Tシャツについて
日記
私がどこにいるのかというと、研究室だ。今日は土曜日。二日連続で飲酒をした次の日。全く何もない日。六月の憂鬱なところは、常に誰かをだましているような気分になるところだ。花の色も変わってしまったことだよ。私が長い雨を見ながら物思いにふけっている間に。
なんでもいいか。
私がどこにいるのかというと、研究室だ。今日は土曜日。二日連続で飲酒をした次の日。全く何もない日。六月の憂鬱なところは、常に誰かをだましているような気分になるところだ。花の色も変わってしまったことだよ。私が長い雨を見ながら物思いにふけっている間に。
なんでもいいか。
ある種の考え方が、ある集団の中で《暫定的に正しい》と言われるのは、その考え方に対する反論を、その集団の中から、自由に提出することができ、それらの集団が、反論に対して反駁を行うことができ、そして実際にこれらのことが行われるときであり、そのときにのみ、こう言うのだと、私は思うが、多くの場合、この基準は、正しさの概念を使おうとする人にとっては厳しすぎ、使われる側にとってはゆるすぎる。
とんでもなく長い一文を書いてみようと、私は思っただけだ。(ところで、『私は思う 』という言葉は、何を含意しているのだろう? 『私は思う』ではないことで、それでいて私の中にあるものがある? 感じる等々? 私は言語をあまりにも粗雑に扱うのだが、この理由は、言語が十分に強靭だと、私が……ううん!)私は日本人のように日本語を書きたくはない。私はもっとへたに書きたい。間違えた言葉と厳格な文型を、私は使いたい。もっと少ない言葉の種類を使って私は書きたい。おそらく私は単に書きたい。
まずはタイトルについて謝罪する。私はこれから、政治的に神妙な話を、真剣な顔つきでするつもりはない(もしかすると、私は形容詞を交換したほうがよかったのかも知れない。真剣な話を神妙な顔つきでに。しかし、オリジナルのほうが、私には好ましく思われる……私はオリジナルの方を好む……オリジナルのほうが私は好きだ。未成熟な私の言語野)。
今日は土曜日、先週は来なかった聖人たちが、福音書をiPadにおさめてやってくる日だった。しかし、私は誰とも会いたくはなかった。多くの人が、このような日をもっていることを、私は知っている。彼らは、それを、二重にロックが掛かった下着入れの中の箱に詰めてしまっておく。または恋人と分け合ったりする。または排水口に流してしまう。または、それに気がつかないまま、ずっと血を流している。私は単に露悪的なだけに過ぎない。あなたは、単に、これが許容されうることだと、分かっていないだけだ。
だから、私は昼間、コーヒーショップで時間を潰して、図書館で調べ物をして帰った。平成という時代についての本を読んだ。何枚かメモを取った。平成とは――とその本は言っていた――自由と、その代償となる代替可能性の時代である。もっとよい物が常にある時代である。ここで、その妥当性を検討することはよそう。ただ、私は勝利を宣言したくはない。そして、私をもって誰かの勝利だともされたくはない。といっても、私はびびっているだけだが……。
私が部屋に戻ってから、彼らが訪ねに来ることはなかった。私はほっとした。これによって、私は誰かに勝ったのだろうか? 例えば、洗脳されたくないのにされつつある少年などに? そうでないといいなあと私は思う。
日本に帰ってきた。日本での火曜に離陸し、アメリカに火曜日についた。そして、アメリカを日曜日に発ち、月曜日の夜に帰って着た。
会議自体は非常に楽しく、今、生物学、特にゲノム科学の業界において何が行われているか、そして、彼らがどのようなところまで分かってくれるかを知ることができた。具体的には、ゲノミクスという分野では、まだGWASが広く使われているということ、連鎖不均衡や、missing heritability は認知されていて、GWASを捨てるというよりは、困難を取り除くことで、まだ使えるものにしようとしたいらしかった。おそらく、見たマンハッタンプロットの数は50枚は行っていると思う。
さて、明日から旅行に出かける。外国に行くのは初めてで、したがってテンションが上がり、こんなところに書きつけているわけだ。一方で、FacebookやTwitterにこのことを書く気力はない。「あの野郎、自慢しやがって」と思われるのがオチだし、まさにそうしようと思って言うのだから当然とも言える。
このどえらい穴蔵、『地下室の手記』でネクラーソフがどえらい穴蔵といった半地下の部屋みたいなこのブログでくらい、まあ自慢させていただきたいものだ。それにしても、このブログはまさに半地下みたいだ。外の様子ははっきり見えるが、他の人がここを見ているとは思えない。しかし、それでも見せてはいるのだ!
穴蔵といえばアナグラムだ。コンピュータサイエンスの初心者にとって、与えられた文字列を、単に並び替えた文字列を吐き出すこと(これは文字列長の階乗個くらいある)、そして、その膨大な並びの中から、意味のあるものを取り出すことは、必ず一度くらいは通る実践である。
そのようなものの中には、私が天啓と思うようなもの、昼間から金麦とか麦やホップといった発泡性のリキュールを飲んでいるときに吟ずるタイプの無意味さに近いような無意味さを持っているものもあり、私には到底、こう言ったシステマチックな偶然が、とても役に立たないものだとは思えない。
ところで、前の方の席でディスカッションをしている先輩が、「評価される項目をわかりやすくしたほうがいい。『素晴らしい青春の1ページになる』と言いたいんだったらそう書かないといけない」と言っていた。多くの場合、自信のなさが暗黙的なところを生み出す。ピンチョンもそのようになったのだが、全てをつまびらかにした後で、ひたすらにポップで俗っぽいところまで行き着いた後に、それでも残る深みというものが大切なのだろう。