海岸になった友人
知人が海岸になった。しばらく前の話だ。一年くらい前だった気がするが、はっきりとは覚えていない。何の花が咲いていたのかも思い出せないくらいだ。大学院生の時間軸というのは多かれ少なかれ混濁している。
知人が海岸になった。しばらく前の話だ。一年くらい前だった気がするが、はっきりとは覚えていない。何の花が咲いていたのかも思い出せないくらいだ。大学院生の時間軸というのは多かれ少なかれ混濁している。
久しぶりにブログを更新する。明日もするだろう。
文章をまた書き始めている。ネットで私ではない誰かが、一度やめた小説をもう一度書き始めていた。この停止と再開は何度も繰り返されてきたと注意した後で、彼女は、「自分のいる場所に錨を沈めるように小説を書くのをやめていた」と言っていた。これはなかなかいい言葉だったから、ここで改めて書いておく(そしてリチャード・ドーキンスの顔を思い出す)。
村上春樹の『街とその不確かな壁』(以降、『街と』)が出た。もちろん読んだ。小説の内容については次のページに詳しく書かれている。私はこのあらすじ以上によいものをかける気はしない。だから、あらすじを求めてこのブログ記事を読むのは間違えた考えだ。
これは極めて久しぶりのブログの更新で、しかもきわめて個人的なことでもある。だから、もしかしたら、このような記事を書くのはプライバシーの観点から問題があるのかもしれない。しかし、もはやこのブログを見ている人は誰もいないだろう。また、より一般に、ブログというのはほぼ死滅した表現形式だ。ブログの形式をもって書かれた小説は極めて多いが、それがたどる運命はメールの形式をもって書かれた小説(『バビロン・ゲーム』を挙げよう)とほとんど同じ軌跡を辿っている。これは全く悲しむようなことではない。ただ、私は二十年前に生まれてきたほうがよかった気はする。