日記を書く日々に戻る
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すっかり書かない日々が続いていた。理由は単純でやる気を失っていたからだ。 何回も落ちるとやる気を失う。当たり前のことだ。
(2023/07/30 第一稿)
上大岡のTOHOシネマズで『君たちはどう生きるか』を見た。それから戸塚に帰った。私は戸塚に住んでいる。全裸中年男性の町だ。駅を降りてから、自分が財布を忘れたことを思い出した。コインパーキングの前で私は立っていた。ポケットを探した。リュックの中を探した。蝉が近くの木で鳴いていた。自動販売機の下を探した。
銀行口座の預金もマイクロソフトの株も何にもならないことを悟った。恋人の死の前にたたずんで、彼女と遊んだトランプの束が、埃をかぶって窓際に置かれて夜に包まれてこのままカラスたちの慰みものになるトランプの札たちが(何枚かの札が抜けてしまっていて、はるか昔に使い物にならなくなっていたそのトランプが)もう使い物にならないのだと知った19世紀のロシアの侯爵のように。
クンデラが死んだ。私は小説と作者に区別をつけるし、原則として一度書かれた小説は書き直されることがないのだから、クンデラが死んだところで私の本棚が変わることはない。ただ、また一匹の熊が舞台を去り、そのことを残念に思う。
コーマック・マッカーシーが死んだ。死んだ有名人に対して何か取ってつけたようなたわごとを述べるのは私は好きではないし、マッカーシー本人もおそらくは自分の死について何かを述べられようとも思っているまい。舞台には一匹の熊が躍るだけの空間しかなく、彼もまた踊り疲れて死に寝首をかかれた熊だ。
ただ、彼は私の読んでいた数少ない存命作家のひとりだった。これは(もちろん虚偽のものなのだが)日記なのだから、自分の心に浮かぶことを少しだけ書いておこう。