人を見つけるために古いゲームをやる

Final Fantasyシリーズを1からやり直した。もちろんリメイク版だ。FF7をやっていないのは、中学生の時にPSPで『クライシスコア/CC』をやり続けたせいだ。ある種の受け入れがたい不整合がCCと本編にはあり、それが私を本編から遠ざけている。だがこれは主題ではないから深くは説明しない。

ffのSteam上のリスト

だが、実際はゲームの話などしない。1999年に販売されたゲームの内容の話をして何になるだろう? 今となれば、攻略サイトは無数にあるし、YouTubeにプレイ動画もある(おそらく実況している美女もついてくる)。FFについての哲学書すらある。

これから私はブログ(weblog)の話をする。これはかなり時代に取り残されている話だから(なにせブログの話だ)、古いゲームを媒体にするのがいいだろう。古いワインが新しいガラス瓶に入っていることはない。


FF8の記憶は私が子供のときにさかのぼる。昔の記憶にはありがちなことだが、私は天井から和室を見下ろしている。自分自身の頭を眺めている。天使が踊れそうなほど狭い和室に、プレイステーションの箱が置いてある。

兄が開封の儀を執り行う。どんな匂いがしたのかは覚えていないが、コントローラーのあの灰色は覚えている。裏面が黒いディスクを私たちはぼんやりと眺めた。そこに何が書かれているかを知ろうとした。ラジカセの蓋を開いて『Gジェネレーション』のディスクを再生しもした。

FF8はしばらく後にやってきたソフトの1枚だった(正確には4枚)。私はリビングで宿題の足し算のカードをめくりながら、兄がそれをやるのを見ていた。宿題は『たしざんカードを5周する』だった。ここには仏教的なものが感じられた。ゲームの内容はほとんど覚えていない。兄はいつも大統領に擬態したゾンビと戦っていた。主人公がスコールでヒロインがリノア。灰色のメッセージウィンドウと、ボス戦のBGMを覚えている。

結局、兄弟のうち、誰かが最後までクリアしたのだろうか? リノアとスコールはきちんと再会できたのだろうか? 私が友達と遊んでいる間にきちんとスコールたちは物語の最後まで行ったのだろうか? それとも旅の途中でずっとセーブデータに取り残されて、やがてレジェンドオブドラグーンとかファンタシースターとかにその 記憶領域 ( メモリーブロック ) を明け渡したのだろうか?

答えはもはやわからないし、知るすべもほとんど残されていない。私はFFXから始めたから、FF8はずっとクソゲーだと言うことになっていた。システムが面倒でヒロインがクソ。普通にコミュニケーションをとる分にはこれで問題がなかった。たまに間違えることすら問題にならなかった。ああ、FF8ね。システムがクソでヒロインが面倒。


自然言語の一部の研究者が言うように、物事の意味がその用法によって決められるなら、私たちが物事について語ることも――それがいかにそのものと関係なかろうと――逆にその物事について語っていることではないだろうか。(cf. マクガフィン


RPGをクリアするたび、私は、インターネットで「『ゲームの名前』 感想」という検索をかける。例えば、「FF8 感想」だ。あほみたいだが、やっているのだからしょうがない。そして出てきた個人のブログを色々眺める。彼らが運用したジャンクション戦略に感心したり、おそらくもはや二度と起動しないゲームの攻略情報を知ったりする。

そして彼らの他の記事も読みふける。彼らが人生について考えていることを読む。時間も場所も違う、もはや更新されることのなくなってしまったページを掘り起こして、いくつかメモを取る。FF8が我々を結び付けている。私はかなり前からこういうことをしていて(WindowsXPが載っていたSOTECのStation Eの時代から)、おそらくこれからもずっとこういうことをやっていくのだと思う。


kurosanakaという人がFF8について書いている。おそらく私と同年代だろう。彼はFF8が本当に好きなように見える。愛しているとまで言っている。子供のときに夢中になったゲームが20年経ってリメイクされる。

私はこれをとてもいい話だと思う。皮肉では全くない。私にはそのようなゲームが思いつかないので、より一層、感動的に聞こえる。私にとって懐かしいゲーム――テイルズウィーバー――は自身の名前に忠実であって、20年以上も物語を紡いでいるからだ。

彼はリメイク版を2019年の9月ごろに始める。そしてその攻略を日記として日々アップロードする。私はその記事を一つ一つ読んでいく。彼は物語のコマを少しずつ進めていく。全てを知っているからこそ、意味深な問いかけを残す。きっと彼の記憶と同じようにスコールはリノアと出会う。衝撃の真実が何の前触れもなく明らかになる。スコールはリノアにいつの間にか恋をする。昏睡状態の彼女を背負って一人で線路を歩きだす。仲間が待っていることを彼は知っている。FF8は、ひどく適当なところとひどく繊細なところが無造作に張り合わされている。それが少年の恋の物語だからだ。彼は物語を進める。

そして、最終ステージの8体のボスのうち、6体を倒したところで、彼は更新をやめる。クリアすればわかるが、残りの3体はそれほど強力ではなく、ラスボスも何回か挑戦すれば余裕で倒せる。また、すでに一度クリアしている人にとって、FF8の難易度はそれほど高くないだろう。そもそも、彼は9月の初めに「三周はする」と豪語していた。

彼がけっきょく、FF8をクリアしたのか、それとも何らかの要因――大学の夏休みが終わるとか、いきなり人生の全てがめちゃくちゃになるとか――があって、物語の最後まで行きつかなかったのかは定かではない。そもそも、FF8がきちんとした物語の終わりを持っているかも議論になる。

ただ、私は彼の書いた他のブログを読んで、ある種の共感を持つ。彼が命について書いたことを読んで、自分の人生についてしばらく考える。彼がアップロードした故郷の新潟の写真を見て、いつか足を運んでみようと思う。それらはどれもいい写真だからだ。そして気に入ったページを一通り保存して、ブックマークに入れる。


また、のりぴょんという人がいる。彼もFF8についての記録を残している。彼の感想に同意したりしなかったりする。例えば、私は有名な――悪名高い――次のシーンを、本当にいい場面だと思う。彼も同様のことを述べる。

(色々あって、リノアは昏睡状態から覚めるや否や宇宙空間に放りだされる。色々あって、スコールは彼女を助ける。その次のシーンがこれだ。人生がそうであるように、FF8も色々あるのだ。彼女はこの後、「触れていたいよ、生きてるって実感したいよ」と言う。不安定な10代後半の子供たち。とてもいいシーンだ)

私は彼の他のページを何個かザッピングする。面白そうなカテゴリに関してはさらにタブを開く。日記は1年ぶんくらいを読む。彼のパソコンの変遷を見たり、レゴに感心したり、拡張子が.htm なのを見て、おそらくPC歴が長いのだろうと想像したりする。ニンテンドー64のレースゲームについての記事は保存する(何かに使えるかもしれないから)。ウェブページをブックマークに入れる。その他にもいくつかのブログを回る(レトロゲームに愛を込めてにも素晴らしい記事がある)。



私はかなりろくでもないことをしている。というのも、私は自然観察のようにブログを見て回っているからだ。私は特にプライバシーや個人的なところに踏み込まれてはいない。安全圏からなんとなく眺めて、今後使えそうなものを保存している(思い出してほしいが、友人に対してこういう言葉遣いはしないはずだ)。おそらく何年か後に小説のネタにでもするかもしれない。会社の雑談にでも使うかもしれない。理由は何でもいい。

古代――私がまだブログを持っていなかったとき――交流はおそらくより双方向のものだったらしい。少なくとも生き残りたちはそう語る。お互いにメッセージを送りあい、リンクを張る。記事が更新されれば見に行くし、影響を受けた記事を書く。トラックバックが実装されてからは、その交流はより密になった。その環境はブロゴスフィア(とてもいい名前だ)と呼ばれた。いまもそれは形を変えて残っているが、プラットフォームは変わっている。

私は残された古代の領土――もはやあまり手入れされていなくて、朽ち果てた街路の並びにいくつかの家がまだ明るい灯をともしている領土――を歩いている。人のいた痕跡を見つけては採集している。そこには誰かがいて、そのはっきりとした心の動きがあって――私はそれと距離をとって観察できる。最終更新日がそれとなく示唆する独特な切なさを感じる。廃墟趣味が自己憐憫的な悪趣味なら(そうなのだが)、ブログを巡回して保存するのも同じ誹りは免れない。

おそらく、私がブログをたまに更新するのは、こういった後ろめたさもあるだろう。私はブログを書く。それは人類にとっては全く意味を持たないが、少なくとも、これからも出てくるウェブの廃墟趣味の人にちょっとした満足感を与えることはできるだろう。2024年にも1999年のゲームをプレイした人はいる。使ってくれて構わない。