バカみたいに賢い
2024-10-05気がついたらNodenariumというリンク集からリンクを張られていた。少し嬉しくなる。と同時に腰を抜かす。広告もなしに日記を配信するだけのサイトを公開している同世代のオタクが他にもいるとは思っていなかった。しかもかなり現代的なデプロイをしている。慎重に言葉を選べば狂気の沙汰だが、狂気が――狂気だけが――歴史を作ってきたのは今更言うまでもないことだ。
今回の更新で言いたいのはこれだけだが、しまりがつかないので日記を書く。
このサイトも日記のつもりで始めたのだったが、日記にはなっていない。だが、前提として、労働者が日記を書けるということは証明されていないと思う。というのも、
-
6時に起きる
-
7時半に仕事を始める
-
11時間半ほど「お前マジで何も分かってないな」と言われる
-
19時に就業する
-
食事を作る
-
風呂に1時間ほど浸かる
- ダシがよく出る
-
22時半に寝る
このような生活を送っているとき、日記が書けるということはそれほど自明ではないからだ。以降、眼鏡の委員長みたいな議論が繰り返される。くだらない。
とはいえ、日記を基本としてサイトを作ったのだから、日記を書かねばなるまい。これはいつかの日記だ。おそらくこういう日があったと思う。単に日記を書くとあまりにもつまらないので、適当にコメンタリーをつけることにする。副音声だ。
7時に目を覚ます。20分くらいかけてちゃんと起きる。グラノーラを食べる。毎回、これを食べるたびに、鳥の餌だなと思う。
- しかし、実際には鳥を飼ったことがないのだから、本当に『鳥の餌』かはわからないのではないか
- しかし、鳥の餌を食べること自体には価値は付随しないのではないか。つまり、鳥が神なら――こういうことは宗教にはよくあることだ――私は神の食事を頂戴したのだ
などと考える。何の話だ? 私は食器を水につける。洗った方がいいのだが、モチベーション的に厳しかった。食器を洗わないたびに、次のような一口話を思い出す。食事の前に食器を洗うようにすれば、死ぬ前の一回は食器洗いをしなくて済む。
しかし、と私は考える。私は鳥を飼うということがおおむね想像できる。籠を洗うとか、餌箱と水入れを取り換えるとか……。なぜだろうか? 実家で犬を飼っていたからだろうか? もしそうなら、飼うということにはある種の共通した性質があるのか? 誰がそれを立証したのだろう?
抹茶を淹れる。近所のイオンでなんか抹茶のパウチがなんかアホ安♡バカ安♡でなんか売られていて、つい買ってしまったから使うハメになっている。大量消費社会は持続可能ではない。人類の富は必要を遥かに超えて生産されており、必要が消費を形作るのではなく、生産が欲望を惹起している。
それはそれとして抹茶はうまい。カフェインも入っているのだから言うことがない。適当なアフィリエイトだか広告収入だかのブログでも書いて、「ニューヨークではコーヒーは年寄りの飲み物!抹茶はスーパー・エネルギー・ドリンク!」みたいな記事を二十本くらい書いてもいい。パウチには「ラテに! パンケーキに!」とバカみたいな宣伝文句が書いてある。いうまでもなく、世界は不快だ。
本を読み終わる。Web APIの設計という本だ。内容は勉強になるが、それは礼儀作法について知ることが勉強になるのと同じような意味だ。原理や原則から発展的な内容が演繹されるというたぐいの勉強ではない。
しかし、そのような方法論――数学がやるような方法論――が役に立たないこともある。例えば、オートマトンの理論は極めて洗練されている。どのくらいの長さの文字列がどのくらいの計算時間でどのくらい複雑な集合にあるかを判定することができるか、詳しく分かっている。だが、目の前にJSON文字列を見よ。そこには構文論と意味論の界面があり……
私は何を書いているんだ? やめよう。AWSのS3バケットからデータを取ってくる方法はこう、Lambdaの関数を登録する方法はこう、全世界に静的なファイルを分散してキャッシュする方法はこう。私はそういう世界に入りつつある。騒がしく具体的で愛すべき世界。
RSSフィーダという遺物を使ってサイトをチェックする。ポメラのDM250が最高なんだというブログ (http://www.antipope.org/charlie/blog-static/2024/09/zen-and-the-art-of-writer-deck.html) を読む。おそらく使いやすいのだろうと思う。脳内の村上春樹(いつも青いシャツを着ている)が「あるいはそうかもしれない」と謎の言及を残して去っていく。あるいはそうかもしれない。
- しかし、DM250は私の購買欲をかなり刺激した。二つ前の言及に戻る。
- しかし、私は今のブログ環境 (typora有償版)に満足している。次に進む。
……ゲームブックは一時の夢だったのだが、少なくとも目が覚めてもまだ存在する夢だ。私も本棚にゲームブックを何冊か置いている。順序を無視して1ページ目から通読するのがお勧めだ。人生はゲームで、それがゲームに見えないのは、時間方向に意識を動かせない我々が、読むべき順序を間違えているからだ。
昼になる。少し前に一生分つくって冷凍庫に入れていた薄いカレーを溶かす。油で焼いたパンと食べる。一人暮らしにはありがちなことだが、自炊のレベルが許容値の限界まで下がっている。だが他人に対抗するために構築した論理武装があまりにも完璧なため、すでに自分ですら自炊のレベルを上げることができなくなっている。
シャワーを浴びて家を出る。上野まで向かう。美術館にでも行こうと思ったのだった。思考と行動の順序が逆だったが、科学によると、思考が行動を形作るという考えはそれほどしっかりしたものでもない。
電車では葬式の帰りと思われる5人の家族がいた。右側のボックス席に母親、祖母、二人の娘が座っていて、反対側に父親が座っていた(私はどういう立場を中心にして家族を書いているのだろう?)。私は父親の左前に座った。もしかしたら息子に見えたかもしれない。家族が知らないうちに一人増える。そういう短編小説の話をすこし考えて、ざっくりアウトラインを書いた。息子というトレイトが実装するべきメソッドは減っていて――より一般に、生得的な役割は縮減している――見知らぬ誰かが息子になったとしても、九割の家庭は崩壊せずに進むだろう。
向こう側のボックス席に座った母親が窓を小さく開けた。新橋で停車しているときに、白と黒の鳥が迷い込んでくる。尾の長い鳥だ。私はkubernetesの解説書を閉じて、その鳥を眺める。(鳥は男性名詞だから)彼はそのトカゲのような脚でしばらく家族の間を行き来した。
娘たちは黙って本を読んでいた。表紙は『不思議の国のアリス』の英語版に見えたが、厚みは20ページくらいしかなさそうだった。次の駅に着くと、鳥が窓枠に飛び乗り、小さく頭を垂れてから窓の向こうに消えていった。彼が空から見た横須賀線は鯨のように見えるのだろうかとぼんやりと考える。
私は父親に「鳥がいましたね」と言った。父親は私の目をしっかりと見て言った。鳥が神なら、私たちは神に会ったことになるんだ。
上野の美術館に着く。すごく暑いな、と思う。小学校の日記だったらここで終わってもいい。9月16日――暑かった。簡潔にして克明だ。公園口は狂おしいほど人がいた。多くの人がイヤホンをつけていた。ヘッドホンをつけている奴もいた。相互認知が消え去っても、移動だけは動物の本能のようにしつこく残っている。これについては、ミシェル・ウエルベックが『ある島の可能性』で述べている。
西洋美術館はモネ展のせいで人が多すぎた。科学館は人が多すぎた。上野の森美術館も展覧会の最終日で混み合っていた。博物館も人が多かった。埴輪展がやっていて人が多いのだろう。私は埴輪には特に興味がなかったし、人混みにはより興味がなかった。ハクセキレイがどこから飛び降りて、私を人が少ない場所に誘った。私は混雑が嫌いで、そのおかげで人生は少し単純になっている。
東京都美術館に行く。『大地に耳をすます 気配と手ざわり』という展示を見る。ここでいう手ざわりとは、彼ら製作者の手ざわりであって、展覧会の観察者には何の手ざわりも存在しない。正確に言えば、展示室にいる監視員が、そのような手ざわりを注意深く取り除いていた。作品には近寄らないで。下に引いてある線より中には入らないで。これはかなり愉快なことで、これを無限に批判するだけで白米がガンガン進むが、こういうのは遠回しにディスったり、扶養控除とかセレブバイトとかと一緒にゴリゴリにあてこすった方が面白いので触れないでおく。だがいつかやることにしよう。
写真について考えたり、絵を描くことについて考えたりする。私は芸術とほとんどかかわりがない。恥ずかしいことに、私はドの音がどれなのかさっぱりわからない。絵もほとんど描けないし、写真はボタンを押すことを知っている程度だ(あと、同好の士と暗い部屋で性交を行うのもエロ漫画で勉強した)。芸術に対してそれほど真剣になれないのだろう。
どこかのアーティストが白い服を着てどこか熱帯の森でライブペインティングをしている。絵具を手のひらに出して、白いキャンバスに塗りたくっていく。おそらく熱中しているのだろう。自分はこういうことはできないな、と畏敬の念に打たれる。自分のことを作品だとは――少なくともある種の反射なしには――絶対に思うことができない。
犬の写真がある。アイヌ犬のウパシというらしい。犬はいいな……と思っていると、ウパシが北海道の雪深い森の中で手負いの鹿を追い詰める。鹿が小さな声で鳴く。写真家が引き金を引く。鹿は死ぬ。腱が干されて犬がかじるのだろう。温かく穏やかな北海道の冬……壁には猟銃の薬きょうが張り付けられている。世界には色々な表面がある。今に始まったことではない。チョコレートに涙の味がある。会場のざわめきを聞いていると、どうやら作者のXがあるらしい。見たくねえなと思ってしまう。「#今日のいぬ」みたいな写真が貼ってあったら……。
展覧会を出ようとすると、監視員が「全ての展示は見たか」と聞いてくる。なんとも答えようがないなと思いながら「すべて見ました」と答える。太った女性の監視員は通路の真ん中から動かない。「APIを設計する際にどのプロトコルを選ぶべきか?」と彼女が尋ねる。利用方法に依存する、と模範的な答えを私は返す。しかし、GraphQLはクエリ複雑度を制御するのが難しく、gPRCはユーザーへの学習コストが大きいため、外部サービスとして公開するならREST APIを使うだろう、と述べた。彼女は静かに身を引いた。
美術館の2階でアイスコーヒーを飲む。エアコンが効きすぎていて、まだ暑いというのに店員は厚着をしていた。吐く息が白かった。テーブルには氷柱が立ち並び、アイスコーヒーは数口吸っただけで完璧に凍り、グラスにひびが入った。老婆たちが身を寄せ合い体温を融通しあっている。お互いを冷たい眠りから守るために古い思い出を言葉で燃やしていた。しかし彼女たちの誰も何も聞こえなかっただろう。あまりにも寒く、もはや音を伝える媒質が振動しなくなっていたからだ。
17時半にカフェを出て、駅に戻った。飲み会で待ち合わせている人たちがいる。観光に来た家族連れが帰ろうとしている。カップルがどこで食事を取るかで相談をしている。外国人観光客がスマートフォンを持ちながら空中のどこかを指しあっている。多くの人が何らかの決まりつつある未来に向かっている。
電車に乗り込む。車内は蒸し暑かった。前に座った変なドイツ語のTシャツを着ている青年に承諾を得て、窓を少し開ける。まだ夏だな、とぼんやりと考える。窓の外で木々や壁、そして低い空が流れていく。どこかの神社に詩が書きつけられている。
JRよ
(振動、騒音を出すな)
神社横で貨物の入れ換をするな
電車が止まる。鳥が一羽、細く開いた窓からやってくる。私のむき出しの腕に止まる。爪が肉に食い込む。痛くはない。私は彼のことを眺める。どうして何度も私の元に訪ねるのかと聞く。私は六道を信じてはいないんだ。
鳥が跳ねるように私の腕を歩く。電子レンジを使ったことがあるか? と鳥が訊いた。私は頷いた。バカみたいに賢くなったような気分にならなかったか? と彼は聞いた。初めて使うのに、全てのボタンの意味が分かるなんて、自分はホントバカみたいに賢いなと思わなかったか、と彼が続けた。
電車が急ブレーキで止まった。Emergency break has been applied。
私は頷いた。それは私が同じようなインターフェースをそれまでに何度も使ってきたからだし、パナソニックの設計者が慣例――使用者との契約――に従っているからだ、と答えた。もし何もかもがそうだったらどうする? とハクセキレイが尋ねた。彼が小さく開いた窓に戻って飛び立った。電車が小さく震えるのが分かった。そして15号車から順に大きい緑色の鳥になって飛び立っていった。