様々な先送り
日記
ある種の考え方が、ある集団の中で《暫定的に正しい》と言われるのは、その考え方に対する反論を、その集団の中から、自由に提出することができ、それらの集団が、反論に対して反駁を行うことができ、そして実際にこれらのことが行われるときであり、そのときにのみ、こう言うのだと、私は思うが、多くの場合、この基準は、正しさの概念を使おうとする人にとっては厳しすぎ、使われる側にとってはゆるすぎる。
とんでもなく長い一文を書いてみようと、私は思っただけだ。(ところで、『私は思う 』という言葉は、何を含意しているのだろう? 『私は思う』ではないことで、それでいて私の中にあるものがある? 感じる等々? 私は言語をあまりにも粗雑に扱うのだが、この理由は、言語が十分に強靭だと、私が……ううん!)私は日本人のように日本語を書きたくはない。私はもっとへたに書きたい。間違えた言葉と厳格な文型を、私は使いたい。もっと少ない言葉の種類を使って私は書きたい。おそらく私は単に書きたい。