『LAヴァイス』
『LAヴァイス』メモ
トマス・ピンチョンが書いた『LAヴァイス』を読んだ。最近、少しひどい本が多く(『オールドパンク・哄笑する』はほんやくがちょっとひどすぎてワロタぞ)、ディプレッションに悩まされていたが、この本はかなりなかなか結構良かったので、メモを残しておく。
トマス・ピンチョンが書いた『LAヴァイス』を読んだ。最近、少しひどい本が多く(『オールドパンク・哄笑する』はほんやくがちょっとひどすぎてワロタぞ)、ディプレッションに悩まされていたが、この本はかなりなかなか結構良かったので、メモを残しておく。
飲み会を二日連続で行った。頭の中がすかすかになる。ワーキングメモリーがほとんどなくなる。映画でさえ見てられない。考えがばらばらになっている。
今日はエホバの証人が来なかった。ついに私も見捨てられたということだろうか? それはそれで、合理的なことだと、私は思う。
二十五歳以下の若者にはありがちなことであるが、この世の、あらゆる問題に対する、完璧な解を与えられると、私も思っていて、全ての言葉が、ふくよかな銀髪をたたえた老人どもがどえらく構築しやがった蒙昧に対する、最終通告になると勘違いしているのだが、要するに、時間には限りがあるということだ。もう一年近くも、ヘラヘラ笑っているだけのやつを勧誘することで、彼らの地位が、彼らのコミュニティの中で上がるとは、考えにくい。
なんでもいいか。
本を数冊読んだ。ひたすらに調査を続けている案件もある。まだ時間がかかりそうだ。ある種の人々は、あまり調査しすぎるのも良くないというが、ぼくはまた、”あまり調査しすぎる”の段階に入っていない。巨人の肩に乗るのは難しいが、足元にもたどり着いていない学生が、そういう事を言うのは、時期尚早というか、傲慢というものだろう。
なんでもいいか。
土曜日はいつも遅くまで――九時くらいまで――寝ている。この日は目覚ましを掛けていない。何にせよこのくらいになると起きなければならない。というのも、エホバの証人がやってくるからだ。こっから先はちょっとセンシティブ情報で、検閲だ。
ブコウスキーの The captain ... を読み終わり、Portions from a wine-stained notebook を読み始めた。実を言うと、日本語訳をすでに読んだことがある。こんなことをしてなんになるのかと聞かれれば、何にもならないと私は答えるだろう。
しかし、そもそも一体、何がなんになるのか? 諸行無常の響きあり。奢れるものもひさしからず。京都の街が焼けたのは、単に防火防災の観点を都市設計者が取り入れなかったという、無知に帰すべき事柄だが、一方で地球がそのうち単に消えて無くなるだろう、という天文学者の意見は、つまりこのようなことである。
我々の生は、要するに全く、本当にびっくりするほど全く意味がなく、而して、どのような行動も何にかはせむと言ったところだが、あなたが関知するところにおける誠実な人生というものはあり、それに関してはあなたは妥協しないでいるはずだ。
これは本の話のはずだった。私は――あなたたちと同程度に――病んでいる。要するに支離滅裂ということだ。無くて七癖という詞書もあることぞかし。話を始めると、私はどうしてもひどい場所まで行き着いてしまう。こちらがひどい場所になります。ごゆっくりどうぞ。
暖かい日が続く。嫌な気分だ。春と夏は暑いから嫌いだ。痩せればどうにか過ごせるようになるのではないかと思い、痩せては見たものの、相変わらず夏は嫌いなままだ。
そもそも、人間は零下でもなんとか生きていけるというのに、たかが五十度で死んでしまうではないか。これはすなわち、人間は一般に暑いところに向いていないということではないだろうか? 夏が好きな人物は、むしろ温暖化に適応しかけている新人類として称揚すべきだが、それが一般に成立するものではなく、むしろ冬が好きな人々の方が原初の形であったのだということは、いくら強調してもしすぎることはないほどだ。
以上が冗談であった。豈豈、如何すべし。