毎朝十時にやってくる。むしろ彼がやってくる時間が十時だと定義されるみたいに。

なぜあなたは毎朝十時に来るのだろう? なぜ私が彫刻を、くそみたいな失敗作を作っても黙ってそれを見つめているのだろう? 馬みたいに働け! 私が彫刻をぶち壊したときも黙っているのだろう? なぜ私の最悪の期間もそこにいてまるで何も起きていないという風にここに来るんだろう? もし私があなたをどこかに縛り付けて、さらし者にしてもあなたは耐えるというんだろうか? それは逆に私が人を試すという罪をまた一つしょい込んだということになるんだろうか? ジェリー、あなたはそこにいる。そして言う。ルイーズ、今日は何をしましょう。


《ヒステリーのアーチ》(1993) Installation view Louise Bourgeois: I have been to hell and back. And let me tell you it was wonderful. Mori Art Museum, Tokyo, 2024 ©︎ The Easton Foundation/Licensed by JASPAR, Tokyo, and VAGA at Artists Rights Society (ARS), New York, 2024.


参考資料