日記
我々は専門用語を用いるときに、多くの場合、ただ一回のみ定義が上書きされることを措定している。
例えば、我々は『リアリズム』と言った言葉を、国際関係を述べるときにおいては、ある種の悲観的な立場のことだと捉え、
特別な注釈や、議論がよほど行き詰まったときでなければ、これらの定義を振り返ることはしないし、
別の場所(例えば美術における)『リアリズム』と混同することもない。
この一回きりの定義という条件が成り立ち、日常用語を上書きすることによって専門用語を構築している限りにおいては、
用語の定義の順序にはさほど気を使う必要がない。
というのも、私たちは必ず一意に定義の鎖をたどっていき、それは日常用語か、上書きされた一つだけの用語に落ち込むのだから。
ところで、実験用のマウス、と言ったときに、バイオインフォマティシャンたちは何を思い出すのだろうか?
この愛しい赤い目の白いふわふわのことだろうか? それとも、この赤い光線を出すなんとも健気な機械に対してだろうか?
これもまた別の種類のたわごとで、私がこの話を日記として書こうと思ったのは、単に、日記という名前に、私があまりにも注意を払ってこなかったことに気がつくためだった。
(読者への注:このような動機で書くことは可能なのだろうか? つまり、すでに気がつこうと決心したことに、再び気がつくことは。私にはよくわからない。私は自分に言及しすぎることはわかっているのだが。)
これもなんでもいい話だった。